聖日礼拝
説教「益となる豊かな実」 内田 聡 長老
旧約聖書  創世記 8章 20〜21節
フィリピの信徒への手紙 4章 10~20節

新約聖書を最初から読んでいると、文章の調子が変わったなと感じるところが、二つあります。使徒書簡とヨハネの黙示録です。

四つの福音書から使徒言行録までは、イエス・キリストによる神の救いと、聖霊による広がりでした。この物語は、イエス様をキリスト、救い主と告白する信仰を引き起こします。しかし、使徒書簡はそうではありません。これらの手紙は「信仰があること」を前提とするからです。未信者に向けて書かれた入門書ではありません。信仰の正しい理解、信仰の正しい実践を示す、使徒と呼ばれた“人”の手紙です。

人は神に創られた者ですから、自らが産まれた時と所でしか生きることが出来ません。従って、“人”である使徒の手紙は、書かれた時代の制約を受けます。また、その手紙が送られた “言わずもがな” の事情も、送り手と受け手の他には分かりません。ですから使徒書簡をそのまま読むと、現代の信仰者には違和感のある個所もあるのです。この場合、註解書などで必要な知識を補い、違和感を解消します。「なるほど、当時の人はこのように考えたのが。今とは違うな。」という具合です。しかし、そこに留まるだけなら、違和感の向こう側から語り掛ける聖霊の声を聞き逃すことになるでしょう。本日の説教で取り上げる記事が、私にとってのそれでした。

本日の記事には、「贈り物への感謝」という小見出しがついています。手紙を送った使徒パウロは、誰に何を感謝しているのでしょうか。「フィリピの信徒に、贈り物を、感謝している。」と言ってしまえば、それまでのことです。しかし、この記事には“感謝”という言葉が一つもありません。いわゆる感謝状ではないのです。

フィリピの信徒への手紙は、牢獄の中にいるパウロによって書かれたものです。そこはローマだと言われていますが、フィリピに近いエフェソかもしれません。いずれにしても、イエス・キリストの福音を宣べ伝えたために投獄されたのでしょう。監禁されているパウロにフィリピの信徒たちが、彼の必要を満たすための贈り物をしました。贈り物を運んだのが、フィリピの信徒の一人であったエパフロディトです。

ところが、そのエパフロディトが獄中で重い病気になってしまいました。単に贈り物を手渡すだけでなく、パウロの世話をする務めを担っていたのかも知れません。彼の病気はフィリピの信徒も知るところとなり、エパフロディトは自責の念に駆られます。「自分は皆の期待に応えられなかった。」と。

それを察したパウロは、病気が良くなったエパフロディトを、大急ぎでフィリピの信徒へ送り返しました。その時に持たせたのが、このフィリピの信徒への手紙です。この辺りの事情は、2章の25節から30節に書かれています。パウロがエパフロディトの奉仕を全力で弁護していますので、後ほどお読み下さい。

フィリピの信徒への手紙は、4章4節に「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」とあるように、“喜び”と言う言葉が12回も出て来ます。喜びの手紙とも呼ばれます。 パウロが、この手紙を締めくくるにあたり、その喜びを綴っているのが4章10節から20節です。

10節、「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。」パウロは贈り物に感謝するとは言いません。信徒たちの心遣いを喜ぶのです。この喜びはパウロの中から湧きおこる感情ではなく、使徒と信徒の交わりの中で、「主において」引き起こされる気持です。

ついにまた表してくれた 」という表現は、15節と16節を前提としています。パウロが初めてマケドニア州で宣教した時、「もののやり取りでわたしの働きに参加した」のは、フィリピの信徒だけでした。パウロがテサロニケで窮乏していた時、「何度も物を送って」救おうとしたのもフィリピの信徒でした。使徒と信徒の豊かな交わりが、既にあったということです。「今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。」という少し横柄な物言いも、これまでの豊かな交わりがあるなら、パウロの心遣いに思えてきます。

さて、使徒パウロとフィリピの信徒にあるような贈り物による交わりは、珍しいものでした。コリントの信徒への手紙一、9章18節に 「福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いない」と書かれています。これがパウロの基本姿勢でした。コリントでもテサロニケでも、信徒に負担をかけないように、パウロは夜も昼も働きながら、自分の手で稼ぎました。

