聖日礼拝 「神、われらと共にいます」
説  教       内田 聡 長老
旧約聖書  創世記 28章 10節~12節
新約聖書  ルカによる福音書 24章 50~53節

 

人類で初めて宇宙に行ったソ連の飛行士ガガーリンは、「地球は青かった。」と言いました。有名な言葉です。では、それに続けて「神は見当たらなかった。」と言った話はご存知ですか。この言葉はガガーリンのものではありません。その次の宇宙飛行士ゲルマン・チトフの言葉です。東西冷戦の最中、アメリカの記者団に語ったものでした。

ソ連と言う国名を違和感なく聞いてもらえて嬉しいのですが、正式にはソビエト社会主義共和国連邦です。中学生の時、正確に答えると日教組の先生から褒められました。「空の果て、天には神などいない。」という主旨の発言は、無神論に立つ共産主義者の言葉です。人は科学の力で神の領域まで至った。人間万歳!それは政治的なプロパガンダでもあったのです。

「空の果て、天には神が居まし給う。」というイメージは、先ほど読んで頂いた創世記28章のヤコブの夢に表れています。「先端が天まで達する階段」 とは、雲の隙間から太陽の光が地上へ射し込む様子。「ヤコブの梯子」として語り継がれました。その梯子を神の御使いが上ったり下ったりするのです。本日の聖書記事である「天に上げられる」も、この文脈にあります。

50節、「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。」 主イエスは弟子たちをベタニアへ連れ出します。ベタニアはイエス様が十字架と復活のためエルサレムに入城する時の出発点です。ここで子ろばを求められました。その時の弟子たちはイエス様の振る舞いが分かりませんでした。が、心の目を開かれた今、イエス様がキリストであり、真の王であると知っています。あの時の群衆はイエス様の奇跡によって 神を賛美しましたが、今は神である主イエスが 弟子たちを祝福されます。

祝福は、律法に於ける祭司の務めです。この礼拝も応援教師によって祝福されます。長老の場合は、聖書に書かれた祝福の聖句を朗読するに過ぎません。神と人の間には仲介者が必要なのです。しかし、この場面では神である主イエスご自身が祝福されます。これは信仰者が主イエスの恵みに与りたければ、直接に御許へ行く道が開かれているということを意味します。

51節、「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」 主イエスを天に上げるのは父なる神です。 天に上げられることを、イエス様は早い時期に自覚されていました。ルカによる福音書9章51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」と書かれています。天に上げられる前提が十字架と復活の出来事であるなら、エルサレムでの受難は 神のご計画の一部であったと分かります。

更に主イエスは、天に上げられた先のことまでご存知でした。最高法院で裁判を受けた時の御言葉です。ルカによる福音書22章69節、「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」 神の右は全世界を統治する者の座です。復活したイエス・キリストは神の右に座り、永遠に全世界を統治されるのです。乙女マリアによる誕生から始まったイエス・キリストの 救いの物語は、ここで完結します。

四つの福音書の中で、ルカだけが主イエスの昇天を書きました。マルコは空の墓で主イエスの復活を暗示し、マタイは弟子たちの派遣で終わります。ヨハネはイエス様が神の子メシアであることを証ししました。主イエスの昇天には、ルカの特別な意図があるのだと思います。それは神の救いの計画ということです。

ルカは、洗礼者ヨハネの誕生から書き始めます。旧約聖書から続く父なる神の救いの計画を示すのです。その救いの計画を、子なる神であるキリストが成就する物語、ルカによる福音書はそのように読むこともできます。天に上げられたイエス・キリストが、今、神の右に座られていること。今、全世界を統治されていること。それは永遠に続くということ。これは、わたしたちの信仰に於ける喜びです。人の歴史は神の救いの計画の中にあって、必ずハッピーエンドを迎えるのです。

とは言うものの、今の世界にハッピーエンドの萌しがあるでしょうか? 建設的な議論もせずに、「『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わす」政治家が 世界中に現れています。「「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」を聞かない日はありません。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。」という事態です。バットエンドの萌ししか見えません。

