聖日礼拝 「イエス・キリストの迫り」
説 教 内田 聡 長老
旧約聖書 イザヤ書 61章 10節~11節
新約聖書 ルカによる福音書 24章 13節~27節
わたしたち、プロテスタント教会は信仰を大切にします。教会の奉仕が満たされない時は、信仰が足りないと自らを責めたり、信仰が薄いと他人を非難したりします。しかし「信仰」は自分の力で満たしたり、強めたりできるものでしょうか。そもそも、わたしたちは、どうして「信仰」を持つようになったのでしょう。
「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 この一切の出来事について話し合っていた。」 わたしたちが読んでいる新共同訳聖書には、「エマオで現れる」という小見出しがついているのでその前の「復活する」という記事とは別の記事のような印象を持ちます。しかし、「ちょうどこの日」という書き出しは、婦人たちに主イエスの復活が告げられた日と同じであるということを示しています。さらに「二人の弟子」と訳されていますが、原文は「彼らの内の二人」で、この彼らとは婦人たちが「墓から帰って、一部始終を知らせた」人々。即ち、「十一人とほかの人皆」ということになります。その中の二人がエマオに向かって歩いているのです。
小見出しで分かれていますが、「復活する」という記事と「エマオで現れる」という記事は連続しています。さらに言えば、この後の「弟子たちに現れる」という記事も連続しています。33節に「時を移さず出発して」と書かれている通り、主イエスの復活が分かった二人はエマオに泊まらず、その日のうちにエルサレムに引き返すからです。このように考えると、三つの記事は、主イエスが復活された日、その一日の出来事となります。
エマオへ向かう道の途中で、二人の人が「ナザレのイエス」について話し合っています。その日の朝、婦人たちから聞いた主イエスの復活が気がかりだったのでしょう。最初は「たわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」 けれども、ペテロが主イエスの墓へ走り出したように、復活を信じたいという思いが湧き起っていたのかもしれません。
「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」
おかしな景色です。二人が復活について「論じ合っている」、その対象の「イエス御自身」が、彼らに近づいて来るという出来事。それは主の復活について論じ合うこと、そのものが無意味になるということです。論じ合うのではなく、この出来事にアーメンと答えるだけのことになるのです。このイエス・キリストの迫りこそが、わたしたちの信仰の原点といえるのではないでしょうか。
「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」 二人の目を遮ったのは誰でしょう。この原文を直訳すると、「しかし、彼らの目は彼を認識しないよう捕らえられていた。」となります。彼らの目を捕えるのが神様であれば、二人の目を遮ったのは神様です。しかし、彼らの目を捕えるのが彼らの意思であれば、二人の目を遮ったのは彼ら自身となります。所謂、思い込みですね。わたしたちも、思い込みに捕らわれ失敗します。神様は、二人が思い込みに捕らわれるようにされた、ということでしょうか。
「イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。」 イエス・キリストが迫り、共に歩くだけでなく二人に語り掛けます。「二人は暗い顔をして立ち止まった。」 彼らが暗い顔をしているのは何故でしょう。彼らの思い込みが状況を打開できないからです。その苛立ちが二人の内の一人クレオパの答えに表れています。「「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 」 通りすがりに話しかけた男がエルサレムに滞在していたと決めつけています。エマオへの道は脇道のない一本道なのでしょうか。それよりもクレオパの行き詰まりが、この発言を促したのだと思います。
「イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。」 再び、イエス・キリストが迫ります。答えはご存知のはずです。何と言っても、主イエスご自身のことなのですから。それでも尋ねられるのは、正解を知りたいからでなく、二人の誤解が何かを知りたいからです。不合格の烙印を押すために問うのではありません。審きでなく救いのために尋ねるのです。共に歩き語り掛けるイエス・キリストの迫りは、わたしたちの救いを目的としています。
「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。」「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」 二人はナザレのイエスを旧約聖書で預言された政治的な解放者、メシアだと思い込んでいました。そのメシアを
「わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。」 「しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」そう嘆く二人の深層には、ナザレのイエスはメシアではなかったという思い込みがあります。
民を解放する力あるメシアなら、民の指導者から訴えられ、十字架刑で死ぬことはない。そこから先は失望と行き詰まりしかありません。わたしたちが生きている現実です。
「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。」 それは、その日の朝に聞いた出来事です。主イエスの墓に遺体が無かったこと。天使が「イエスは生きておられる」と告げたこと。更に彼らの仲間も主イエスの墓に出向いて、空の墓を確認したこと。主の復活を伝える婦人たちの話を信じなかった者でも、空の墓という事柄を前にして、心が動かされます。わたしたちの行き詰りを打開する神の出来事です。あなたは、この出来事にアーメンと応えますか?
