聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第61回「神の国を求めなさい」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 エレミヤ書 17章5~8節
新約聖書 ルカによる福音書 12章13〜21節

 

 

(1)
今読まれた箇所の最後、21節に「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」とありました。
「神の前の豊かさ」ということがここで言われています。豊かさとは何か、本当の豊かさとは何かが、今の時代にも問われています。日本はこれまで世界でも豊かな国、富める国の一つであると見られていましたが、最近、それが変化してきています。今でも世界で一番富める国といえば、アメリカでしょうが、アメリカを旅行すると、世界で一番豊かな国に驚くほど多くの路上生活者がいるのに驚かされます。アメリカは世界一豊かな国ではありますが、同時に貧富の格差がアメリカほど大きい国もありません。一方に一握りの巨万の富を持つ人々がいて、他方にホームレスの人々が溢れているような国が、本当に豊かな国と呼べるのでしょうか。それは主イエスが批判しておいでになる、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない」姿そのものなのではないでしょうか。今日、わたしたちは「神の前に豊かである」とはどういうことかを、聖書のこの箇所から聞いてゆきたいと思います。
(2)
今日の箇所を読みますと、ここには「言った」という言葉がなんども繰り返されていることに気付かされます。「言った」という言葉がほぼ全部の節にあります。
だれがだれに「言った」のかは様々ですが、中でも一番印象的なのは、譬に出てくる「愚かな金持ち」が、自分の魂に向かって言う場面と、それに続く、神が彼に言われる場面です。
前者は自分が自分の魂に向かって語る、いわば独り言です。それに対して、後者は魂の創造主であられる神が、神によって造られた魂に対して決定的なことを語られる場面です。
魂を表す聖書の言葉は、旧約聖書ではネフェシュ、新約聖書ではプシュケーと言いますが、いずれも息という言葉です。神が最初の人アダムを土の塵から創造されたとき、神が土の塊に息を吹きこむと、人は生きたものとなったと言われています。神が人の中に吹き入れた息が魂と呼ばれるものです。神が人に息を吹き入れたことにより、人は息をするようになる、つまり生きるようになる、その息そのものが魂であり、魂に人の命が宿っているのです。
それゆえ魂は生ける神に向かっています。神からの語りかけを聞き、神に向かって語りかけるのが魂の本来の姿なのです。しかし、この譬に登場する金持ちの農夫は、神からの語りかけを聞くのでもなければ、神に向かって語りかけるのでもなく、ただ、自分で自分の魂に向かって独り言をつぶやくだけです。彼の魂が耳を傾けるのは、せいぜい倉いっぱいに積み上げられた穀物なのです。しかし、穀物は彼の魂に何も語りかけません。
そのことは15節に記されている主イエスの言葉がはっきりと示しています。「たとい、どれだけの財産を持つ大富豪であっても、その人の命は、その財産にかかってはいない」のです。
世の中には「持てる者」と「持たざる者」、「富める者」と「貧しい者」がいます。「持てる者」は存在を保証され、生きてゆくことができるのに対して、「持たざる者」は存在を保証されておらず、生きてゆくことができないと考えられています。つまり、富の所有、財産の保持が存在を保証すると考えられているということです。しかし、主イエスははっきりとそれが偽りであると指摘されます。人の命、存在は所有によって保証されてはいない。どれほど莫大な富を有していても、その富はその人の命を保証するものではないのです。
魂、人の命は創造主なる神から授かり、ただ、創造主にして摂理者であられる神によって守り、導かれることによってのみ存続が可能なのです。富が命を保証するかのように思い込む人は、譬に出てくる金持ちのように愚かなのです。
(3)
主イエスが16節以下の「愚かな金持ち」の喩えを語られたのは、12節にありますように、群衆の中のある人が「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と言ったことがきっかけでした。
群衆の中から主イエスに叫んだ人は、おそらく二人兄弟の弟で、自分が旧約聖書の律法に定められている通りに死んだ父親の遺産を相続したいと望むのに、兄がそうしようとはせずに、自分の考えで遺産を分割しようとしているので、裁いて欲しいと主イエスに訴えていたのだと思われます。
しかし、主イエスは、主イエスに遺産相続の争いを裁いて欲しいと言うこの人の願いをきっぱりと退けられました。14節の主イエスの御言葉は、あなた方は勝手にわたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命しようとしていると言う主イエスの抗議である以上に、父なる神から主イエスがこの世に遣わされた目的や使命はこのようなことではないと言っておいでになるのだと思います。
そして、先ほど読んだ15節のお言葉が続くのです。つまり、主イエスが父なる神から遣わされた目的は、魂の創造主なる神にわたしたちが聞くこと、その神に向き合うことであって、わたしたちにとって一番優先することは生ける神からいただく命に関わることであり、その命を維持するための手段に過ぎないこの世の財産や遺産相続の問題のためではないということです。
ここで二つのことを見ておきたいと思います。一つは主イエスが警戒しなさいと言われた「貪欲」についてです。コロサイ書3章5節に「貪欲は偶像礼拝にほかならない」と言う言葉があります。どうして貪欲が偶像礼拝になるのでしょうか。