にもかかわらず、コリントの信徒からは「負担をかけなかったとしても、悪賢く」「だまし取った」と思われます。福音の伝道に名を借りて自分の利益を求める “偽の使徒” と 疑われたのでしょう。パウロは、生前のイエス様から直接に教えを受け、選ばれた使徒ではありません。それらの使徒の弟子でもありません。彼の使徒性には疑いの眼差しがあったのです。

もちろん、パウロは復活したキリストによって召された使徒です。使徒の権利も知っていて、コリントの信徒への手紙一、9章に書いています。しかしパウロは、「キリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。」自らの使徒であることの疑いが、キリストの福音の妨げにならないよう自制しているのです。

11節、「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。」わざわざこのような書き方をするのは、これまで述べたパウロの経験によるのでしょう。物が有っても無くても、12節、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」 13節には、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」とまで言い切ります。パウロを召したキリストへの徹底的な信頼こそ、彼の使徒性の証でしょう。それは信徒の模範でもあります。

フィリピの信徒はパウロの使徒性を誤解しませんでした。彼が福音を宣教するための必要を支えました。コリントの信徒への手紙には「あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした。 マケドニア州から来た兄弟たちがわたしの必要を満たしてくれたからです。」とあります。この「マケドニア州から来た兄弟たち」とはフィリピの信徒です。パウロがコリントの信徒に「わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。」とまで言い放つのは、フィリピの信徒の物質的な支えがあったからでしょう。今回も、牢に監禁されたパウロの必要を満たすため贈り物をしています。

17節、「贈り物を当てにして言うわけではありません。」 贈り物がパウロを支えるにもかかわらず、パウロの望みは贈り物ではありません。それは、「あなたがたの益となる豊かな実」です。最新の聖書協会共同訳では「あなたがたの帳簿を黒字にする実り」と訳されています。こちらの方が原文のニュアンスが伝わります。唐突に、金銭取引の用語が出るので戸惑われるかもしれませんが、「帳簿」と訳されたギリシャ語はロゴス。

そう、「初めに言葉があった。」の「言葉」と同じロゴスです。ここでは、損得勘定の“勘定”という意味で使われます。15節に「もののやり取りでわたしの働きに参加した」と書かれていますが、「もののやり取り」は、直訳すれば「与えることと受けとることの勘定」です。実務的な貸し借りがあることをパウロは弁えているのです。

但し、この勘定は、商品やサービスを金銭で交換する商売上の勘定とは異なります。コリントの信徒への手紙に、「わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。」と書かれたもの。信徒が受けた福音に対して使徒の必要を満たすという勘定です。パウロの必要を満たさないコリントの信徒の勘定は赤字でした。フィリピの信徒の勘定は黒字になるとされます。  しかし、その勘定はパウロに対しては等価交換、貸し借り無しのはずですね。フィリピの信徒の勘定を黒字にするもの、益となるものは何でしょう。それは、使徒が蒔いた信徒の実り、「香ばしい香り」です。

18節、「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。」 贈り物に対して「豊かになっています」、「満ち足りています」と応えるパウロの言葉には、“感謝”の気持が込められています。しかし、この喜びは個人的な感謝に留まりません。神様に喜ばれる「香ばしい香り」へと高められるのです。

先ほど読んでいただいた旧約聖書の記事は大洪水の後でノアが捧げた礼拝でした。ノアは創造主のために祭壇を築き、犠牲を捧げたのでした。主は祭壇の犠牲から立ち上る「宥めの香り」を嗅いで誓います。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。」 と。

主は義なる方であるため、不義を見過ごすことができません。罪に対しては怒ります。主の怒りは、人の罪ではなく神の義が支配することを示しています。大洪水はその結果でした。新しい世界で、ノアが最初に行うべきは、主の怒りを宥めることだったのです。

パウロが18節で書いた「香ばしい香り」は、ノアが献げた「宥めの香り」に着想を得ています。フィリピの信徒の贈り物は、焼き尽くす犠牲だというのです。パウロの後継者は、「宥めの香り」にイエス・キリストの犠牲を重ねます。エフェソの信徒への手紙5章2節に「キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供えもの、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」と書かれています。18節後半とよく似た文章ですね。

