聖日礼拝
説教「キリストの真実による義」
伊藤健一長老
旧約聖書 歴代誌 36章 22〜23節
フィリピの信徒への手紙 3章 1~9節

福音書の中には、主イエスに敵対する者たちが、主イエスを陥れようとする話がいくつか記されています。そのうちの一つに、このような話があります。ルカの福音書から引用します。20章21節で、回し者たちは、「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています」と持ち上げたうえで、主イエスに問います。22節です。「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」回し者たちは、ローマの官憲と結託していましたから、主イエスが不適切な返答をすれば、直ちに捕えることができました。ここで問題となっているのは、ユダヤの神殿税ではなく、ローマ帝国に収める人頭税です。ここで主イエスが納税を認められるならば、民衆は失望する。反対されるならばローマ帝国に訴えることができた。そういう悪意に満ちた問いでした。当時のユダヤ人の中にはローマの皇帝の肖像画が刻まれた銀貨を用いて異邦人の王に税を納めることに強い抵抗を持つ者たちは少なくなく、ファリサイ人たちも強く反対していたのです。それに対して、主イエスは、デナリオン銀貨を見せるように言い、そこにだれの肖像と銘があるかと問われます。皇帝の肖像が刻まれた貨幣を用いることは皇帝崇拝につながるとして、ユダヤ人たちは普段の生活では皇帝の肖像のない貨幣を用いていました。民衆は、ファリサイ人たちは皇帝の肖像画が刻まれているデナリオン銀貨を所持していないと思っていたことでしょう。しかし実際は、彼らはデナリオン銀貨を持っていて、主イエスに求められるとそのデナリオン銀貨を見せることができました。彼らの偽善者ぶりが窺えます。そして彼らは、24節で主イエスに対して「皇帝のものです」と答えます。それを聞いて主イエスは、25節でこう言われます。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

皇帝の肖像が刻まれている銀貨を用いることは、彼らがそれを皇帝のものとして認めていることを意味します。ローマ帝国という秩序のもとで生活する以上、そこに生きる者は国家に対して一定の責任と義務を負います。従って、彼らがローマ帝国に対して納税の義務を負うことは当然のことです。したがって、主イエスがここで、皇帝の肖像画が刻まれている銀貨であれば、それは皇帝に返しなさい、という返答をなさったことは、偽善者たちの悪意を打ち砕く名解答であったと言えるでしょう。ですが、主イエスはそれだけにとどまらず、「神のものは神に返しなさい」ということばを併記されました。言うまでもなく、私たちの信仰においては、すべての被造物は神さまのものです。もし皇帝の肖像画が刻まれている銀貨を皇帝に返すことが正しいことだとするならば、神のかたちが刻まれた人間を神に返すことも正しいということになります。創世記1章27節にこうあります。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」それならば、神さまのかたちが刻まれている私たち人間は、自らを神さまのものとして、神さまに献げなければなりません。それでは、どのようにすれば、私たちは自らを神さまに献げることができるのでしょうか。言い換えれば、神さまに義とされる、神さまと正しい関係を持つ、そのためには何をすればよいのでしょうか。

神さまがそのために私たちに与えてくださった最初のものが律法でした。その経緯を見ておきましょう。創世記1章の27節には、神さまは「御自分にかたどって人を創造された」と記されています。そして2章9節で、神さまはエデンの園の中に人を置き、「園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられ」ました。しかし同時に、16節、17節で「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と警告なさいました。しかし人がその戒めを破り、エデンの園から追放されてしまったことは、周知のとおりです。それでも、「善悪の知識」と言われれば、それは人として必要なものではないか、なぜ神さまは、人に「善悪の知識」を禁じられたのか。そう思います。それに対しては、現実を見つめれば納得がいきます。私たちはそれぞれが善悪の価値観を持ち、それぞれが善と思うことに従って行動します。その結果、人間は夥しい数の戦争を繰り広げてきました。人が「善悪の知識」を持ちたいと思い、それを持ったことで、人は自分を神としてしまいました。それがどれほど悲惨な結果をもたらしたことでしょうか。