そもそも、天に上げられて力ある父親の右に座し、下界を眺めながら指図する息子にわたしたちの苦しみが分かるのでしょうか。何もかも支配者の気の向くまま。口答えすると罪人と言われる。現代の日本であれば、自己責任ということでしょう。

少し言葉が過ぎましたが、これは主イエスのことを言っているのではありません。でも天にいる支配者に、このような印象を抱いてしまうのは何故でしょうか。それは天という漢字を生み出した古代中国の思想にあると思いました。

天とは、もともと空のことです。農耕民族にとって天候は穀物の実りに重要な役割を果たします。その天候を操る者を考え、畏れることは自然なことでしょう。この天と祖先を敬う家父長制が結びつき、天帝という絶対的な神が生まれます。天帝は運命をも支配し、天命によって立てられた君主、天子が天下を治めます。その体制を支える儒教は天を道徳の源としました。だから天の代理人である天子に逆らう者は悪人と言われます。

主イエスは天に上げられるより前に、天から下った方です。神の子であるのに人の子として生き、わたしたちの苦しみを共にされた方です。悪人であるわたしたちの罪を担い、わたしたちの代わりに十字架で処刑された方です。この神の子が審かれることで、人の子の罪は除かれました。わたしたちはイエス・キリストの復活に与って、神の子として生きようとしています。世にあるイエス・キリストの教会は、やがて来る神の国の先駆けです。

主イエスは、わたしたちが影響を受けてきた古代中国の天帝とは似ていません。天帝は地上に下って、わたしたちの犠牲にならないからです。また神の国は、天子によって治められる地上の王国ではありません。地上の王国は永遠ではなく、天災によって滅ぼされ、新しく天命を受けた天子によって易えられるからです。天子の姓が変わる王朝の交替を易姓革命と言います。神の国は主イエスによってのみ統治され、永遠に変わりません。その神の国を目指し、わたしたちは地上を旅しているのです。

今の世界にハッピーエンドの萌しは見えませんが、先ほど述べたバッドエンドの萌しは主イエスがあらかじめ弟子たちに伝えていたことでした。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に表現を変えながら残されています。それは、エルサレム神殿の崩壊を預言したものとされますが、昨今の世界状況と重ね合わせても違和感がありません。いつの時代も人々はバットエンドの萌しの中にあるのです。

しかし、イエス様は言われました。「おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」 主イエスが天に上げられ、神の右にいて、全世界を統治されていることを知る時、この御言葉は大きな慰めです。

52節から53節、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」 弟子たちが主イエスを伏し拝むのは、主の復活に与ることで、イエス様は預言者が伝えたメシア、神の子キリストであると理解しているからです。イエス・キリストへの礼拝は父なる神への礼拝に他なりません。

主イエスが天に上げられることは弟子たちとの別れです。別れは悲しみの時ですが、弟子たちは大喜びしています。十字架で死んだと思ったイエス様が、主として復活されているからです。この喜びは放蕩息子の譬えの父親と似ています。ルカによる福音書15章24節、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」 この譬えは罪人の悔い改めだけでなく、主の復活の喜びを暗示していたとも言えるでしょう。

さらに弟子たちは、イエス様が復活について語ったことを思い出したかもしれません。 ルカによる福音書20章36節、「この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」 この人たちとは、「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」 即ち、主イエスを信じる者です。復活に与る者に肉体的な死の力は及びません。神の霊によって生きるからです。

神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。 すべての人は、神によって生きているからである。」 主イエスは、そのように語られました。

弟子たちはベタニアからエルサレムに帰ります。この道行は主エスが十字架と復活の出来事を成就するためのものでした。今は、主イエスと別れた弟子たちが跡を辿ります。その道行には十字架の苦難があります。しかし復活の喜びが苦難に打ち勝つのです。

53節、「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」 弟子たちは、主イエスから都に留まることを命じられていました。それは「高いところからの力に覆われるまで」の間です。「高いところからの力」とは、ペンテコステで下った主の聖霊のこと。それ迄は神に捧げられた神聖な場所に留まるのです。「神の護りの内にあれ!」ということでしょう。弟子たちは、エルサレム神殿の境内で神をほめたたえます。

