聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第68回
「滅びを免れる方法などあるのか」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 エゼキエル書 18編 30〜32節
新約聖書 ルカによる福音書13章 1〜5節

ピラトのガリラヤ人虐殺事件が与えた衝撃

「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた。」主イエスのもとにもたらされたこのニュースはそれを聞く人々の心を凍り付けさせる、衝撃的な知らせだったでしょう。
事件が起こったのはおそらく過越の祭のとき、ガリラヤを始め各地から人々が巡礼となった都エルサレムに上ってくるときで、それゆえこの虐殺が起こり、血が流されたのはエルサレム神殿の中であったと思われます。何がきっかけとなってガリラヤからの巡礼者が虐殺されたのか、騒動とか、反乱のようなことがあって、それを鎮圧しようとしてローマ兵が剣を抜いて、ガリラヤ人を殺したのか、はっきりはわかりません。わかることは、殺害されたガリラヤ人の血がエルサレム神殿の祭壇に注がれる犠牲の血、この上なく神聖であるべきその犠牲の血に混ぜられたことです。犠牲の血を人々から受け取って、祭壇に注ぐのは神殿祭司の務めです。祭司がこのような暴挙が神殿でなされるのを傍観し、さらに、その犠牲者の血が混ぜられている犠牲の血を受け取ることを拒否することもなく、祭壇に注いだということ、それは、その知らせを聞いた人々にとってこの上もなくショックなことであっただろうと思います。

主イエスにそれを知らせた人はだれか

福音書記者のルカは、この知らせを主イエスにもたらした人がだれであるか、ただ「何人かの人が来て」と書くだけで、それがどういう立場の人であったか書いていません。
それがファリサイ派の人だったり、サドカイ派の人だったり、あるいは熱心党と呼ばれる人であれば、それぞれ考え方、特にピラトに対する態度、ローマ帝国の植民地支配に対する立場が違っていたでしょう。しかし、ルカがここで、ニュースをもたらした人がどのような政治的立場に立つ人かを書かないことで、結果として、立場の違いを超えて、すべての人にとってこの事件が持つ意味を問いかけることになったと言えるように思います。

事件の受け止め方 罪の結果としての災難

主イエスの問いかけは人々の心の中にあった、この事件の受け止め方を浮かび上がらせています。
人々は犯罪が犯された場合、その罪の重さの程度に応じて、刑罰が下されるべきだと考えます。判決が死刑か無期懲役かでは大きな開きがあります。その違いを決めるのは罪の重さです。ガリラヤ人の被った災難、その程度が深刻であればあるほど、その災いを我が身に招いた罪がそれほど大きかったに違いない、そう人々が考えているのではないかということです。

神に対して問う自分 神からの問いを受けている自分

そのような考え方、いわゆる因果応報、災いや苦しみにあうのは、その人の犯した罪に対する報いなのだという考えを主イエスが正面から否定されるお方であることを、新約聖書は繰り返し伝えています。主イエスは人々の不幸、苦難、障害といったものをその人の罪と結びつける考えをきっぱりと否定される方です。
そのことを確認した上で、二つのことを付け加えたいと思います。
一つ。人生の不幸、世界で起きるさまざまな惨事について、どうしてこのようなことが起きるのか、それをわたしたちは神さま、どうしてですかと問います。神さまはなぜ、このようなことをなさるのだろうか、そう問うのです。それを「神義論」と呼びます。
しかし、わたしたちが神さまにそう問いかける時、同時に、神さまの方から、そう問うているわたしたちに問いかけがなされている。この出来事を通して、神様はわたしたちに何を言おうとなさっておいでになるのか、神がわたしたちに問いかけておられるということに、わたしたちは気づいているでしょうか。
もう一つ。第三者において起こっていること、それは、自分とは関係のないことだと思う。それは果たして正しいのかということです。それは無関係ではない、自分と関わりのあることだというのであれば、どういう形で関わりがあるのでしょうか。
人は皆、罪がないわけではない、それは認める、でも、人が皆罪人であったとしても、その罪深さには程度の差がある。すべての人がある人たちのように悪いわけではない。わたしたちはそう考えるでしょう。
しかし、果たして、そういう考え方が神様の前でも通用するのでしょうか。神さまは、ある人はましな人、ある人は許せない人とご覧になるのでしょうか。
人は等しく死にます。畳の上で安らかに死ぬことと、死刑囚として処刑されるのでは大きな違いだと思うかも知れませんが、神さまにとってもそうなのでしょうか。

シロアムの塔倒壊 紀元70年のエルサレム滅亡

エルサレムの住民、これは単に人が福岡市に住んでいるといったこととは違う意味を持っています。エルサレムの住民であるというのは、聖なる神の都に住んでいる、特別、幸いなことだからです。それなのに、よりによってその聖なる神の都エルサレムで、どうしてこんな事故が起こり、住民の中から犠牲者がでたのでしょうか。その18人は、よほど行いが悪かったのか、罪深かったからなのかという受け止め方がなされます。
エルサレムが神の都である以上、神がそこにいます以上、都は揺るがず、滅びることは決してないという考えに、それは繋がります。しかし、主イエスは、見よ、あのシロアムの塔の事件で死んだ18人は、やがて起こるエルサレム滅亡のしるし、前兆なのだと言われたのです。このルカ福音書は書かれた時代には、紀元70年のローマ軍によるエルサレムの破壊によって、エルサレムは滅んでいました。