しかし神さまは、このようにして神さまから離れてしまった人間を取り戻すために洪水を起こし、アブラハムを選んで彼から諸民族を起こし、モーセを用いて出エジプトを達成させたとき、彼らに律法をお与えになりました。神さまは、モーセをシナイ山に上らせ、こう言われました。出エジプト記19章4~6節をお読みします。「あなたたちは見た わたしがエジプト人にしたこと また、あなたたちを鷲の翼に乗せて わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い わたしの契約を守るならば あなたたちはすべての民の間にあって わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって 祭司の王国、聖なる国民となる。」このように、律法は、イスラエルを「祭司の王国、聖なる国民」とするための恵みだったのです。

最近ニュースで「ポイ活」という言葉を聞きました。買い物をすると、それぞれの価格に応じてポイントが付加され、それがたまると、そのポイントを買い物の際に用いることができるというものです。私たちは、こういう制度があると、ポイントを稼ぎたいという思いに駆られます。店にとっても売り上げを伸ばす有効な方法なのでしょうが、一円でも安くものを買いたいという消費者にとっても魅力的な仕組みです。私たちは、ポイ活でなくとも、何かを行なって実績を上げるという考え方が好きです。ですから、律法を守ることによって義とされるという考え方は、基本的にわかりやすい考え方だということができますし、私たちが競って律法を遵守するとすれば、それは神さまの御心に適うことのように思われます。

律法は、決して悪ではありません。いやむしろ、神さまの善悪の秩序を喪失してしまった人間たちに対して神さまが与えてくださった恵みです。これに従うことによって、私たちは自分たちの善悪の基準に従うのではなく、神さまが求めておられる善悪の秩序の中で生きることができるようにされるのです。問題は、律法を遵守することが簡単ではないということです。律法を守るたびにポイントが与えられたとして、それをいくら蓄積していっても神さまが義としてくださる水準には到底到達することはできないのです。それは律法に欠陥があるからではありません。律法は善です。だからこそ、私たちは毎週の礼拝において、十戒を唱和しているのです。欠陥があるのは私たちの方です。私たちは、「姦淫するな」という律法を守ることはできます。しかしもし、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:28)と言われるならば、誰一人抗弁することができない者ではないでしょうか。主イエスの「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」(マタイ5:29-30)という言葉は、私たちと神さまとの間の埋めることのできない深い溝を語っている言葉だと思います。

それでも、回心する前のパウロは、この律法を遵守することにおいて、他の誰にも引けを取らない存在でした。フィリピ書3章5、6節で彼はこう記しています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。」彼は、おそらくいくつかのユダヤ教の流派を見極めた上でファリサイ派を選んだのでしょう。神さまの御心に徹底的に従い、神さまが定められた律法を徹底的に順守して生きていこう。そういう非常に強い思いがあったからこそ、その後、「熱心さの点では教会の迫害者」と呼ばれるまでになります。ガラテヤの信徒の手紙1章14節ではこう記されています。「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」

ここで言われている「熱心」とは、イスラエルの独自性、すなわち神との特別な契約をまもり、宗教的で民族的な境界線を保持するためならば、イスラエルを危険にさらしイスラエルの境界線を犯す者を根絶やしにするという原理主義、国粋主義的な思想でした。それゆえ、彼は、ヘブライ語を話し、割礼を行ない、律法を守りつつキリストの教えを受け容れ守るユダヤ人キリスト者たちには一切手を出さず、ギリシア語を話すユダヤ人キリスト者や異邦人キリスト者、すなわち律法を遵守せず割礼を行なわず、あまつさえ異邦人信者をうけいれるキリスト教運動だけを弾圧するために、エルサレムからわざわざダマスコまで出かけて行ったのでした。

そして、使徒言行録9章によれば、ダマスコで劇的な回心が起こり、これまでの律法を遵守し熱心を極めていたパウロが、主イエスの僕として、異邦人に御言葉を伝える使徒としての召命を受けたのでした。この出来事が彼の中で非常に重要な変革をもたらしたからこそ、フィリピ書3章7、8節では「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」とまで言い切ったのです。パウロ自身、律法を徹底的に守る生活を貫いていても、その先におられるはずの神さまの姿が見えていなかったことに気づき始めていたのでしょう。のちにパウロは、律法の限界と主イエスの十字架の信仰に生きる喜びについて、ローマの信徒への手紙7章5~6節でこう述べています。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」

