聖日礼拝 「主が閉じた心の目を開いてくださった」
説  教     澤 正幸 応援教師
旧約聖書 詩編146編3〜10節
新約聖書 ルカによる福音書 24章 44~49節

今日は、今読んでいただいた聖書から、「主が閉じられた心の目を開いてくださった」という題でみなさんにお話ししたいと思います。
45節にこう書かれています。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた」。
心の目が開かれるとはどういうことでしょうか。聖書が書かれた時代には、いわゆる文盲の人、目が見えても文字が読めない人がたくさんいました。特に女性の大半は文字が読めませんでした。弟子たちはおそらく文盲ではなく聖書は読めたでしょう。でも肉体の目は開いていても、心の目が開いているとは限りません。聖書が読めたからといって、聖書を悟ることができるとは限りません。弟子たちがそうでした。

主イエスはかつて弟子たちの心の目が閉ざされていたことを思い起こさせて44節でこう言われました。
主イエスは言われます。「まだあなたたちとガリラヤで過ごしていたときに、わたしは繰り返しあなたたちに、わたしの身の上に起ころうとしていることについて話した。すなわち、聖書にわたしについて書かれている通りのことが起こると。聖書にはメシアは苦しみを受けて、三日目に復活すると書いてある。それがわたしの身の上に起ころうとしているのだと。そのときあなたがたはわたしの話すことを理解しただろうか。」

弟子たちはそのときのことをよく覚えていたはずです。主イエスの口から、「わたしはエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者から多くの苦しみを受けて、殺され、三日目に復活することになっている」と言われるのを初めて聞いたとき、弟子たちは自分たちの耳を疑いました。そして激しく反発し「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。と言って主イエスに強く翻意を促しました。

しかし、しばらく時を置いて、主イエスが、二度、三度と、念を押すように同じことを弟子たちに語られるのを聞くに及んで弟子たちの心はいよいよ重く沈んでゆき、胸は不安で一杯になって行きました。そして弟子たちは恐れから口を閉ざすようになりました。

そのときのことをルカによる福音書はこう書いていました。「弟子たちにはその言葉が分からなかった。彼らには理解できないように隠されていたのである。彼らは、怖くてその言葉について尋ねられなかった。」

弟子たちは何が理解できなかったのでしょうか、彼らの心の目は何に対して閉ざされていたのでしょうか。弟子たちの心の目が閉ざされていたのは、「メシアが苦しみを受けて、三日目に死者の中から復活する」という言葉に対してでした。主イエスについて聖書にそう書かれているということが理解できなかったのでした。

弟子たちが主イエスと出会ってから、三年が経ちました。その間、弟子たちはずっと主イエスの言葉を聞き、そのなさる業を見続けていました。それがいつまでも続いて欲しいと弟子たちは願ったでしょう。主イエスの教えがもっと、もっと多くの人々に受け入れられるようになることを彼らは願ったことでしょう。それなのに、その主イエスが指導者の手にかかって殺されると、主イエスご自身の口から聞かされるとは思いもしないことでした。そうなったら、すべては終わりです。弟子たちには、そもそも主イエスがなぜ殺されるなければならないのかがわかりませんでした。主イエスが死んで三日目に復活することは、なおさら理解できないことだったでしょう。弟子たちの心の目は、メシアの受難と復活という聖書の言葉に対して完全に閉ざされていました。

しかし、その閉ざされていた弟子たちの心の目を主イエスが開いてくださる日が来ました。
それは復活節の日曜日の夜の出来事でした。この日は朝からいろいろなことがありました。その日曜日の午後にはエマオの村に向かって歩いていた二人の弟子に、復活された主イエスが現れて、彼らと並んで道を歩かれるということがありました。でも最初、二人の弟子の目は遮られていて、それが主イエスだとはわからなかったのでした。