出来事という、耳慣れない日本語を私は大切にしています。出来事はゲシヒテというドイツ語の訳で、大学生の頃にキリスト教の学びで知りました。「イエス・キリストの復活は出来事である」という言い方です。ドイツ語が全く分からないので、ここからは私の理解です。出来事は客観的な事実ではありません。また主観的な解釈でもありません。私の外にある事柄が私に働きかけ私の中で起こることです。出来事の始めが私の外にある以上、出来事の主体は私ではありません。それは私の中で起こることですが、私が主体となって起こす解釈ではありません。私の外の事柄によって起こされる出来事なのです。
イエス・キリストの迫りは、わたしたちの信仰を起こす出来事です。それはイエス・キリストの復活を前提としています。その復活はイエス・キリストの言葉と業に基づくものです。わたしたちは、これまで読んできたルカによる福音書を巻き戻すようにして、信仰を成熟させるのです。
「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはず だったのではないか。」 主イエスは、ご自身の受難と十字架の死、復活を何度も予告されていました。しかし、ナザレのイエスを政治的な解放者だと思い込んでいる者には理解できず、心が鈍くなってしまったのでしょう。彼らがナザレのイエスをメシアと思ったのは誤解ではありません。ただメシアの受難が躓きとなったのです。
メシアの受難は、預言者イザヤが「主の僕の苦難と死」として記したものでした。その一節は、主イエスも引用されています。ルカによる福音書22章37節、「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。」 二人の弟子は信じたくなかったのかもしれません。
「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」」 主イエスは、メシアの受難だけでなく旧約聖書全体がイエス・キリストを証しすることを説明されました。讃美歌55番は、「人となりたる 神のことば」と歌い出しますが、旧約聖書の御言葉が実現した人、それがイエス・キリストです。
先ほどの聖書朗読でイザヤ書61章の結び、10節から11節を読んでいただきました。61章は預言者イザヤの「貧しき者への福音」です。その結びは、福音を受け入れた者の喜びです。主イエスはナザレの会堂で61章の冒頭を読まれ、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われました。今は喜びの時です。
わたしたち改革派の神学者カール・バルトは、信仰を承認、認識、告白という三段階で捕えます。イエス・キリストを認めること、イエス・キリストを知ること、イエス・キリストを伝えること、この三段階です。 それは一回限りのことではなく、何度も何度も繰り返され、信仰がイエス・キリストに向かって成熟します。
イエス・キリストを認めることが、知ることよりも先にあるのに注目しましょう。普通は人物をよく知った上で、その人を認めるかどうかを判断するものです。この場合は認める人が主人となります。信仰はそうではありません。イエス・キリストがわたしたちの理性を超えているからです。理性は、あの二人の弟子のように誤解します。だからイエス・キリストの方から迫って来られるのです。これは神の恵みであり、人の救いです。
わたしたちは僕としてイエス・キリストに知られるしかありません。別の言い方をすれば、服従するということです。 服従という言葉は専制君主の奴隷を思わせますが、イエス・キリストは専制君主ではありません。専制君主は自分のために死ぬ奴隷を求めますが、イエス・キリストは僕のために死なれました。イエス・キリストに服従するとは、わたしたちに迫るイエス・キリストを受け入れるということです。これは信仰者一人一人が体験した出来事でしょう。それが信仰の第一段階である承認です。
その上で、イエス・キリストを知ること、認識が必要となります。信仰は神秘主義でも反知性主義でもありません。わたしたちの理性は限界がありますが、他の被造物とは違う賜物として神様から与えられたものです。キリスト教の教父たちはこの理性を尊びました。わたしたちは理性によって聖書を読むことができます。主イエスが説明されたように聖書にはイエス・キリストの証が書かれています。聖書を読みイエス・キリストを深く知ることで信仰は成熟します。勿論、聖書は古代文書ですから、それが書かれた時代状況に制約されます。様々な知識を駆使して御旨を読み取らねばなりません。それが変わることもあるでしょう。信仰が成熟するにつれて、読み取る内容も深まるからです。聖書から与えられる気づきは大きな喜びです。イエス・キリストの迫りが聖霊として働くのでしょう。
「神を信じます。」と言う者を、私は警戒します。彼が信じる神が何であるか分からないからです。自らの願望を神に祭り上げたかもしれません。「キリスト教を信じます。」と言う者なら、信用できるでしょうか。その人はイエス・キリストをどのように知っているのでしょう。よく聖書を読まず、自らの願望を重ねる。偉い先生の考えを受け売りするのだとしたら、イエス・キリストを知っているとは言えません。聖書を読んでイエス・キリストを知ることは、自分の思い込みから解放されることです。新しい自分へ開かれて行くことです。信仰が足りないと自らを責めたり、信仰が薄いと他人を非難したりするのは相応しくありません。
残念ながら、本日の記事は信仰の第二段階である認識まで至っていません。イエス・キリストの迫りはあるものの、二人の弟子はイエス・キリストを承認していないからです。彼らがイエス・キリストを認めることは、来週の説教で語られるでしょう。
では、本日の記事は無益だったのでしょうか。32節、「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。」 二人の弟子がイエス・キリストを認めた後の言葉ですが、彼らの心が燃えていたのは、イエス・キリストを認める前の出来事です。心が燃える体験、それこそイエス・キリストの迫りです。わたしたちの信仰の火が灯される瞬間です。 わたしたちの救いの始まりです。 父と子と聖霊の聖名によって。
お祈りします。
父なる神様、あなたの生きた言葉である御子を罪のために苦しむ世に送られたこと、感謝します。御子は、わたしたちと罪の苦しみを共にされつつ、わたしたちを解放する、御言葉を与えられました。御子の復活によって、その御言葉は永遠となり御霊によって、今も、わたしたちに迫られます。あなたの恵み、あなたの愛、あなたの救いその全てを、わたしたちのものとさせてください。神の子とされたわたしたちが、言葉と業で日々、イエス・キリストを告白できますように。全ての人をイエス・キリストに従わせてください。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によって受け入れたまえ。アーメン
