聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第67回
「時を見分ける」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 創世記19章 12〜16節
新約聖書 ルカによる福音書12章 54〜59節

今、最初に読まれた旧約聖書の創世記19章に書かれている、ソドムが天からの火で滅ぼされるとの知らせを聞いた、ロトの婿たちは、それを冗談だと思って、ソドムから出てゆこうとはしなかったという記事は、今日読んでいる新約聖書の箇所のすぐ前に書かれていた分裂につながります。

前々回の説教で、主イエスを中心とする同心円のことをお話ししました。主イエスの周りに主イエスの教えに耳を傾ける弟子たちがおり、さらにその外側に、弟子たちを通して主イエスが語られる神のことばを聞く人々がいました。
今日読んでいる54節では、主イエスは弟子たちのグループを超えて、その外側の群衆に直接語りかけておられます。

54節 「イエスはまた群衆にも言われた。」
主イエスは先に49節、また51節で「わたしが来たのは、地上に平和をもたらすためではない、そうではなく火を投じるために来た」と言われ、主イエスが火を投じられる結果として、人々の間に分裂が起こり、それは家族の中にまで及ぶと言われたのでした。

主イエスが今、群衆に向かって語られるのも、群衆に火を投じ、群衆の間に火を燃え上がらせ、対立と分裂を引き起こすためなのです。

主イエスはここで天候の話を持ち出されますが、それは聞いている群衆の大部分が農民で、彼らがそれをよく知っていたからでした。彼らにとって天候は収穫を左右する最大の要素であったため、天候には注意を払い、絶えず空模様を観察していました。
ある註解者は、これは火をつければ、すぐに火が燃え上がる薪のようなものだと言います。

「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに「にわか雨になる」という。」
西というのはパレスチナでは地中海、海の方角です。そこに雲が起こると、やがて雷を伴う土砂降りがきて、洪水になりかねませんでした。

「また、南風が吹いているのを見ると、「暑くなる」という。」
季節にもよるそうですが、南からはシロッコと呼ばれる熱風が吹き付けるそうです。きっとそれは作物を立ち枯れさせる被害をもたらしたでしょう。

主イエスはこのように、群衆が自然現象を注意深く観察することを知っており、それに基づく判断を下す事ができることに気づかせます。そして言われます。
「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」

群衆が農民として自然現象を見分ける事ができるのに、そうして、洪水や熱波が作物に被害をもたらすかもしれない危険については判断できるのに、自分たちの時代に迫ってきている危機、その歴史的危機に関しては、なぜ判断しようとしないのか、と問われるのです。

主イエスがここで見分けるべき「今の時」とは具体的に何を指しているのでしょうか。
先週も申しましたが、平和がないのに、平和だと思うこと、これは自分で自分を欺いていることになります。自分たちが今の時代に、社会において、自分の周りにおいて起きていることについて正しい判断ができていないのに、自分の判断に問題はない、大丈夫だと思い込むこと、自然については適確な判断ができるのに、時代と社会のことについては正しい判断ができないでいるのに気づかずにいること、それでいて、平気でいる、そういう姿を主イエスは「偽善者よ」と呼ばれるのだと思います。

そして、主イエスの言葉はこう続きます。
57節「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか」

群衆の中の農夫たちは自然を観察し、自分たちの長年の経験と知識から的確な判断をくだすのに対して、歴史については正しい判断ができていないのではないか、そのことを示すために主イエスが語られたたとえは、わかりやすいたとえでした。

58節「あなたを訴える人と一緒に役人の所に行く時には、途中で仲直りするように努めなさい。」

わたしたちの家にも督促状が届くことがあります。それはいついつまでにお金を払い込まなければならないと書かれています。もし、それを放っておけば、支払期限がきて、さらなる督促状を受けるでしょうし、支払いを遅らせたために遅延金を取られることになるでしょう。

