聖日礼拝
「シャロームに生きる神の寄留者として」
説教 金性済(キムソンジェ)牧師
旧約聖書 エレミヤ書29章 4〜7節
新約聖書 ヨハネによる福音書 20章 19〜23

I 旧約聖書の預言者という存在

旧約聖書において、預言者(ナービー)という存在はイスラエルの民が王の統治する王国期以降、特にダビデとソロモンの統一イスラエルの王朝が破綻して、イスラエルが北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂して以降、歴史に登場するようになります。神自身がイスラエルの民を導く時代が終わり、神と民の間に権力と富をもつ王が介在し、軍隊と官僚体制をもって民を治め、また民から税を徴収する時代に預言者の存在と働きが始まるのです。預言者は、神自身から直接選び取られ、召命を受け、当時の王をはじめとする権力者や宗教指導者の圧迫や迫害にひるむことなく、神の正義と裁きの託宣を受け、支配者と民に向かって言葉を伝えることに命を懸けました。旧約聖書の研究においては、列王記上17章以降に記されたエリヤやエリシャら紀元前9世紀の北イスラエル王国に登場し、腐敗する王と対決した預言者と、紀元前8世紀以降、南北イスラエルに登場した預言者たち(アモス、ホセア、イザヤら)、そして紀元前6世紀のバビロニア捕囚期以降の預言者(代表的にはエゼキエル)と、歴史的に分類されています。

ここで取り上げる預言者エレミヤとは、紀元前7世紀の後半、既に北イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされた(紀元前722年)後、アッシリアに続き台頭した新バビロニア帝国に脅かされる南ユダ王国のヨシヤ王(紀元前622年―69年)即位の前に神の召命を受け、少なくともバビロニア帝国軍による第一回エルサレム攻撃と住民の捕囚(強制連行)が起こった紀元前598年ころまではエルサレムを中心に活躍したと考えられます。

II バビロニア捕囚と預言者エレミヤ

この聖書研究で取り上げる預言者エレミヤの言葉には、紀元前598年にバビロニア帝国によって南ユダ王国が攻撃され、多くの人々がバビロンに強制連行された歴史、つまりバビロニア捕囚の歴史が背景となっています。バビロンに連行された人々の間には意見の混乱が渦巻いていたと考えられる。エレミヤ書28章に記された偽預言者ハナンヤに扇動され、バビロニア捕囚の事実を受け入れることができず、神に守られるエルサレム神殿が滅びるわけがなく、むしろ自分たちは間もなくバビロンからエルサレムに戻れる、と熱狂的になり、捕囚の身となった人々はバビロニアで落ち着かず浮足立っていたようです。しかし実際には、第1回目の捕囚から12年後、586年にエルサレム神殿はバビロニア軍によって完膚なきまでに破壊されてしまうのです。人々は、冷厳な現実の前で深い失意に陥ってしまったことでしょう。そのようにエルサレム神殿という信仰と民族のよりどころを喪失した失意の中に転落してしまった人々に、エレミヤ書29章4-7節の本文に記されたエレミヤの言葉が伝えられたと考えられます。

そのエレミヤの言葉を要約すればこのように言える。自分が直面している現実を直視し、受け入れ、しかしなおそこで生かされている自分は家族を愛し、守り、そしてそのためにその捕囚の地でしっかりと生活の基盤をつくり、糧を得て、家族と同胞を増やしなさい、ということです。この預言者エレミヤの言葉の中で最も注目すべきは、その最後の言葉です。つまり、自分たちが連行され、捕囚生活をする地において、その町の「平安」のために祈り、それによって自分たちも平安に生きよ、ということなのです。