今週はイースターを前にした受難週ですから、イエス・キリストの犠牲を覚えましょう。18節で「いけにえ」と呼ばれるものを、パウロは微妙に言い分けて筆を進めます。まず、17節で当てにしてないという「贈り物」は別の単語です。18節の前半「そちらからの贈り物」と訳された言葉は、「あなたがたからのもの」というのが直訳。「贈り物」という単語はありません。即ち、フィリピの信徒の物質的な支えは、「いけにえ」へと霊的に変化するのです。エフェソの信徒への手紙によるなら、イエス・キリストの犠牲にも似た出来事が起こるということです。それは十字架で示された愛の業です。わたしたちの愛を「神が喜んで受けてくださる」のです。この愛は、人の罪に対する神の怒りを宥める香りです。

“キリスト者には香りがある”と、パウロはコリントの信徒への手紙二、2章14節で書いています。神様が「キリストを知るという知識の香り」を漂わせて下さるからです。「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香り」であるとも。その香りは、「滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香り」とされます。その意味するところは、キリスト者が神の愛を世に証しする生活です。フィリピの信徒の贈り物は、そのような生活の一つでしょう。イエス・キリストを証しする生活に、不足はありません。19節に、「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」とあります。フィリピの信徒は使徒パウロのように「いついかなる場合にも対処する秘訣」を会得しつつあるのでしょう。キリストの真実に基づく、神様への信頼が、信仰として実っているのです。これこそが、「益となる豊かな実」。わたしたちの目指すところです。

それにしても、フィリピの信徒が このように優れているのは何故でしょうか。フィリピは古くから栄えた都市でした。この手紙が書かれた頃は、ローマ軍を退役した老兵たちが移住した植民地です。市民の大半にローマ市民権があり、皇帝の庇護を受ける自由人でした。そこに住むユダヤ人も彼らを相手に上手に商売し、それなりの富を得ています。リベラルな環境で、フィリピの信徒たちは心身共に余裕があったのでしょう。そのような資質があったから、パウロに無理なく贈り物して、あのような信仰に至ったのでしょうか。

フィリピの信徒には、使徒パウロが宣教に訪れた時の決定的な体験があります。使徒言行録の16章に書かれていますが、大地震が起こって、投獄されていたパウロが釈放されるという出来事です。突然、大地震か起こることも奇跡ですが、牢の戸が開き、鎖も外れて逃げ出せるにもかかわらず、パウロは牢に留まり看守を回心させます。この回心が高官たちに広がり釈放となったのでした。フィリピの信徒になったリディアという婦人と仲間たちは、釈放されたパウロから励まされたと書かれています。フィリピの信徒はこの出来事をパウロと共有し、その上に立っているのです。パウロが再び投獄されたとしても、主によって解放されると確信できるのです。彼らの資質に因るのではなく、神の恵みが先行しているのです。

実は私も、同じことを説教準備で体験しました。今回、任された説教箇所はフィリピの信徒への手紙4章でしたが、4節から9節のところは既に説教されていました。2024年の5月19日、2年前のペンテコステ礼拝です。説教者は澤正幸牧師ではありません。崔炳一宣教教師だったのです。

2年前のペンテコステに招かれた崔炳一宣教教師が、4月からこの教会の主任牧師となる。あの日、誰が思い描いたでしょう。崔炳一先生ご自身も想像しなかったでしょう。わたしたちの思いを超えて、神の恵みは先行するのです。だからこそ、今日の説教は、あの日の説教箇所の続きから御言葉に聴こうと思いました。

説教の冒頭で、「使徒たちの手紙は信仰を前提とするもので、未信者の入門書ではありません。」と語りました。では、未信者にとって入門書とは何でしょう。四つの福音書でしょうか。それさえも一つの神話として読んでしまえば終わりです。未信者にとっての入門書は、実はキリスト者の香りです。神が喜んで受け入れる一人一人のキリスト者の香りです。だからあなたがキリスト者であること、ここに教会が立っていることが、何よりも大事なのです。

神の恵みによって、わたしたちは主任牧師を迎えることができました。崔炳一牧師の導きで、わたしたちの「益となる豊かな実」を神様と隣人に香らせて参りましょう。

父と子と聖霊の聖名によって。

お祈りします。父なる神様、棕櫚の日曜日に王として迎えた御子を人々は、金曜日に十字架に付け、罪人として処刑しました。審かれるべき人の罪を贖われた、御子の愛に感謝いたします。この十字架の愛に倣い、罪を告白して自らを献げさせて下さい。

神を信じる者の香りで、あなたの義とあなたの愛を世に伝え人々が悔い改めますように。主にある平和を与えて下さい。この祈りを、主イエス・キリストの御名によって受け入れたまえ。アーメン