聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第69回
「桃栗三年柿八年」
説 教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 出エジプト記 31章 12〜17節
新約聖書 ルカによる福音書13章 6〜17節
今日の説教の題を「桃栗三年柿八年」という題にしたのは、今読まれた聖書の最初の「いちじくの木」の喩えに、3年たっても実がならなかったとあるのを見たからです。
桃や栗の木は苗木を植えてから3年目に最初の実がなるのに対して、柿の木は最初の実がなるまでに8年もの年数がかかる、木の種類によって、実がなるまでの年数が違うということです。
いちじくの木は植えてから何年経つと最初の実がなるのでしょうか。いちじくの木は植えてから2年目に実をつけ始め、3〜4年経つと安定した収穫が期待できるそうです。
ここで主イエスが3年経っても実がならないいちじくの木で喩えているのはだれのことでしょうか。また3年という年数は何を意味しているのでしょう。
3年という数字、それは主イエスがユダヤ、ガリラヤの町々村々を巡り歩いて、「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えられた、その宣教活動を開始されてからの年数でした。
だとすれば、3年経っても実がならないいちじくの木で喩えられているのは、主イエスから福音の説教を聞いたにも関わらず、聞いて信じるに至らなかった人々のことでしょう。
では、悔い改めて福音を信じた結果、結ぶ実とは何でしょうか。それは今日読んでいる後半の安息日に癒された女の人の話に出てくる、神を賛美したという賛美、また群衆がこぞって、主イエスのなさった数々の素晴らしい行いを見て喜んだ、そのようにして神の栄光をたたえたことが、実であると言えるでしょう。
いちじくの木の喩えから、安息日の会堂での話に移ってゆく時に、この二つをあえて結びつけるとすれば、いちじくの木が植えられたぶどう園を会堂に、そこで守られる安息日の礼拝をいちじくの木に重ねてみたいと思います。会堂というぶどう園に植えられた安息日の礼拝といういちじくの木が結ぶ実は神さまの栄光を表し、神さまに賛美を捧げることだからです。
安息日に癒された女の人の話で、わたしが一番こころを引かれるのは、14節の会堂司の言葉です。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうが良い。安息日はいけない。」
会堂司は会堂での安息日礼拝で、聖書を解き明かす説教者でした。先ほど読まれた出エジプト記のみ言葉に基づいて、こう語ったのです。それが会堂司の説教でした。このような説教を聞いて信仰の実、神さまへの賛美の実が生まれるでしょうか。
会堂司は群衆に向かって語ったと書かれています。このとき主イエスによって癒された女性に向かって直接に語ろうとしません。女の人を癒された主イエスに至っては完全に無視するかのようです。
女の人はこの日、病気を癒していただくために会堂に来ていたわけではありませんでした。今日の私たちには信じがたいことですが、当時、女性は会堂での安息日礼拝への参加が許されていなかったのです。
主イエスはこのとき、会堂の中に入ることを許されなかった、それゆえ、会堂の外にいた女性に目を留められたことになります。また、おおよそ、女性から男性に助けを求めて近づくことが許されなかった時代にあって、それゆえ、このときも女の人の方から主イエスに癒しを求めて近づいたのでもなかったのに、主イエスの方から声をかけ、ご自分のもとに呼び寄せられました。
この女性は腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかったとあります。身を起こすことができず、顔を上げることができませんでした。たえずうなだれているほかなかったのでした。
主イエスは女の人に言われます。「婦人よ、病気は治った。」
ここで「治った」と訳されている言葉の原語は、鎖を解く、縄目を解くという意味の言葉です。彼女を十八年間もの間縛っていたサタンの束縛から解放されたという意味です。解放してくださったのは神さまです。
主イエスが女の人の上に手を置かれると、たちどころに腰がまっすぐに伸びて、女の人は顔をあげて神様を賛美しました。
この女性もぶどう園に植えられたいちじくの木の枝でした。いちじくの木をそこに植えられたのは、すべての人の創造主であられる父なる神様です。神さまを賛美し、神様に栄光を帰することを期待して神様はこのいちじくの木を植え、その枝であるこの女性も、実を結ぶに至りました。
それゆえ、今日という日は恵みの日であり、今というときは恵みの年なのです。主イエスを通して神はご自身が創造されたすべての人々が、神様への賛美と喜びの実を結ぶに至るよう、今も生きて働かれ、私たちを成長させてくださるのです。
神がそのような思いをもって、今日という日、今という時に私たちに臨み、働きかけてくださっていることを信じているでしょうか。
今年3月に開かれた九州中会で聞いた、一番心が痛かった報告は、昨年一年間、九州中会全体で一人も受洗者がいなかったという報告でした。私たちはその報告を聞いて、うなだれざるを得ませんでした。でも三年間実りのない、いちじくの木であっても、来年は実を結ぶようにと木の周りを掘って、肥やしをやって、手をかけられる主は生きておられます。それこそ、3年の6倍の18年という長い年月、神を賛美することができなかった女の人に、神への賛美の実りをお与えになった神様が私たちを通して、今日という日に、今という時に実を結ばせようしておられることを信じることが私たちの悔い改めです。
14節の会堂司の言葉で気になる事がもう一つあります。
「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうが良い。安息日はいけない」。
来て治してもらうが良い、と言いますが、誰の元に来て治してもらうが良いと言っているのかということです。会堂司が癒すわけではないので、主イエスのもとに来るがよいと言っているのでしょう。女の人を癒すのも、それをいつにするかを決めるのも、主イエスではないでしょうか。
この会堂司は、そもそも、女の人のことを考えていないと思います。自分が女の人の立場だったらという考えが、会堂司には完全に欠落しています。
それ以上に、神さまの思い、主イエスの思いが何かを考えていないのです。
会堂司自身、安息日にでも自分が飼っている牛や、ロバに水を飲ませてやっていました。それならば、神さまが、18年もの長い間、サタンに縛られていたアブラハムの娘であるこの女性を憐れんで、彼女を束縛から解き放ってあげようと思わないはずがないことにどうして思い及ばないのでしょうか。自分には安息日に許している行為を、なぜ第三者に対しては禁じるのでしょうか。これを主イエスは偽善とお呼びになりました。
主イエスは今日という日、今という時に、自分の方から主イエスに求めてくることすらしていない人々に目を留め、ご自分から声をかけて、ご自分の元に呼び寄せ、神のことばを語りかけてくださいます。一人一人の上に手を置いて、神様をまっすぐに仰ぐものとしてくださり、神への賛美を歌わせてくださいます。
このことを信じましょう。それが私たちの悔い改めです。そのような悔い改めを持たない安息日の礼拝、悔い改めの実を伴わない教会は、神への賛美の実を結ぶことができないいちじくの木として切り倒されるでしょう。
しかし、わたし達を通して豊かな実を結ばせようとなさるのが神さまの思いです。主イエスも私たちに実を結ばせようとして汗を流し、労を惜しまないで世話をなさいます。神さまは今日という日に、また来る年に豊かな実を結ばせてくださいます。そのことを信じ、喜び、神様を賛美しましょう。それが、私たちの悔い改めの実なのです。今日、私たちに悔い改めの実を結ばせてくださる神様に賛美と感謝を捧げましょう。
父と子と聖霊の御名によって。