弟子たちが主イエスを見ていても、心の目が閉じていて本当の主イエスの姿を見ることができない。それは、ガリラヤで主イエスと共に過ごした三年間がそうだっただけでなく、主イエスが復活された後も、同じでした。目の前に主イエスを見ていても心の目は閉じていて、主イエスの本当の姿が見えないのです。

では、どのようにして、弟子たちの心の目は開かれたのでしょうか。弟子たちの見えない目が見えるようになったのは、自分の力で見えるようになったのでも、自ら悟ったというのでもありませんでした。あくまでも主イエスが弟子たちの心の目を開いてくださったのです。

でも、みなさんと今日、聖書から受けとめたいことがあります。それは主イエスによって心の目を開いていただくときが来るまで弟子たちが、黙って、ただじっと座って待っていたのではなかったということです。彼らの心の目は閉じていて、見えませんでしたが、それでも目の前が見えない暗がりで人が手探りするように、主イエスに向かって、自分たちの方から近づいて行こうとしていた、そういう動きがあったことを聖書が伝えているということです。

この日、最初に主イエスの復活を信じた女性たちがそうでした。朝早くまだ暗い道を、主イエスの墓に向かって歩いていた彼女たちは主イエスがガリラヤにおられた頃、ご自身が死んで三日目に復活すると言われた言葉を理解していませんでした。彼女たちの心の目は閉ざされたままでした。その彼女たちが、空の墓を目の前にしながら、御使から「主イエスはここにはおられない、よみがえられたのだ」と告げられたとき、それこそ、心の目がパッと開くようにして、主イエスは本当にガリラヤにおられるときに言われた通り復活されたのだと信じたのでしょう。女性たちは自分たちの心の目が閉ざされていても、その中で復活の主イエスに向かって歩き始めていたのでした。

エマオの村に向かっていた二人の弟子も、最初は目が遮られて、二人に同行される旅人が復活して、今も生きておられる主イエスだとは分かりませんでした。二人は、墓に行った女性たちがもたらした知らせについて語り合いながら歩いていました。同行してくださった主イエスが道々語ってくださる聖書の解き明かしを聞いた二人は、もっとこのお方の話を聞きたいと願って、この方に自分たちと一緒に泊まるように無理に引き止めました。二人は主イエスを食事の席に招きました。すると、その食事の席上、二人の目が開かれたのでした。二人が客人として招いたはずの主イエスがパンを取って、それを裂いてお渡しになったからです。主客転倒という言葉があります。主人と客人の立場が入れ替わる、まさに主客転倒がこのとき起こりました。客人と思って招いた方が、主人となったのです。わたしたちは自分の人生の主人は自分だと思っています。しかし、そうではないのです。わたしたちの人生の主人は、自分ではなく主イエスなのです。わたしたちのために死んで復活されたイエス・キリストこそ、生きるにも死ぬにも、わたしたちの主であられるとの信仰の目が開かれた瞬間でした。すると主イエスの姿は見えなくなりました。肉体の目には見えなくても、心の目には、主イエスが生きておられること、このお方が、わたしたちが知らないときにも、わたしたちを導き、守り、生かし、救われる主であられることがはっきり見えるようになりました。

わたしたちには自分の力で、閉ざされている心の目を開けることはできません。しかし、まだ見えない復活の主イエスに向かって、復活節の朝、女性たちは暗い道を歩きました。エマオに向かう弟子たちはそれが主イエスだとはわからないまま、主イエスと共に歩き、主イエスを引き止め、食事に招きました。女性たちの話を、最初は「たわ言」だと言って信じなかったペトロが、後から心をかえて墓に向かって走り出したのです。このように見えないながらも、わたしたちの方から手探りをするように復活の主イエスに向かって動き始めるとき、主イエスの方から、わたしたちに近づき、わたしたちの見えない心の目を開いてくださって、主イエスが生きておられることを信じる信仰を与え、聖書を悟らせてくださるのです。それが、この夜、主が弟子たちの閉じた心に目を開かれたと言う出来事がわたしたちに語りかけているメッセージです。

47、48節
「あなたがたはこれらのことの証人となる」。
先週、今年度の教会総会を恵みと平安のうちに終えることが許され感謝でした。そこで2026年度の年間聖句が選ばれ、先ほど礼拝のなかでその御言葉を恵みの言葉として聞きました。
今日の会報の表紙にも記されていますので、声を出して一緒に読みたいと思います。
わたしを含めてここにいる多くの方々がここに書かれていることの証人だと言えます。わたしたちはここに書かれている通り、主イエスにあったこともありませんし。今、主イエスを見ているわけでもありません。それなのに主イエスを今も生きておられる主として信じているからです。
でも、今、主イエスを信じているわたしたちにも、信じていなかった時がありました。信じることができなかった長い日々がありました。そういうわたしたちが、今、信じるようにしていただいている、そういう意味で、わたしたちは、いまだ信じることができないでいる方たちに対して、あなたがたもわたしたちと同じようにしていただくことができます。あなたがたがそうなってくださることを心から願いますと言う証人です。

信仰を与えられて、主イエスによって心の目が開かれ、それまで見えなかったことに目を開かれるようになった、そのような者たちとして、わたしたちは谷村長老が先週の説教で引用されたコリント第一の手紙13章12節の御言葉をここでもう一度思い起こしたいと思います。(317ページ)
わたしたちは以前、閉ざされていた心の目が開かれて、今は見えるようになったとは言え、それでもまだ、はっきりとではなく、ぼんやりと、おぼろな姿において見えているだけなのです。見えているのは一部分であって、全部ではありません。やがて、顔と顔を合わせるように、神にはっきり知られているように、はっきり知る終わりの日にはまだ達していないのです。その意味で、わたしたちは、以前、信仰が与えられる前に、手探りしながら歩んでいたのと同じような、主イエスに向かって歩む歩みを今なお続けているのです。

「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々にのべ伝えられる。あ
あなたがたはこれらのことの証人となる。」
ここには、やがてペンテコステに始まるエルサレムの教会から、地の果てに至るまで主イエス・キリストの名を知らせる教会の福音宣教の歴史が予告されています。その教会の柱となり、先頭に立ったのは、復活の主イエスから罪の赦しを受けて、悔い改めたペトロでした。悔い改めて新しく生きるものとされたペトロは、主イエスの名、今も生きておいでになる救い主イエス・キリストを人々にのべ伝えました。こうして復活して、今も生きておられるイエス・キリストを信じる教会が地の果てばてに至るまで建てられています。わたしたちはそのことの証人です。

49節
とどまっていなさい。とどまると訳されている言葉の原語は座っているという言葉です。でも、今日の説教で申し上げたように、女性たちや、エマオの弟子たちや、ペトロたちは、まだ見ていないときに、見えないままに手探りするように、生きておられる主イエスに向かって近づいてゆきました。わたしたちにとっても、主イエスのこの約束の言葉は、ただ、じっと座って何もしないで待っているのではなくて、約束を信じて歩き始めるようにとの招きです。

父が約束されたもの、とは、わたしたちの心の目を開いてくださる聖霊のことです。しかし、わたしたちは今、だれのために聖霊が送られることを待つのでしょうか。わたしたちのためでしょうか。それとも、わたしたちの愛する周りの人々、子供達、孫たち、家族、親戚、友人、わたしたちが信仰に導かれてほしいと願っている人々のためでしょうか。わたしたちではなく、わたしたちが愛するすべての人々の上に聖霊が注がれて、その人々の目が開かれるようになることを、わたしたちが心を一つに合わせて熱く祈ろうではありませんか。主イエスはわたしたちにそのことをお命じになっているのだと思います。

どうか、聖霊によって、このみ言葉がすべての人々の告白となる日が来ますように。わたしたちはその日を見ていませんが、その日を見るようにして復活の主イエスのお姿にわたしたちの信仰の眼差しを注ぎつづけましょう。

父と子と聖霊の御名によって。