そのパウロのもとで、この時問題が起きていました。主イエスを信ずるキリスト者となっていたにもかかわらず、割礼も受けなければならない、律法も守らなければ救われないと主張する人々がいたのです。回心前のパウロだったら、これらの人々には一切手を出さなかったはずです。しかし回心後のパウロは違います。これらの人々を「あの犬ども」(3:2)と呼んでさげすんでいます。こうなったのは、パウロが「十字架に付けられた主イエス」と出会ったからです。それによって彼の信仰は180度転換し、彼にとって大切だったものが「塵あくた」となってしまったのでした。彼はここではっきりと断言します。「わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」(3:9)。律法を遵守することによって得られる義ではなく、キリストへの信仰に由来する義が、今や私に与えられている、とパウロは述べています。これがパウロの神学の中心の一つである「信仰義認」の教理です。

ここまでお聞きいただいた皆さんは、説教のタイトルが「キリストへの信仰による義」ではなく、「キリストの真実による義」となっていることに、違和感を抱いていらっしゃるかもしれません。 聖書のテキストの中にも、また説教の中でも「キリストの真実による義」という言葉はありませんでした。実は、2018年に出版された聖書協会共同訳聖書では、3章9節はこう訳されています。「私には、律法による自分の義ではなく、キリストの真実による義、その真実に基づいて神から与えられる義があります。」「キリストへの信仰」も「キリストの真実」も、いずれも「ピスティス・クリストゥー」の訳語なのです。これまでの伝統的な訳と異なる訳出がなされている背景には、「ピスティス」が「信仰」という意味以外に「真実、信頼性、誠実さ」という意味がある言葉であること、また「クリストゥー」が「キリストへの」とも「キリストの」とも訳すことができる語形であることが挙げられます。この新しい翻訳に従うならば、十字架上での死に至るまで、神さまに誠実を尽くし、徹底的に神と人とに仕えられた「キリストの真実」こそが、私たちが義とされる原動力なのだということになります。すなわち、私たちが「信じる」という自覚的な行動を起こすことによって義とされるのではない、ということなのです。そうではなく、主イエスが十字架上での死に至るまで徹底的に真実であられたことがスタートであるということなのです。私は、このフレーズは、第一義的には、そのように読むべきであると思うのです。なぜなら、十字架を通して神と人の和解をもたらしたのも、とりわけそれまで律法遵守に専心していたパウロを変えたのもキリストであったと思われるからです。そしてそこから、キリストから「真実」を受けた者として、その恵みに感謝する者として「イエス・キリストへの信仰」、あるいは「イエス・キリストへの信頼」に生きる者にされていくのです。そう言える根拠は、ガラテヤ書の2章16節にあります。ここに「人が義とされるのは、律法の行ないによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだと知って、私たちもキリスト・イエスを信じました」と書かれているからです。

同じフィリピ書3章9節には、「律法から生じる自分の義ではなく」とあります。かつてのパウロがそうであったように、律法を守ることがユダヤ人のアイデンティティでありました。しかしパウロは過去の自分を振り返り、ガラテヤ書2:19で、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています」と語っています。今や、パウロはキリストと共に死んだのです。キリストの死が神に対して生きることであったように、パウロもキリストと共に神に対して生きる者として新しく生まれかわったということなのです。これこそが「義とされる」ということをもたらしたのです。

今パウロが直面しているのは、主イエスを信じる信仰を持っていても、同時に割礼も受けなければならない、律法も遵守しなければならないという主張でありました。義とされるための条件として「キリストの真実」を受け入れているのだから、これも認めて良いのではないか、という主張もあったことでしょう。しかし、余計なものを条件として加えることは、「キリストの真実」の持つ意義を弱め、否定することに等しいのです。他の何者も、その役割を担うことはできません。ただ「キリストの真実」のみが「義」をもたらすのです。私たちに求められていることは、これに自分の努力によって何かを加えることではありません。ただ神のわざに与り、感謝をもって神の栄光を讃美すること、これ以外に私たちに求められていることはないのです。

父と子と聖霊の御名によって。

主なる神さま、キリストの真実によって、私たちが義とされていることを教えられ、感謝申し上げます。主イエスは、十字架につけられたキリストとして、私たちと出会ってくださいました。主イエスを信じる者たちを迫害さえしていたパウロが、キリストの使徒、異邦人への使徒として召されたのは、主イエスが出会ってくださったからです。私たちも同じく、十字架につけられたキリストと出会い、教会に連なるものとされましたことを感謝いたします。パウロのように、もはや私ではなくキリストが私の内に生きておられるのだという信仰に堅く立ち、力強く歩んでいける者となるようにお導きください。そして今日、この礼拝に集っている一人一人を祝福してください。

主イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン。