聖日礼拝「持つこととあること」
説教 谷村禎一 長老
福音書 ルカによる福音書 18章9-14節
使徒書簡 フィリピの信徒への手紙 3章12〜14節
みなさんは、教会の入口に毎週の説教題が掲示されているのをご存じだと思います。日本のほとんどの教会で掲示されています。その説教題を見た方が礼拝に来られるのを期待していると思います。説教題は、信仰的には正統的であると思いますが、通りすがりの人にとって魅力的でしょうか。ところで、福岡市のある教会で興味深い説教題が週ごとに掲げられているのを知りました。このような題です。「言いたいけど、言えない」、別の週は「奇跡はどうでもいい」また、「プライドを捨てた神」などの説教題がありました。これを見た人は「奇跡はどうでもいい」どうでもいいものなのかなどと、疑問を抱くのではないでしょうか。ただ、このような題であっても、説教の中身が、初めて来た人にとってもわかりやすくなければ元も子もありません。このようなことを考えて、今日の説教題はわかりやすく「持つことと、あること」としました。
パウロがフィリピの教会へ書き送った手紙から信仰者として生きるとは、どのようなことかを学びたいと思います。
フィリピの信徒への手紙3章12節を読んでみます。
わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。なぜなら、自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
フィリピの教会には「私は既に救いを得た」という人々がいたと思われます。ギリシャでグノーシス主義者と言われている人は、完全な神認識をすでに得ており、終末は不要と考えていました。あるいは完全主義者は、律法を遵守していたファリサイ人かもしれません。律法を守ることによって、完全な正しい人になるという考えです。解脱して悟りの境地を得た人もそうかもしれません。いずれにしても、すでに救いを得たという人は、自己充足していて自己完結しているのです。
ところが、パウロは、キリスト教の信仰はある境地に達することではなく、ゴールを目指して、求めながら走っている、継続している状態、現在進行形だと述べています。教会では洗礼を受けたかどうかを問題にします。洗礼を受けていない方は、未信者、求道者といわれます。しかし、ここでパウロが言っているのは、わたしたちは洗礼を受けて完全なものになったわけでなく、皆が求道者であるということではないでしょうか。洗礼は信仰がわかったという証明ではありません。パウロは、信仰を競技場で走るという喩えを用いて手紙の中で何回も書いています。パウロは走ることを比喩的に用いていて、私たちが実際に走るのではなく、毎日を信仰者としてどのように生きるかを問題にしているのです。
例えば「ヘブライ人への手紙」12章1節~3節にこうあります。
すべての重荷や絡みつく罪を捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の導き手であり、完成者であるイエスを見つめながら、走りましょう。
洗礼によって新しい人として生まれ変わるといいますが、罪の現実は変わっていません。私たちが、毎週の礼拝で罪の告白が必要であることがそれを示しています。私たちは、捉えられようと、全身を前に向けて、努めて、走っているのです。なぜならキリスト・イエスに捕らえられているからです。イエスに捕らえられていることが、洗礼の意味ではないでしょうか。
この信仰のあり方は「持つことと、あること」という側面からも見ることができます。「持つことと、あること」の対比から人の生き方を考えようと提唱したのは、エールリッヒ・フロムという精神分析学者です。「持つこと(to have)」から解放されて、「あること(to be)」を重んじる生き方への価値観の転換が必要だと彼は書きました。「持つこと」にこだわれば、人はどれだけ持っても、さらに良いものを持とうとして満たされることがありません。「あること」とは、所有することに執着せずに、持っているものに束縛されず、成長し続けることです。信仰は持つことではなく、あることではないでしょうか。先ほどの、すでに救いを得ている人は救いを持っているわけです。しかし、それは間違った信仰です。
「持つもの」は目に見えて言葉や数字にできますが、「あること」は目に見えません。サン・テクジュベリの「星の王子さま」の中のメッセージは、「大切なものは目に見えない」ということです。星の王子さまは、地球に来る前にいろいろな星を旅しました。ある星にはたくさんの星を所有することを仕事にしている人がいましたが、星の王子様はその意義がわかりませんでした。最後に訪れた星には、明かりをつける仕事を忙しくしている人がいました。星の王子様はその人にだけ好感を持ちました。なぜなら、その人は、他人のために働いていて何も持っていない人だったからです。
ものが溢れ、次々と新製品が現れる国に住む日本人はあまりにも持つことにとらわれているのではないでしょうか。過去の業績、地位、これらも持つものです。付け加えれば、日本で重視される、年齢、出身大学なども持つものの典型です。パウロは信仰の「あること」を求めます。教会の歴史も、それが持つことを誇るのであれば、信仰から離れているのではないでしょうか。礼拝の出席人数そのものを気にするのは持つことを気にすることです。教会に生きた信仰による喜びと交わりがあるかが大切です。長い信仰歴も、長老、執事であるかも、持つことになってはいけません。
