聖日礼拝
「主イエスを中心とする同心円」
説 教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 エレミヤ書23章 23〜24節
新約聖書 ルカによる福音書12章 41〜48節
半期懇談会のテーマ
今日で2024年も半年が経ちました。半年を振り返って礼拝に引き続き懇談会を持とうとしています。「これからの伝道」というのが懇談会のテーマですが、要するにわたしたちの教会が10年後、どうなって行くのか、ひょっとしたら消滅してしまうのではないか、それはみなさんが日頃、口に出しては言わないとしても、密かに心に思っておられることなのではないでしょうか。
今朝の説教で、私は、いまこの教会の牧師として、教会の現在とこれからのことについて、日頃、真剣に悩み、考えていることを率直にお話ししてみなさんに聞いていただきたいと思います。
「主イエスを中心とする同心円」
今日のために準備した説教の箇所は先ほど読まれたルカによる福音書題12章41〜48節 で、説教の題は「主イエスを中心とする同心円」でした。ここで主イエスがお語りになる喩えには主人と管理人である僕と、その下で働く使用人が出てきます。この三種類の人が、41節に出てくる、主イエスと、主イエスの話を聞いているペトロをはじめとする弟子たちと、その弟子たちの周りにいる人々にそれぞれ対応しています。それが説教の題の「主イエスを中心とする同心円」と言う意味です。すなわち、主イエスが中心にいて、主イエスのみ言葉を聞く人々、それはこうして礼拝に集まってきている私たちであり、その外側にわたしたちの教会が伝道してゆかなければならない多くの人たちがいます。
わたしたちの思い込み
これがわたしたちの自画像であり、私たちの教会を鏡に写した時の姿だと言って良いと思うのですが、でも、そう思っているのはわたしたちの思い込みであって、世界の現実の姿とその自画像は食い違っているのではないか。
まず、主イエスを中心とする同心円というとき、わたしたちが描く同心円の中心にいるイエス・キリストというお方が世界の中心でもあるというのが、わたしたちの信仰だとすれば、それは正直に言ってわたしたちにとっては建前にすぎず、わたしたちは主イエスが世界の中心だなどと本心では信じていないし、現実の世界もまた、主イエスを中心にはしていないのではないでしょうか。
世界の中心はどこか
アメリカ、中国、ロシアといった大国はワシントン、北京、モスクワにこそ世界の中心があると考えていると思います。バイデン、習近平、プーチンといった政治家は自分たちこそ世界の中心にいると思っているに違いありません。それらの国家、権力者が互いに覇権を争って、自分たちこそ世界の中心だと主張するので、世界には中心が複数存在していて、世界には一つの中心などないのだと思います。あるのは対立、分断、戦争です。
宗教者の偽り
その現実の前で、厳しく問われているのが信仰者の姿です。宗教といっても良いと思います。これは最近読んで感銘を受けた本の一節です。
2024年現在、ロシアがウクライナ侵攻を行い、中東ではイスラエルがパレスチナのガザ地区を空爆している。多くの人々が戦争で亡くなり、傷ついた人々も数知れない。戦場を泣きながら歩く幼児や、家族を失い悲嘆に暮れる老婦人が映像に映る度に、戦争は止めなければならないと痛切に思う。そして次に思うのは、この時、一体宗教者は何をしているのかということである。地獄図を見るかのような映像が流れるそのただ中にあって、宗教者はなぜ沈黙を守り、国家の支配者に膝を屈めるのか。宗教者の矜持はないのだろうか。
宗教とは普遍的価値観を有するものであり、時代や社会の移り変わりの中にあっても、その主張は一貫している。置かれた時代の状況や大きな社会の変化の中にあっても、その教説は首尾一貫したものである。宗教は苦しみや悲しみにある者たちに深い慰めを与えるものである。宗派の違いはあっても、苦悩する人間に寄り添い、人の生を肯定するものである。すべての宗教はその教説の違いはあれ、人間が殺し合うことを肯定しない。戦争は何よりも人間を超えたもの、それを神と言おうが仏と呼ぼうが、人智を超えたものが最も忌み嫌うものではないのか。
だが、この戦争の現実は、神の、絶対者の不在を示しているのではないか。神がいるのに何故戦争は起こるのか。むしろこの世の悲惨な姿は神の不在を示しているのではないのか。こう語る人は少なくない。(「差別する宗教」鈴木文治著22ページ)
いくら宗教が世界の中心は神だと言っても、その神の名において戦争がなされているのが世界の現実です。仏教、イスラム教、ユダヤ教、そしてキリスト教も、カトリック、東方教会、プロテスタント諸派に分かれて互いに対立しています。世界の中心に神がいるということは、政治の世界と同じように、宗教の世界でも信じられないことであり、いな政治の世界以上に宗教こそが恐ろしく、醜い絶望的な争いを生むことを、人々は知って宗教に対して不信の念を抱いています。
そのような過去の歴史と今の現実を見れば、わたしたちの「主イエスを中心にする同心円」、世界の中心に主イエスがおられ、その周りに教会が集められ、教会の外にいる世界の人々を救いへと導くのだという自画像、鏡に映った教会の姿は、現実の世界の中では幻想に過ぎないと思います。そこでは信じると言っていることと、現実に起こっていることの間に明らかなギャップがあります。
