聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第66回
「非暴力の抵抗によって平和を実現する」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 エレミヤ書 6章 13〜17節
新約聖書 ルカによる福音書12章 49〜53節

49節

わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。

主イエスは51節でも「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と、わたしたちの考えを覆すようなことを言われます。なぜなら、主イエスは地上に平和をもたらすために来られたお方ではないのでしょうか。

あのクリスマスの夜、天使たちが歌ったように「いと高きところでは神に栄光があるように。地の上では、御心にかなう人々に平和があるよう」と、主イエスは地上に平和をもたらす、平和の君として来られたのではないでしょうか。

それなのに、では、なぜ主イエスの口から、わたしたちの思いに反するような言葉が語られているのを聞くのでしょうか。少し生々しいことを申しますが、「わたしが来たのは火を投じるためである。その火が燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言われる、この火に、わたしは今、福島の原子力発電所の事故を重ねて考えてみたいのです。

先ほど旧約聖書エレミヤ書が読まれました。預言者エレミヤの時代、「平和がないのに、平和、平和と言う」多くの預言者たちがいました。エレミヤは鋭くそれらの預言者たちの偽りを批判しました。

東日本大震災のとき、押し寄せた津波によって福島原子力発電所において過酷事故が起こりましたが、それによって、それまで原発は安全であると言われていた、いわゆる「安全神話」が偽りだったこと、それを主張していた人々はエレミヤの時代に、平和がないのに平和、平和と語っていた偽預言者と同じく人々を欺いていたことが明らかになりました。

安全がなく、安全どころか、反対に大きな危険を抱えており、深刻な危機的状況が迫っているときに、真実を直視し、それを明言することこそ、真の平和、真の安全を生み出すことになります。その真実を告げることは、火を投じる行為です。

それが現実になり、その正しさが人々の目にはっきりしてからでは、もう遅いのです。実際、福島では火が燃えてしまいました。福島で事故が起きてほしいと願うことは、もちろん、ありえないことです。でも、人々が理解し、認識するためには、火が燃えていてくれたらと願う気持ちはわかります。

火には、今申しましたような災いや苦しみを象徴する意味がありますが、それとともに積極的なプラスの意味もあります。暗闇を明るく照らすたいまつの火、寒さに凍える人を温めて元気を回復させる焚き火の火などです。あるいはまた、不純物が混じった金属を坩堝の中で精錬する火もプラスの働きです。

主イエスの投じる火は、人々が真の平和からほど遠い状態にありながら、偽りの平和に酔いしれている時に、これは本当の平和ではないことに気づかせるため、本当のことを語る、真実を語ろうとなさることを意味します。人々の思いの暗さを明るく照らす光、本当の暖かさへと招く火、不純な交じり物を焼き尽くして清くする火と言う作用があります。

ただし、火を投じた結果、深刻な対立が生じてしまいます。原子力発電所が誘致されると、住民の間に、賛成派と反対派に分かれて対立が生まれ、その対立が家族にまで及ぶことがあります。主イエスは対立をもたらすために、火を投じられるのでしょうか。対立が対立で終わることを目的として火が投じられるのでしょうか。そうではないはずです。

先週、新聞に長年の対立が対話によって乗り越えられたという記事がありました。それは千葉県の成田国際空港建設をめぐって30年にわたって続いた対立の終焉でした。実力で争い合い、死者を生み出した対立、互いに対話することさえできない状態が続いていました。それは今のイスラエルとハマスなどでもみられることです。でも、殺し合い、戦争をし合うより、まず、同じテーブルについて対話を始めることの方がはるかに願わしいことであり、建設的なことです。対話からしか、平和は実現しないのです。

では何がきっかけとなって、それまで対話が成り立たなかった敵対関係にあった者同士が話し合いを始めようと言う気になったのでしょうか。その新聞記事では、「己の至らなさを自覚した」ことからだったと書いています。先ほどお話しした、福島原発についても、あれほどの過酷事故を起こしてしまったとき、日本社会全体が、自分たちの至らなさを思い知ったのではないかと、筆者は書いていました。これではいけない、なんとかしなければならないという思いから、問題の解決に向けて、相手と一緒に話し合ってゆこうと考えるきっかけとなったのです。

主イエスはご自身がこの世に来られた目的について、50節では苦しみの洗礼を受けるためであると言われます。ここで言われる洗礼とは死なれること、十字架につけられ苦しみの死を遂げるという意味です。

主イエスの死は分裂を乗り越える道を開きます。主イエスが十字架の上で死なれ、主イエスの体が引き裂かれたことは、主イエスが人々の間の分裂の痛みをご自身の上に引き受けられたことを意味していると思います。そして、このような分裂のままではいけないのだという思い、分裂をもたらしている自分たちの「至らなさ」を覚えて、人々に対話を始めさせるきっかけとなり、一つのテーブルについて、和解を追い求めてゆかせる契機を生み出すのです。

わたしたちは洗礼を受けます。主イエスは、ご自身の洗礼が終わるまで、どんなに苦しむことだろうと言われていますが、では、わたしたちにとっての洗礼は、もう終わったのでしょうか。それとも終わっていないのでしょうか。終わっていないとすれば、どのようにして終わるのでしょうか。

家族のだれかが洗礼を受けると言い出した時、家族が強く反対することがあります。それこそ、分裂が起きます。明治時代など、洗礼を受けたために家から勘当された人は珍しくありませんでした。そのようにして家族と別れ別れになったクリスチャンは、分裂したままで終わるのでしょうか。いいえ、そうではありません。分裂の悲しみは、最後には家族全体の救いになってゆくための産みの苦しみなのです。

来週、もう一度お話ししますが、今、わたしたちは平和から程遠い時代、世界に生きています。わたしたちの身近なところで、戦争が起こることを予想したことが行われています。それは平和のため、人々の安全を守り、危険を防止するためであると言われています。

しかし、そこで言われている平和は、敵を滅ぼし尽くすことによって実現する平和のことです。相手を絶滅すること、それで確保される平和です。しかし、イスラエルを見ればよくわかりますが、パレスチナの人々を武力で押さえつけることによって、その上に築かれる平和は、実に脆く、崩れかかった平和でしかありません。

平和がないところで、平和、平和と言うのは欺きです。本当の平和は敵対している人同士が、一つのテーブルを囲み、語り合い、理解し合い、愛し合い、許し合うことです。

わたしたちが洗礼を受けるのは、自分たちだけが救われたいからではありません。だれとでも、どんな人種、性別、文化であれ、違いを越えて、愛し合い、受け入れあい、神のもとに一つにされることを目指すためです。そのためにわたしたちに苦しみが降りかかり、わたしたち自身が引き裂かれるような痛みを経験することをわたしたちは覚悟します。

本当の平和、主イエスがわたしたちにもたらされる真実な平和は、主イエスがわたしたちのために受けられた痛みと苦しみを、わたしたちも喜んで受けようとする平和です。

父と子と聖霊の御名によって