貪欲と言う言葉のギリシャ語の語源は「より多くを持とうとすること」です。特に他との比較において、他よりも自分の方がより多くを持とうとすることです。それによって相手よりも優位に立ち、相手を支配しようとすることです。
これはお金、財産、富の優位を追求し、他者を経済的に支配しようとすることにとどまりません。軍事的に、相手より少しでも多くの核兵器を保有して、他国に対して優位に立つこと、こうして相手を支配しようとすることに通じます。そのような軍拡競争には際限がありません。自分で自分をコントロールすることができないのです。自分で自分をコントロールできない、人間の力を超えてしまった力が人間を支配するのです。つまりそれが神になるのです。神ならざるものが神になる、まさに偶像礼拝です。
15節のお言葉について見ておきたいもう一つのこととは、主イエスの「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言うこの警告が、いったいだれに向かって語られているのかと言うことです。
このような貪欲に警戒しなさいと言われているのは、この世の人々、世界の指導者たちではないのです。他でもない主イエスの弟子たちです。群衆の中から遺産相続のことで主イエスに裁いて欲しいて訴えかけた人は、わたしたち信仰者と無縁ではありません。わたしたちにとっても遺産相続の問題は人ごとではないのです。その中で信仰者の間でも「より多くを持ちたい」と言う貪欲がありうるのだと思います。貪欲と言う偶像礼拝に注意しなければならないのは、教会の外の人たちだと言ってすませておけない、教会のまん中、信仰者の真ん中に「貪欲という偶像礼拝」が鎮座することがないようによくよく警戒しなければならないのだと言うことです。警戒すると言う言葉のギリシャ語の原語は「見る」と言う言葉ですが、わたしたちは見るべきお方、すなわち、わたしたちの魂が見上げるべき神から目をそらすならば、神ならざる偽りの神である偶像に目を奪われてしまう危険があるのです。
(4)
わたしたちの命、わたしたちの魂は、朝に夕に、絶えずわたしたちの魂に語りかけられる神の御手のうちにあります。わたしたちの魂が造られ、やがて神のみ許に召される日も神さまがお決めになります。今宵が最後だと言われれば、その通りになるのです。
その日が来るまで、わたしたちの命を養い、支えるために創り主であり、わたしたちのいつくしみ深い父である神さまは、わたしたちに必要なものは、日々与えてくださるのです。なくてならない必要最小限のものは必ず備えてくださいます。ちょうど荒野を旅するイスラエルの民を養うために神が朝ごとに天からマナが降らせてくださったようにです。マナは毎日、その日に必要な分だけ集めました。明日の分までとっておくことはできませんでした。多く集めた人もいましたが、必要以上に多く集めた人は、少なく集めた人に分け与えたのです。
信仰者はこの信仰、この知識と知恵をもって生きるのです。この知恵と信仰による知識を持たないことが愚かさなのです。
神はわたしたちに必要なものを必ず与えてくださいます。必要以上に豊かに賜物を与えてくださることもあります。必要以上に与えられた賜物は、だれのものでしょうか。金持ちの愚かさは、神様が与えてくださった収穫を「わたしのもの」と呼んでいるところにあります。人は裸で母の胎を出て、また裸で神のもとに帰ります。何一つ持たずにこの世にきて、またこの世を去る時は何一つ持って行くことはできません。それであるのに、これは自分のものだと主張できるものが一つでもあるのでしょうか。すべてのものは神さまのものであって、わたしたちのものではなく、一時的に神様から託され、預かっているに過ぎないのです。
それが神様のものであるということは、貧しい隣人に分け与えるために、神がわたしたちに託しておいでになるものなのです。
貧しい人たちは、わたしたちがその人々を助けるとき、わたしたちを神さまの手として受け止めます。傷ついた旅人を助けたサマリア人は、神さまの憐れみのみ手でした。飢え、渇き、裸で、住む家もない難民に食べさせ、飲ませ、住居を与え、その病を見とる人は、その人々にとって主イエスご自身、神の現臨そのものです。
ガザの人々は今、世界中から見捨てられた死の状況に置かれています。その死にゆく人々に助けの手を差し伸べる人々は、死の中に命をもたらす、神の僕であり、いける神の証人です。
(5)
神がわたしたちを愛されるのは、神がわたしたちを愛されるように、わたしたちが隣人を愛するためなのです。わたしたちの魂が神によって生かされるということは、神が愛の神であるように、わたしたちも愛の人になること以外ではないのです。
物質、富は神がわたしたちを愛される愛の手段であるとともに、わたしたちがそれを用いて隣人を愛する手段です。そのことが忘れられ、見失われて、手段に過ぎないものが目的化されること、物や富が神になってしまい、それに仕えるならば、わたしたちは、神を見失うことによって、自分の魂を見失い、隣人を見失います。自分の魂と隣人の命を失うのです。
わたしたちの魂が生きておいでになる神に聞くことをしないなら、わたしたちが信仰者と呼ばれ、教会と呼ばれていても、実際にわたしたちの間で起こるのは、数の優位、人間の名誉、人間の満足、欲望の充足の追求でしかないのです。
神はわたしたちを、そのような偽善から、恥ずべき偶像礼拝から、この金持ちのような愚かな生き方から、今日も主イエスを通して語られる生きたみ言葉によって解放してくださいます。神さまはわたしたちを思い煩いから解放し、空の鳥のように、野の花のように自由にしてくださり、聖霊による義と平和と喜びを与えてくださるのです。

父と子と聖霊の御名によって。