先週の一人の姉妹の告白から受けた衝撃

エルサレム、神を礼拝する聖なる神殿のある都において、事件が起きるはずなどないと信じられていたのに、それが起きました。ピラトの事件もそうでしたし、シロアムの塔の崩壊も、起こるはずがないと思うところで、起こってほしくないところで、悲しむべき出来事が現実に起こったのでした。
わたしは先週、この教会を訪れ、ともに礼拝を守った一人の姉妹から聞いた話を、この聖書の記事と重ね合わせて読まずにおれませんでした。その姉妹は沖縄に帰ってからわたしに次のようなメールをくださいました。

忘れたいけれど忘れられない記憶、子供の頃に城南教会で体験したことを、話すつもりではなかったのですが、皆さんの温かい雰囲気、ニュージーランドに行って戻った話をした流れの中で、つい話してしまいました。
50年も前のことなのですけれど、不快な内容のお話、して良かったのだろうか、と反省していたところでしたので、先生からメールをいただくことができてホッとしています。
両親、兄弟姉妹、夫にも話していないこと(というか他者にお話ししたのが本当に初めて)でしたが、自分の教会の中でも機会を得たら話してみよう、と思いました。
教会だけではなく、その後も電車の中や、一人で歩いていた路上などで、私は何度か性被害に遭っています。
教会に通い続け、愛とは何なのか、人の愛と神の愛は何が違うのか、真の愛とは、などと深く考えるようになり、18歳の時に受洗しました。
性暴力は人が(あまりにも愛が、人との交わりが、欲しくとも得られないため)怪獣と化した末の行動ではないか、と今は思うようになっています。愛を強奪できるはずもないのに。

わたしは姉妹の話を聞いて、大きなショックを受けました。姉妹に性被害を与えた男性、当時、城南教会に通っていたというその男性に対して激しい怒りを覚えました。また、この城南教会の敷地、皆が大切に思い、心から愛しているこの場所を汚したその罪を許せないと思いました。
しかし、姉妹がそれを私たちに打ち明けられたのは、姉妹自身が長い間、許せないと思っていたその人と、その人の罪を赦そうと思った、自分自身が汚ないものにされてしまったという悲しみを抱えていたのを、神様が憐れんでくださり、自分の心の傷を癒してくださったとの感謝の思いから、50年前の、これまでだれにも話さなかったことを、わたしたちに話されたのでした。

悔い改めなければ滅ぼされる ヨナの宣教で悔い改めたニネベ

主イエスははっきり言われます。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
悔い改めれば滅びを免れるのでしょうか。思い起こすのは預言者ヨナの宣教によって悔い改めて滅びを免れたニネベのことです。
あのとき、ニネベの人々は40日したらこの町は滅びると聞かされると、上は王様から下は家畜に至るまで断食し、へりくだって祈りました。それを見て、神さまはニネベを滅ぼすことを思いとどまられました。
主が御心を変えられたとき、ヨナは怒りました。怒るヨナに主なる神は、あなたは正しいのかと問われます。もし、ニネベが許され滅びを免れることなどあってはならない、主はニネベを滅ぼされるべきだとヨナが主張するなら、ヨナ自身、どうして主に逆らって逃げ出し、嵐の海に投げ込まれながら、ついに魚の腹のなかから主に呼ばわって救われてよかったでしょうか。ヨナ自身、主に罪を赦していただきながら、どうしてニネベが主の憐れみを受けることを受け入れられないのでしょうか。

悔い改めとは何か

わたしたちはやがて死んでゆきます。わたしたちにとって、幸せな死を死ぬか、犯罪人として死刑となって死ぬか、それは神さまの目には、本質的な違いはないと思います。自分の愛する子がどういう死を迎えるか、死は死であり、惨めな死であれば一層、父なる神の悲しみと憐れみは大きいはずです。
わたしは罪人の死を喜ばない。だれの死をも喜ばない、立ち返って翻って生きることを喜ぶと言われた主に対して、今というときに、今日という日に立ちかえること、それが悔い改めだと思います。放蕩息子の帰りを待って、両手を広げて放蕩息子を喜び迎える父として、わたしたちを待っているお方がおられることを信じること、それが悔い改めです。そして神さまから、そのような帰りを待たれている放蕩息子は、すべての人なのです。
わたしたちは今、聖餐式を守ります。これはわたしたちがやがて天において、父の家に迎えられ、父の用意した祝宴にあずからせていただく食事の前触れ、先取り、しるしです。
それを思い、わたしたちは自ら悔改めるとともに、すべての人に悔い改めて父なる神に立ち返るよう呼びかけたいと思います。

父と子と聖霊の御名によって