13節でパウロは繰り返して述べます。
兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
「なすべきことはただ一つ」それは、目標を目指してひたすら信仰の道を走ることです。走るためには、重い荷物を背負うことはできないです。後ろのものを忘れ、すべての重荷や絡みつく罪を捨てるようにパウロは勧めます。
重荷となる過去の記憶には様々な種類があります。ここでの記憶は個人の過去のものだと思います。国が犯した過去の責任、教会が犯した歴史的な過ちは忘れてはなりません。パウロ自身にも深刻な過去の重荷がありました。ファリサイ派のパウロは、イエスを救い主だとするキリスト教徒は、神に対する冒涜を働いていると考え、教会から信徒たちを引きずり出し、牢獄に入れていました。私たちも、これまでの私たちの人生を振り返って、自分が他者にあるいは身近な人にたいして、何と人を傷つける言葉を発してきたことかと省みます。年をとると、過去のそのようなことをあるときに思い出して、いたたまれなく思うことがあります。
パウロは言います。「後ろを振り返るな!」それは、過去にこだわるのをやめなさいということではないでしょうか。パウロが「うしろにあるものを忘れる」と言ったのは、過去の人間関係、思い出、失敗や誘惑など、集中を妨げるようなものを振り返らないことでしょう。
私たちの脳に記憶された過去の苦い思い出は消すことはできません。「忘れる」とは、注意を払わない、こだわるのをやめることです。レースに勝つためには、ランナーはあらゆる雑念を頭から追い出さなければならないのです。
走るためにはもうひとつ大切なことがあります。コリントの信徒への手紙1には「競技をする人は皆、すべてに節制します」という言葉があります。競技に出る選手は、競技のために節制して、生活を自己管理します。それと同様にキリスト者は毎日の生活においても自己を管理することを求められています。好き放題に、限度を超えて飲み食いをしたり、節度なく遊ぶということをしません。それは信仰の道を走るために必要なことだからです。禁欲と言えば、何かを無理に我慢するイメージがありますが、喜んでそうするのです。現代に生きる私たちにとっては、地球環境への配慮も含まれます。環境に対する人間の責任が問われるようになったのは、さまざまな科学技術の発展によってです。放射能汚染、様々な化学物質の汚染は、人類が持つ文明に固執し、便利さを優先してきたことで引き起こされました。近年大きな問題になっているのは、マイクロプラスチック、さらにそれが小さくなったナノプラスチックの汚染です。地球上のすべてにナノプラスティック汚染が進み、私たちの体の中にも見つかっており、どのような害を及ぼすのかがこれから明らかになってくるでしょう。私たちの日常の生活だけでなく、教会自身の活動にも節制、禁欲が必要です。教会で、資源、エネルギーを浪費するような営みをするべきではありません。
人類が持つことができるようなった、一番恐ろしいものは核兵器です。大国が、ありあまる数の核兵器を所有し、その使用を脅しに使っている国があります。そして、核兵器を持ちたいという国があるのです。核兵器が使われたら世界はどうなるかの想像力が為政者たちに欠如しています。核を持つことで、それが抑止力となり平和が保たれるという考えに、持つことを信奉する人間の愚かな姿が見えるのではないでしょうか。あることの生き方は、隣人を愛し、共に分かち合う平和を求める生き方です。それが、主イエスが私たちに教えて下さった、互いに愛し合いなさいという教えです。
さて、走ることに戻ります。私たちの競技は孤独ではありません。ヘブライ人への手紙にこうあります。(12:1-2)
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
おびただしい証人の群れに囲まれているのはとても勇気づけられます。そして、イエスは信仰の創始者で、完走された方であることを覚えたいと思います。
私たちが走り終えて、ゴールに着いたのちにいただける賞は何でしょうか?その賞は、メダルとか賞状のような目に見えるものではありません。その賞とは、私たちの救いの完成です。では、その賞をいただくためには何か条件があるのでしょうか。
先ほど、ルカによる福音書でファリサイ派と徴税人の祈りがありました。ファリサイ派の人は持つこと、律法を守り献金を捧げていることを誇っています。一方、徴税人には誇るものが何もありません。私たちが賞をいただくために差し出すことができるのは「神様、罪人のわたしを憐れんでください」という祈りしかありません。
私たちは皆、歳をとると、体力が衰え信仰の道もゆっくりとしか走ることができなくなります。脳の働きも弱り、記憶も薄れてゆくでしょう。しかし、たとえ、そうであっても私たちは、おぼつかない足取りでも、信仰のレースを走ることができ、最後に次のように主イエスに言うことができるでしょう。
テモテへの手紙2にある言葉です。2・4章7節
わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました
人生のレースがいかにつらく、苦しいものであったとしても、主イエスは、希望を抱いてゴールに辿り着いた私たちを、憐れんで迎えてくださるでしょう。わたしたちもそれぞれの信仰の道をゴールを目指して走りましょう。