III 共に生きる「シャローム」へ

ここには旧約聖書に記されたイスラエル民族の歴史において画期的なことが語られています。日本語の聖書(新共同訳)で「平安」と訳された言葉のヘブライ語原語とは、“シャローム”です。この言葉は、「平和」や「福祉」とも訳せる言葉です。イスラエル人は今日でも、互いに“シャローム、シャローム”とあいさつを交わし合います。まるでそれは、韓国語の朝昼晩のあいさつで使われる「アンニョン」、それを漢字で表記するなら、もう日本では日常生活では使われない「安寧」という言葉を思い起こさせます。旧約時代においてもシャロームとは、バビロニア捕囚前から人々に肯定的な意味をもって家族同士、また同胞同士で大切に守られていたことでしょう。しかしこれは大変注目すべきことです。シャロームとはそれまで、「われら」という家族や同胞(イスラエル)の平安、平和、そして福祉を意味するものとして使われてきたのです。しかし、驚くべきことに、エレミヤは、バビロニアの町の平和のために、しかも自分たちの心のよりどころであった神殿を破壊し、異国の地に強制連行した憎むべきバビロニアの平和のために祈れ、と教えているのです。このエレミヤの言葉を聞いた人々は心にどれほど衝撃を覚えたことでしょうか。いわば、「敵」の平和を祈れ、というようなものです。しかし、ここに旧約聖書の思想に画期的なことが起こっている。それは、「平和/シャローム」という言葉が自分の民族をこえて、他民族、しかも自分たちに苦難を負わせた民族と分かち合う普遍的なテーマとして指し示されたことになるからです。さらに言うならば、バビロンに囚われたユダヤ人たちが心の中にただ憎しみと怒りを煮えたぎらせていたのなら、その地で「平和の祈り」はできません。言い換えると、自分の心の中の憎しみと怒りに打ち勝ち、そこを乗り越えて、自分が置かれた地、その現実の中で平和を求め、平和を分かち合い、それによって自らの平和を生み出しなさい、という教えなのです。まさに新約聖書のイエスの福音につながっていくメッセージといえないでしょうか。

シャロームという言葉をめぐり、エレミヤ書全体を紐解くと、興味深いことに気づかされます。シャロームという言葉は、エレミヤ書において31回用いられています。日本語聖書において「平和」という言葉以外にも訳されることがあります。しかし、注目すべきは、この「平和」という言葉が預言者エレミヤの口から発せられる場合、エレミヤ書29章の前までは、ほとんどすべてシャロームが否定的な意味で用いられているのです。つまり、「平和がないのに『平和、平和』と言う。」(エレミヤ書8・11)というように、偽預言者や人々が口にする「平和」が、神の言葉から信仰的には堕落し離反しながら、現実を直視せず、虚構の平和を粉飾する欺瞞に満ちていることを、エレミヤは歯に衣着せず暴き、徹底的に告発しているのです。

ところが、ユダ王国が破滅し、バビロニア捕囚の苦難に投げ入れられた人々にエレミヤが語りかけたシャローム(平安/平和/福祉)とは、もはや以前のように否定的な意味ではなく、肯定的で、未来に向かって希望のメッセージであり、厳しい現実の中で疲れ果てる人々に慰めと励ましの言葉となっています。シャロームが肯定的で希望的に、29章4-7節の本文で3回用いられる他に、29章11節、そして33章(6、9節)で2回用いられています。この29章から33章のエレミヤ書の文脈とは、バビロニア捕囚の苦難の歴史をこえて、神が新しい契約の民としてイスラエルを生まれ変わらせ、エルサレムを復興される、という未来を展望する約束と希望が告げられるところなのです。

言い換えると、このような約束を実現するために、神は人々の思いをこえて、むしろご自分の民の、バビロニアにおける寄留者生活という苦難の歴史経験を、そのための準備として計画し、導いておられた、と私たちは気づかされます。