さて本日の聖句を振り返ると、常に主イエスが先立ち弟子たちが従うという構造が見えて来ます。主イエスは、弟子たちをベタニアへ連れ出し、祝福し、天に上げられる。弟子たちは、天に上げられる主イエスを伏し拝み、喜び、エルサレム神殿で神を賛美する。賛美の前に主イエスの祝福があることに注目しましょう。神を賛美する報酬として祝福を受けるのではありません。主イエスの恵みを受けた感謝として、賛美が溢れ出るのです。

神は、この賛美を喜びます。賛美を捧げる者が主イエスの恵みに与っているからです。神は恩着せがましく感謝を求めません。主イエスの恵みを知った者が、神に立ち帰り、救われることを求められます。その応答が信仰です。賛美は信仰の証しなのです。

主イエスが天に上げられるのを見たのは弟子たちだけでした。人々が昇天という奇跡でなく、弟子たちの福音によって信じるためでしょう。この福音を信仰と言い換えることもできます。2026年の年間聖句は、「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」 というものでした。わたしたちは、この福音を自らの信仰の言葉に変えて伝えて参りたいと思います。

ソ連の宇宙飛行士が言った通り、空の果ての宇宙・天に神はいませんでした。しかし天とは空の果てのことでしょうか。空の果てだとしても、宇宙はさらに広大です。宇宙の果てを誰も見たことはありません。確かに、天と訳されたギリシャ語のウラノスは空のことです。しかし同時に、「神の支配が完全に行われている世界」とか、「主と共にある場所」という意味もあります。だとしたら、わたしたちは漠然と天を見上げるべきでしょうか。

主イエスは神の国、天についても語られました。ルカによる福音書17章20節、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』 『あそこにある』といえるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」」 神の国はわたしたちの信仰の交わりの中にあるのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 信仰の交わりの中に 主イエスはいるのです。

イエス・キリストはわたしたちと共におられます。「神、われらと共にいます。」ヘブライ語でインマニエルと言いますが、それは預言者イザヤが残したイエス様の称号です。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をイヌマニエルと呼ぶ

2022年11月からルカによる福音書を読んで参りました。3年余りをかけ、本日で読み終えます。先週の説教で、主イエスの福音伝道が3年と知った時、しみじみ思いました。当時の人々と同じ時間をかけて、わたしたちも御言葉に聴いたのだということです。

この一年は、澤正幸教師の応援を受けつつ、長老も交えて説教しました。私が説教する時には、福岡城南教会の一員として御言葉に聴きたいと願い、取り組んでいます。その意味ではルカによる福音書は教会員の皆さんと共に読んだと思っています。この福音書は、地上に下られたイエス・キリストの言葉と業を、ルカが信仰の根拠として書き留めたものです。そのイエス・キリストに出会った者として、わたしたちも日々の生活の中でイエス・キリストを覚え、その言葉と業を自分の出来事として全世界に告白しましょう。

父と子と聖霊の聖名によって。

 

お祈りします。

父なる神様、あなたの右に御子がいまして全世界を統べたもう幸いを、感謝します。御子は、わたしたちの苦しみを共にされつつ、わたしたちを解放する、御言葉を与えられました。御子の十字架と復活によって、その業は永遠となり御霊によって、今も、わたしたちと共におられます。御子が成し遂げた救いの恵みに感謝します。聖なる神様、福岡城南教会を憐れんで下さい。昨年は、多くの兄弟姉妹が天に召されました。残された現住陪餐会員は、少なくなりました。新しく牧師を迎える喜びと不安が共にあります。主にある喜びが 思い悩みに打ち勝つように、どうか、わたしたちの信仰を強めて下さい。

主なる神様、世界に平和を与えて下さい。あなたに捧げる賛美の歌を、全世界に響かせて下さい。あなたの栄光で、全世界の人々をもっと照らしてください。

この祈りを、主イエス・キリストの御名によって
受け入れたまえ。アーメン