聖日礼拝「新たな信仰の世界へと導くキリストの復活」
説  教     崔 炳一 牧師
旧約聖書  詩篇 19篇 1〜5節
新約聖書  ルカによる福音書 24章 28〜35節

敬愛する兄弟姉妹の皆さん。

今年も、主の復活を祝う恵みの時を迎えることができました。本日、私たちはルカによる福音書の証言に耳を傾けたいと思います。ご存じのように、24章13節から始まる「エマオへの道」の物語は、28節から35節において、その劇的なクライマックスを迎えます。死から蘇られた主イエスは、絶望の中でエマオへと向かう二人の弟子の傍らに、静かに現れました。主との深い交わりの中で、彼らは「胸が熱くなる」という霊的な経験をし、閉ざされていた信仰の目が開かれます。主は、逃避の途上にあった彼らの心を、鮮やかに回復させてくださったのです。

かつて、キリストの苦難を目の当たりにした彼らは、信仰に生きる意味を完全に見失っていました。しかし、キリストの復活こそが、彼らに「弟子として生きる使命」を取り戻させたのです。もし「失うこと」を「死」になぞらえるならば、「回復」とはまさに「復活」を意味します。一度は死んだのも同然であった彼らの希望は、復活の主との出会いによって、再び力強く息を吹き返しました。二人の弟子が再びエルサレム、すなわち自らの使命の場所へと走り戻り、主の復活を告げ知らせたように、私たちもまた、この回復の喜びに満たされて歩み出すことを願いつつ、御ことばに預かりと思います。

さて、エマオに向かっていた二人の弟子、その一人はクレオパと言います。彼らが信仰に入ったのはイスラエルの解放のためでした。おそらくこの二人は、12人の弟子以外にイエスに従っていた群れの中の二人だったと思われます。クレオパは12人の弟子のような選ばれたリーダーではありませんでした。ユダヤ教徒として、イスラエルがローマの圧政から解放されることが、主イエスに期待していたことでした。イエスはいわばモーセのような存在。それがメシア像でした。彼らにとってメシアはこういう存在であるべきという暗黙のイメージをもっていたと思います。

ルカによる福音書24:19-21です。「イエスが、どんなことですかと言われると、二人は言った。ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります」。キリストの死によって彼らの望みが無くなったと言うのです。もうエルサレムに留まる必要はないと言うのです。それはイエスを証しする人として生きる意味はないということです。メシアが死ぬなんて、考えられない。しかも、主が渡されたのは「人間の手」であり、さらに「異邦人の手」によってであったと彼らは語ります。そこには、イエスの死を自分たちとは関わりのない、遠い出来事として冷ややかに眺める視線があります。彼らは、信仰というものをあまりにも軽いものとして捉えていたのではないでしょうか。目の前で起きた十字架の惨劇を、自分たちの魂を揺さぶる出来事としてではなく、単なる宗教的な事実や政治的な不運として片付けてしまっていたのです。

主イエスは彼らに聖書の証言を取り上げて、無知から解放されたのです。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」。主イエスが示すメシアというのは、私たちを罪から救い出し、悔い改めを通じて神の統治(支配)に生きる天の国の民へと変える存在です。罪の自覚がないところには、まことの解放もありません。それはまるで、豚に真珠を与えているようなものではないでしょうか。罪は人を不幸へと突き落とし、悪を芽生えさせます。人間は、自らが生み出したその悪によって、自らを苦しめることになるのです。

神の御子イエス・キリストが十字架にかけられ、死ななければならないほど、人間の罪はあまりにも深いものです。今日においてもなお、世界が罪によって苦しめられている現実に、私たちは目を背けることはできないでしょう。また、罪は聖書を正しい理解することを妨げ、神が支配される世界への視線を遮ってしまうのです。しかし、復活によって死の支配は終わりを告げました。主イエスの復活は神の輝かしい勝利です。主イエスは、苦しみを受けられた主であると同時に、栄光に満ちた主でもあります。この復活という出来事こそ、聖書の言葉が真実であることを神が自ら証明された確かな証拠なのです。

この二人は聖書の証言を信じなかったのですが、それが今度は人間の証言をも拒ませたのです。人間の証言と聖書の証言。どちらが重みのあるものでしょうか。いつまでも正しいのは聖書の証言です。不思議なことに、聖書の証言という「神の証し」を信じない人は、それに基づいた「人間の証し」をも信じようとはしないのです。ルカによる福音書24:22-24です。「『ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、イエスは生きておられる、と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした』」。

これは復活の証言です。しかも、婦人たちという複数形です。二人以上が証言している。天使たちが現れた。ここにも目撃者の証言が複数形です。さらに仲間の者が何人かが、イエスのお墓にいった。お墓は空っぽだった。ここにも複数形です。主イエスが聖書に書いてある通りに、死んで復活するということを予告された。複数の人が同じ証言をしている。否定できないのです。聖書を信じなかったから、主イエスの証言も信じなかった。信じることができなかったのです。だから、今度は人間の証言をも疑うのです。つまり、そういう証はあった。でも、私たちは信じることができない。否、信じまいと。神の御ことばについての思考の停止は不信仰へと導くのです。