このような神のみ旨を理解する上で、シャロームのほかに二つの重要な言葉がエレミヤ書にはあります。

その一つが、「荒れ野」(ミッドバール)です。エレミヤ書2章2節には、「わたしは、あなたの若いときの真心/花嫁の時の愛/種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。」という言葉が記されています。つまり、イスラエルの民がもう一度、花婿の前に初めて立つときの花嫁のように、神への純粋な信仰に立ち帰るために、この世の富も権力も栄華も何も誇れない苦難の多い「荒れ野」の地平に立ち帰らねばならない、と預言をエレミヤは語っています。「荒れ野」をそのように肯定的に受け止めるエレミヤの心には、イスラエルの民がエジプトから救い出されたのち、荒れ野での40年の放浪を通して“奴隷の民”から「神の民」にふさわしいものに変えられる訓練を受けたのだということが想起されていたことでしょう。エレミヤが第2章で語った「荒れ野」、もう何もこの世の豊かさを誇ることも、飾ることもできず、裸の自分に立ち帰るほかなく、そこで神の前に立つことのできる「荒れ野」こそ、実は、イスラエルの民にとってのバビロニア捕囚経験であったといえます。

もう一つエレミヤ書を理解する上で重要な言葉とは、“シューブ”(戻る/立ち帰る)という言葉です。この言葉もエレミヤ書の中で繰り返し用いられています。

すなわち、「荒れ野」のような現実であるバビロニア捕囚の状況の中で、もう一度純粋な信仰へと立ち帰る(シューブ)と同時に、そこで神との平和を回復するばかりでなく、その置かれたところで神の平和を、その土地の人々と、憎しみも敵意もこえて分かち合う道がエレミヤの言葉によって捕囚の民に神によって指し示されているのです。

「荒れ野」、 “シューブ” そして“シャローム”という三つの言葉がバビロニア捕囚という異郷の地での寄留者としの歴史経験の中でひとつにつながり、熟成することによって、エレミヤ書は当時の捕囚民のみならず、今日の私たちにも神の大切な言葉を告げているのではないでしょうか。

IV

私は日本で在日コリアン2.5世として生まれ育ち、ひとつの大学を終えた頃、献身して神学校で学び、その後、生まれて初めて29歳になって韓国に語学留学しました。8か月ほど韓国語学習と説教の特訓を経て、母国語である韓国語で自分の気持ちや考えをなんとか表現することに自信が出てきました。そこで、延世(ヨンセ)大学の神学部のある教授の研究室を訪ねた。その教授に私は、日本に暮らす在日コリアンと、その中にある在日韓国教会(以下、KCCJ)の歴史と存在理由について情熱をこめて話させてもらいました。ところが、私の話を聞いたその教授は、私になんと応答したか。彼曰く、世界の歴史を見れば、民族的少数者は、いずれは多数者の中に同化していくものである。在日コリアンもいずれ皆、日本人になって消えていくであろう。だから、在日コリアンのアイデンティティやKCCJの存在理由にこだわって生きるよりも、むしろ日本人として日本国民の福音化のために生き、働きなさい、と。それが教授の、私への励ましだったのである。私はその瞬間、言葉を失い、目の前が真っ暗になるような気持になってしまいました。

教授の研究室を出て、下宿に帰り、私はふさぎ込んでしまった。在日コリアンのアイデンティティも、KCCJの存在理由も虚しい、と。その空虚な気持ちが何日も続きました。しかし、私はその中でこそ、イエス・キリストの十字架と復活の福音に立ち帰ることができ、そして立ち直ることができました。本当に存在理由がないと神がお考えなら、KCCJはこの世から消えていくだろう。しかし、神が必要だとお考えなら、消えたと思っていたところから、KCCJはきっとよみがえるに違いない。この神のみ旨とご計画に自分をゆだね、従えばいい。この確信が私の心の中によみがえり、私は韓国留学後日本に戻り、牧会と宣教の道に進むことができました。

KCCJは、1908年からの宣教運動の段階を経て、1934年に独立した教団として誕生するようになりました。しかし、日本のファシズム軍国主義化の嵐の中で民族教会として生き残ることが困難となり、1940年の臨時総会で、日本基督教会(旧日基)との「合同」を余儀なくされ、「合同」を決議することになりました。しかし、それは、当時の日本基督教会においては「合同」とは受け止めておらず、浪速中会への加入を認める、というものに過ぎませんでした。つまり、KCCJは、1940年の臨時総会において実質的には解体を決議したことになるのです。