鏡に映った教会の姿
そのような矛盾、現実と信仰の食い違いはわたしたちの福岡城南教会の中にもあります。少し、厳しいことを聞かされて、嫌な思いをされたらお許しいただきたいと思いますが、わたしたちの教会の中心はだれでしょうか。教会の中心がイエス・キリストであることはわたしたちの信仰にとってイロハのイです。教会は「主イエスを中心とする同心円」だからです。
でも実際、主イエスが教会の中心になっているでしょうか。わたしが30年前にこの教会に赴任してきたとき、よく聞いたお祈りの言葉は、今後、福岡城南教会が澤牧師を中心にして歩めますようにという言葉でした。実際、この教会は伝統的に、歴代の牧師達を尊敬し、牧師が中心となって教会を指導する教会だったと思います。しかし、教会の中心は牧師なのでしょうか。
牧師の周りに長老、執事がいる、それらの人々が教会の中心となります。結局、中心にいるのは主イエスではなくて人間になってしまいます。そして、中心にいる牧師と、中心に近い小会メンバーと、それに対して中心から遠い人ができてゆくのです。
また、一つの教会の中心だけでなく、複数の教会、それをわたしたちは中会とか、大会と呼んでいますが、その中心は主イエスでしょうか。福岡城南教会は九州中会の中で一番大きな中心的教会だとよく聞かされてきました。でも九州中会の中心は主イエスなのではないのでしょうか。
先週の説教から
先週、谷村長老によって「持つこととあること」という説教がなされました。その説教によって教えられたことは、持つということでは、持つ人と持たない人ができるということです。お金、財産、学歴、業績などは持つ人と持たない人がいます。そして信仰さえ、持つ人と持たない人の差別化が起こり得ます。
しかし、神は持ったり、持たれたりすることのできない生きた人格的存在です。持つことができる神、それは偶像です。神を持つ人と神を持たない人、それが教会の中心と外部を形づくっているというのは根本的に誤っています。
信仰は何かを持つ世界ではなく、あること、存在すること、神の前にあるがままに生き、生かされる世界です。そして、神はすべての人にとって「ある」お方です。障害のある人にもない人にも、白人であれ、黒人であれ、富める者であれ、貧しい者であれ、すべての人は神の前に「あって、ある」ものとして生きています。
「主イエスを中心とする同心円」とは何か
さて、一番大事なこと、肝心要のことを申さなければなりません。主イエス・キリストが中心であるということはどういうことかということです。
みなさん、もし、部屋の真ん中に椅子があったとします。そこに自分が座ったら、他の人がそこに座ることはできません。イエス・キリストが中心であるということは、主イエスはその椅子を他の人をそこに座らせるために空けるお方だということだと思います。主イエスはわたしたちを愛して、ご自分を無にして、わたしたちを受け入れてくださいます。
フィリピの信徒への手紙2章6節以下を読んでみたいと思います。主イエスは「自分を無にした」と書かれています。それはまた、わたしたち人間と「同じ者になる」ためだったと言われています。
自分と違う相手と一つになること。自分を相手の立場において、相手のこと、とりわけその弱さを思いやり、相手と同じ思いとなり、敵対する人をも愛すること、これが主イエスにおいて一つであるということだと思います。これが、主イエスが世界を一つに結びつける中心だという意味だと思うのです。
神の目に映る小さな群れ
みなさん、この教会の礼拝堂が人でいっぱいになること、それは主イエスを中心とする同心円を描くこととは違った方向を目指すことです。有名な牧師を中心とする、有名な教会、大きな教会となることは、わたしたちの教会がこれから目指すべき道ではありません。中心となるのは主イエス、自らを無にされて、人を愛される主イエスのみです。
教会はこの世界で小さいのです。現実に教会は小さな群れとしてこの世界のあらゆるところに存在しています。それはわたしたちにとってなんと美しい、喜ばしい、励ましに満ちたことでしょう。それだけでなく、そもそも教会は神様の目に、小さな群れとして映っているのです。その小さな群れが、神の前に生きているすべての人とともに、主イエスにあって愛しあい、つかえあい、互いに喜び合う共同体として生きることへと召されています。
今日、みなさんに差し上げた資料に、ウクライナの教会のことが書かれた文章があります。その教会はロシアの侵攻が始まる前は、せいぜい20人ほどの会員だったそうです。その教会が今は、教会員の数は依然として増えていないかもしれませんが、教会の周りに住む何百人の人たちに必要とされ、一緒に生きる共同体を生み出しています。その文章の最後はこう結ばれています。
「わたしたちの生活に変化をもたらすのは、コミュニティを通じて、小さなグループを通じてだけなのです。隣人、信頼する人、知り合いを通してーそれが変化をもたらす方法なのです。」
「これからの伝道」、これからの福岡城南教会の歩み、それは神さまの計画に預かってゆく歩みです。それは神様が望まれ、期待し、喜ばれる歩みです。わたしたちも神様を喜び、神様が愛しておられるすべての人々とともに生きてゆきたいと願います。
父と子と聖霊の御名によって