主イエスはここで群衆に何に気づかせようとしておられるのでしょうか。
すべての人は神の前に立って、自分自身について申し開きを求められる日を迎えるのです。終わりの日、神の前に立って裁かれる日がきます。それゆえ、神の前に罪を認めて悔い改め、赦しを求めなければならない、これはすべての人の問題なのです。これを免れることのできる人は一人もいません。
ヨハネの手紙に次のように書かれていますが、自分に罪がないということは偽りであり、真理はその人にうちにないということであり、自分の罪を告白するなら、神がその罪を赦し、わたしたちをすべての不義から清めてくださるという言葉が真理なのです。

ですから、群衆にとっても、この真理の言葉に従って、罪を告白し、神からの赦しを受けることをする、これが正しい判断になります。

ここでもう一度同心円のことを思い出したいと思います。主イエスは今群衆に向けて語っておられますが、群衆の内側には弟子たちがいます。この人たちは、この例えをどう受け止めるべきでしょうか。

それはマタイによる福音書18章の莫大な負債を赦された僕の話と繋がるように思います。あの僕は王様からどう逆立ちしても返済できないほど大きな負債を赦されました。しかし、自分に対して負債のあった僕仲間のほんのわずかな負債を赦しませんでした。それで、他のしもべたちが彼を王様に訴えたのでした。その結果、僕は今日読んでいるルカの話と同じ末路を辿ります。

主イエスの弟子には果たすべき責任があります。それは、赦されたものとして人を赦すことです。しかし、それだけでなく、それ以上に福音をのべつたえる責任があるのです。個人として兄弟の罪を赦すことで終わらないのです。信仰を個人倫理のことで終わらせないで、神による罪の赦しの福音を広く宣べ伝えて、社会全体に、国家と世界に、福音による和解を広げてゆく責任があるのです。

自分が神に赦された、それゆえ、隣人をも赦す、ここに確かに平和があります。でも神の平和はもっと高く、もっと広いのです。同心円の中心におられる主イエスのあり方が、弟子たちのあり方も、群衆のあり方も決定します。

主イエスは確かに、火を投じるために来られました。それによって一家の平和は破れ、家族に分裂をもたらしました。でも、それは一時的な分裂で、最終的に主にある本当の一致と平和に至るためだったのです。

主イエスの弟子たちにとって、また主イエスを信じる今日のわたしたちにとって、自分の救いが約束され、自分が神との和解をいただけば、あとは家族も、隣人も、世界もどうなろうと関係はないと思うとしたら、同心円の中心におられる主イエスとは全く違ったものたちになってしまいます。

主イエスは十字架につけられたとき、あえて自分を救いませんでした。自分を救うことができないわたしたちのために、自分を救いませんでした。そのようにしてわたしたちを救ってくださったのでした。その主イエスは、弟子たちに、またわたしたちに、自分だけが救われればそれで良いと考えているとすれば、それが正しい判断だと言われるはずがありません。

神はすべての人に平和を備え、すべての人に神との和解を用意していてくださいます。

ですから、今こそわたしたちは気付くべきです。わたしたちが生きている今の時は和解が成し遂げられていない時代です。赦しあっていない時代です。個人的にだけでなく、社会において、国家において、世界において互いに赦しあえておらず、人々は互いに裁判で争い合い、国々は武力に訴えて戦争しあっています。

わたしたちは、この時代と世界に神の和解の福音をもたらすために選ばれています。その使命と責任を世界のすべての人々に対して負っています。その負債を果たさないまま終わりの日を迎えることをしてはならないのです。

それが今日、わたしたちに求められている正しい判断です。わたしたちはお互いの和解、真の平和を、神様の前に行く前に、1日でも早く努力して追い求めるべきです。さもなければ、終わりの日に、神が与えてくださる平和を喜ぶことはできないでしょう。終わりの日の神による平和があるからこそ、今という時に、あらゆる人と和解し、赦し合い、愛し合うべきだし、そのことを喜ぶことが許されているのです。

父と子と聖霊の御名によって