日本が敗戦するや、1945年にはKCCJの指導者たちは地下から現れるかのごとく、会議を開き、そして12月に日本基督教団に対して脱退通告をしました。あのまま、当時の朝鮮人牧師や信徒は、解放された朝鮮半島に帰らないのであれば、戦後の日本基督教団の中に残る道もあったことでしょう。しかし、当時の指導者たちは、脱退独立と、そして在日の道を決断したのです。私はその歴史的決断の中には、主イエス・キリストが在日の貧しさと抑圧の辱めと苦しみを選び取り、共にしてくださったのだと信じます。それがKCCJの戦後復興の始まりであり、その道を導かれた主イエス・キリストの目的とは、日本と韓国・朝鮮の間というバビロニア捕囚状況に遣わされて神の寄留者としてシャロームのために生き、はたらく、の一語に尽きると考えます。

私には、NCC(日本キリスト教協議会)総幹事時代に忘れ難い思い出があります。

2019年7月末にNCC4名とKCCJ3名による平壌訪問が行われました。その契機となったのは、その年2月に、故関田寛雄牧師がNCC総幹事である私に平壌訪問を依頼されたことです。すなわち、日本のキリスト教会は韓国の教会には何度も植民地支配に対する謝罪の旅を繰り返してきたが、北側の教会には不十分であると。だから、NCC総幹事である私が呼びかけて、謝罪の訪問団を計画してほしい、という依頼でした。

2019年2月の米朝ハノイ会談の失敗以来、その前年の状況とは異なり、南の韓国から北側の朝鮮に行くことは全くできない状況となっていました。そのような時期に、主は、日本からの和解と平和を求める道を、中国経由で残しておいてくださっていたのです。その年2月からの準備の道は、大変短期間でしたが、多くの困難に遭遇しながらも一つひとつ障害は取り除かれて行きました。準備の過程においては、周りからいろいろな声が聴こえてきました。「まだ、拉致問題も完結していないのに・・・こんなミサイルが何度の発射される時期に北朝鮮に今、謝罪に行く時期なのだろうか・・・」。

私たち訪問団は、7月27日に北京経由で平壌に着きました。そして、28日の日曜日に、平壌の鳳水(ボンス)教会で朝鮮基督教聯盟(康明哲<カン・ミョンチョル>委員長がた)と協議をしたのち、主日の礼拝に出席しました。礼拝後の時間に3名のNCC日本人参加者が謝罪文を手分けして朗読し、私が逐次通訳を担当しました。朗読後、300名を超える礼拝参加者から総立ちとなり、万雷の拍手を受けました。拍手の中を私たちが礼拝堂を後にしたときのことです。礼拝堂にいた信徒たちが私を追いかけてきたのです。そして、私に先ほど朗読した謝罪文のコピーを求めてきたのです。たくさん余分のコピーをもっていた謝罪文を競うように信徒たちは持って行ってしまったのです。

その夜私はホテルでその日のことを思いめぐらしました。日本では人々が、「一体、北朝鮮の人々は何を考えているのか?」と、疑心暗鬼となり考えるのと同じように、朝鮮の人々も、日本の人々は何を考え、また自分たちをどう思っているのか、と深く思いめぐらし、知りたがっているのだ、と私はしみじみ考えるようになりました。

私たちは、日本の人々も、韓国、そして朝鮮の人々も皆、この世界において敵意と疑心暗鬼のバビロニア捕囚の現実におかれているのではないでしょうか。このような現実においてこそ、私たちがまず、あのヨハネ福音書13章のしもべの姿となられ、自分を相手よりも低くし弟子たちの足を洗われた主イエスのこころで和解と平和を求める祈りと交わりを続けて行かなければならないのではないでしょうか。この敵意と疑心暗鬼が悪霊のように支配する新冷戦時代のバビロニア捕囚世界に復活の主は鍵のかかったわたしたちの現実を訪ねてくださるのです。

私たちは今日その主によってこの礼拝に呼び集められ、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ福音書20章19節)と主イエス・キリストの御声を聴き、励まされているのではないでしょうか。