聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第62回「神の国を求めなさい」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 イザヤ書 40章6~11節
新約聖書 ルカによる福音書 12章22〜34節

 

 

22節
今日読んでいる箇所に記されているこれらの言葉を主イエスはだれに対して語られたのでしょうか。ここに書かれている、空の鳥を見なさい、野の花を見なさいと言うこれらの言葉は主イエスの語られたお言葉の中でも、最も分かりやすい、だれにとっても理解できるような言葉です。でも、これらの言葉は主イエスの弟子たちにむけて語られています。誰でもわかるからとい言っても、主イエスはこれを一般的に、広く、すべての人に向けて語られたのではありませんでした。
主イエスはこれらの言葉を語りかけるに当たって、弟子たちに「小さな群れよ」と呼びかけておられます。「小さな」の後に続く「群れ」という言葉にも原語では、ただの群れでなく、小さな群れという言葉が用いられていて、原語のニュアンスを汲み取れば、小さな、小さな群れということになるでしょうか。
それくらい、恐れざるをえないほど小さい、今にも消滅しかねない小ささ、人数的にも少ないし、何より力を持たない、影響力もない、世の目から見て小さな存在でしかない弟子たちに、主イエスはこれらの言葉を語りかけておられるということです。

先週、福岡城南教会の会員であった高原東洋子さんが亡くなられました。82歳でした。わたしは、高原さんが亡くなられてはじめて、生前知らなかったことを知りました。みなさんにとってはなおさらのことだろうと思います。高原さんの生い立ちは恵まれたものではありませんでした。1942年、戦争のさなかに生まれ、戦後間も無く、母上も父上も亡くなって、幼くして親戚に預けられたとのことでした。中学を卒業すると、美容院に住み込みで働き始められました。高原さんが働いていた美容室にたまたま福岡城南教会の会員で永田瑠璃子という方が通っていて、高原さんの担当だったことから、その姉妹を通して城南教会に導かれ、やがて洗礼を受けられ、青年会の交わりにも加わられたとのことでした。恐らく、当時も、今もこの教会の会員の中に、中卒で社会に出て働くという境遇にあった方は高原さんを除いてはおられないのではないかと思います。

頼りとしうる後ろ盾となる両親がいない。それは就職であれ、結婚であれ、社会で生き抜いてゆく上でどれほどのハンディとなり、不利だったことでしょう。かといって学歴があるわけでもない、そういう弱い立場に、高原さんは置かれていました。それでも高原さんはそのような逆境にあっても、いつも笑顔で明るく生きてこられました。

今日読んでいる箇所で、主イエスは烏のことを考えてみなさい、と言われます。カラスは種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。烏はゴミを漁って食べています。それでも生かされています。それは神さまが烏を養ってくださっているからです。また野原の花を見なさいと言われます。パレスチナの野には一面に紫色のアネモネが咲き乱れるそうです。その見事さは息をのむようで、栄華を極めたソロモン王がまとった紫色の王のガウンよりもはるかに美しく、鮮やかだと主イエスは言われます。

烏も野の草花もその命は神が創造され、神によって養われ、保たれています。神はご自身が創造された烏の命も、今日は野にあっても、明日は炉に投げ込まれる草の命でさえ愛し、心に留め、その命を保っておられます。そうであるなら、神は、ご自身が創造されたあなたがたの命とからだを、養い、保ってくださらないはずはない。あなたがたは、鳥や野の花にはるかに優ったものだからだと主イエスは言われるのです。

あなたがたの命とからだを創造し、それを養い、保ってくださる神は、あなたがたの父として、あなたがたを愛しておいでになる。神はあなたがたの父として、あなたがたが何を必要としているか、あなたがた以上によく知っておいでになる。そして、それを必ず与えてくださる。

食べるべき食物や、着るべき衣服は、神が与えてくださった命やからだを保つために必要な手段です。だから、あなたがたの求めるべきは、それら、命やからだを保つための手段に過ぎない食物や着物ではなく、その目的である命とからだを創造し、それを保ってゆかれる神の御心であり、神の愛であり、神の御支配である神の国なのだ。言い換えれば、神がわたしたちの父であってくださり、わたしたちが神のこどもたちとされることを求めなさい、そうすれば、父はわたしたちが神様のこどもたちとして生きてゆくのに必要なものはすべて与えてくださる。それゆえ、主イエスが先に命じて言われたように、わたしたちはまず聖霊を求めるべきなのです。そして神を父とする神のこどもたちにしていただきなさいと言われるのです。

32節
「喜んで」、つまり小さく、本当に恐れざるを得ないほどに小さい群れに神の国を与えることは神の喜びなのです。神にとって、ご自身が創造された一つ、ひとつの命が養われ、保たれて、小さな存在が神の愛のうちに、平和と喜びのうちに生かされてゆくことは、何にもまさる喜びなのです。

33、34節
そのような神の国、神がわたしたちの父として、わたしたちを愛し、守り、導かれる、恵みの支配を神からいただくとき、わたしたちはあらゆる思い煩いから解放されて、感謝と喜びのうちに、静かに平和に生きてゆくことが許されます。それはまことに大きな恵みです。感謝しても感謝しきれないほどの喜びです。それは神さまから一方的に与えられる恵みです。わたしたちが代価を支払うこともなく、無償で、ただでいただく恵みです。
しかし、同時に、その恵みは、わたしたちを受け身に終始させるのでなく、わたしたちが恵みに応えて、積極的に生きるようにする恵みでもあります。

神は、神の創造された命を愛し、養い、保たれるお方として、惜しみなく恵みと賜物を与えられますが、その神に倣って、わたしたちも、わたしたちに与えられた力のはかりに応じて、自分自身を、自分の能力、賜物、富と時間を捧げて、神の創造されたすべての命、神が養い、保とうとされる隣人の命、自然界の命を、神とともに、神のために、愛のうちに養い、保つために働き、生きてゆくのです。
それが、わたしたちにとっての天に積む宝、富です。わたしたちの喜びとする宝は神の宝であり、わたしたちが心から愛する富とは、神にあって富む富のことです。それは自分のために地上に宝を積み、地上の富を喜びとする生き方ではなく、神の恵みを喜び、愛し、神と隣人を愛することを喜びとする幸いな生き方です。

終わりに、主イエスがこれらの言葉を弟子たちに語りかけるときに弟子たちを「信仰の薄い者たち」と呼んでおられることを見ておきたいと思います。先に主イエスが弟子たちに「小さな群れよ」と呼びかけておられるのを見ましたが、弟子たちはその存在が小さく、小さくて、恐れざるを得ない存在であるばかりでなく、信仰もまた小さいゆえに恐れなければならない者たちなのです。でも、そのような信仰のはかりが小さく、弱い、恐れに満ちている弟子たちを、主イエスは高飛車に叱り飛ばすようなことはなさらないのです。そうではなく、弟子たちに、信仰が薄くて、恐れに囚われてばかりいるあなたがたを、神さまは空の鳥、野の花にまさって愛しておられると語りかけてくださるのです。

わたしたちも小さな群れです、信仰の薄い者たちです。でも、もう恐れるのはやめましょう。小さくても、否、小さく、弱いわたしたちであるからこそ、いっそう大きな愛を注いで、守り、導こうとされる父がおられるのです。それゆえ、小さな存在として、神の国に生きてゆきましょう。小さな、小さな群れが、恐れないで神の国に生きてゆくとき、辛子種がどの野菜よりも大きくなり、目に見えないパン種がパンの塊を膨らませるように、神の国の栄光が現れるのです。

父と子と聖霊の御名によって。