こうした動機から、二人の弟子はエマオへと向かいました。それは現実から目を背けるための旅であり、凄惨な出来事が起きた「呪われた場所」から逃れるための歩みだったとも言えるでしょう。なぜ彼らは逃げ出したのか。そのもっともな理由は、復活を信じなかったからではないでしょうか。逃避の原因はすべて彼らの内側にありました。彼らが主イエスを拒んでしまったのは、自らのメシア像に固執し、聖書への理解と信頼が不十分だったことに起因します。ゆえに、彼らは復活の恵みと喜びに満たされることができませんでした。不信仰ゆえの逃避は、彼らの心に深い悲しみと不安をもたらしました。本来ならば歓喜に満たされているはずの現実を、直視できなくさせてしまったのです。

すべてが終わったと思ってエルサレムを離れたクレオパたちに復活の主は現れました。復活のキリストは、彼らが正しい方向に歩んでいるときではなく、15節に書き記されているように「背を向けて去っていくとき」に現れたのです。「二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」(ルカによる福音書24:29-35)。

これこそ、神が人間の絶望や迷いの中に、真っ先に飛び込んでこられる存在であることの証ではないでしょうか。キリストは復活の姿を通して、絶望の淵にある私たちと「共に歩む神」であることを示されたのです。このとき、人間は新たな信仰の世界へと招き入れられます。それを「同伴の霊性」と呼んでもよいでしょう。「人生のどん底にあっても、気づかないうちに隣を共に歩いてくれる存在が必ずいる」ということ。復活のキリストは、私たちがその大いなる愛に気づくようにと、優しく導いてくださるのです。

キリストの復活は、私たちを新たな信仰の世界へと導きます。それはまさに「使命の再確認」の旅です。その再確認は、聖書を正しく理解することから始まりました。さらに、パンを裂くこと、すなわち聖餐による交わりによって彼らの目は開かれ、主イエスを正しく認識するに至ったのです。その認識には、「胸が熱くなるような魂の震え」が伴います。現代の冷ややかな合理主義の中に生きる私たちに対し、キリストの復活は、こうした霊的な体験をこそ重視するようにと問いかけているのではないでしょうか。この霊的な体験は、私たちを「戻るべき場所、留まるべき場所」へと導きます。かつて絶望して逃げ出したエルサレムへ、クレオパたちは喜びに満たされて戻っていきました。それは義務ではなく、内側から突き動かされた自発的な行動でした。これこそが、新たな信仰の世界へと導かれた者が手にする「まことの喜び」なのです。これを霊性の回復と言ってもよいのではないでしょうか。

エルサレムへ戻った二人の弟子を待っていたのは、同じように復活の主にまみえた弟子たちの喜びの声でした。彼らはもはや、疑いの中に閉じこもる孤独な存在ではありませんでした。復活という一つの事実によって結ばれた、新しい神の家族、キリストの体となったのです。私たちは今日、このエマオの途上の弟子たちの中に、自分自身の姿を見出すことができます。ある時は、自分の思い描いた理想が崩れ、失望して留まるべき場所であるエルサレムを後にするかもしれません。ある時は、聖書の約束を頭では理解していても、心が追いつかず、不信仰の冷たさに凍えるかもしれません。しかし、主は私たちが正しい道を歩んでいる時だけでなく、むしろ絶望して背を向け、去っていくその背中に、静かに歩み寄ってくださいます。失われた霊性は「同伴の霊性」によって回復されるのです。

いつも「共に歩む神」は、今も私たちの隣におられます。私たちが気づかれてないだけです。神は、私たちが御言葉に耳を傾けるとき、私たちの冷え切った心を熱く燃やしてくださいます。キリストを死から蘇らせた神は、私たちがパンを裂き、共に主を仰ぐとき、私たちの閉ざされた目を開いてくださいます。「エマオ」は、「逃避の場所」から、「出発の場所」、また「使命の再確認の場所」へと変えられました。同じように、私たちの「今、ここ」も、復活の主との出会いによって、使命の場所へと変えられていきます。主イエスは生きておられます。ゆえに、キリストの復活という事実と、その喜びは、私たちを再びエルサレムへ、すなわち私たちが遣わされたそれぞれの日常へと押し出す力となります。

神は主イエスを「三日目に蘇らせました」という福音を、今度は私たちが証しする番です。新たな信仰の世界へと導かれた私たちは、勇気をもって踏み出しましょう。目には見えなくとも、神は「同伴の霊性」をもってこの世の終わりまで、主は必ず私たちと共に歩んでくださるからです。主の復活の恵みが、皆さんの歩みの上に豊かにありますように。