聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第65回「多く与えられた者は多く求められる」
説教 澤 正幸 牧師
使徒書 コリントの信徒への手紙(一)9章19〜23節
福音書 ルカによる福音書12章 41〜48節
41節 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それともみんなのためですか」と言った。
ペトロが主イエスにたずねます。このたとえとは、すぐ前に書かれているたとえのことです。もう一度読んでみましょう。35〜37節です。
主イエスは、これをすべての人に向けて語っておられるのか、それともわたしたち、ペトロをはじめとする弟子たち、いわば内輪の者たちに向けて語っておられるのかとペトロが問いました。
同心円を思い浮かべていただくと、このたとえを語られる主イエスが中心にいて、その周りに弟子たちがいます。その外側には弟子たち以外の大勢の人がいます。主イエスの語っている言葉の射程、それをどこまでに届けようと思っておられるのか。
このとき、主イエスに耳を傾けていたのは、弟子たちだったでしょう。
今朝、わたしたちはこうして集まり、主イエスの言葉に耳を傾けようとしていますが、ここに集まっているのは、ほんの一握りの、少数の者たちです。主イエスは少数者に対して語られているのだと錯覚しかねません。それくらい、小さな群れが主イエスの言葉に耳を傾けているというのがわたしたちの現実です。
イエス・キリストをこの世に遣わされた神は、すべての人の神です。イエス・キリストは、その神から遣わされて、神の言葉を語るとき、それはすべての人に神の救いの喜ばしいおとずれを伝えるためであったはずです。しかし、わたしたちの目の前の現実、わたしたちが本当に小さな存在であり、人々に知られず、少数のわたしたちだけが神の言葉を聞いているこの状態を見て、主イエスが神の言葉を語っているのは、少数者に対してだと錯覚しかねません。小さな群れが主イエスの言葉に耳を傾けていればそれで良しとすべきだと思い、それで満足しようとするかもしれません。しかし、主イエスはそのようなわたしたちのことをどう思われるでしょうか。
主よ、これはわたしたちのためだけに語られているのですねと問うたら、主イエスはわたしたちに何とお答えになるでしょうか。今日のみ言葉はそれに対する主イエスのお答えだと思います。
42節 主は言われた。「主人が召使いの上に立て、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、一体だれであろうか。」
先ほど同心円を思い浮かべました。ここでもそうしてみたいと思います。
ここには三種類の人が挙げられています。第一に召使いです。第二に、召使いの上に立てられた管理人です。そして、第三に主人です。それは、主人が中心にいて、その次に管理人がいて、その外側に召使いが位置する同心円です。
それぞれに、果たすべき仕事が割り当てられています。一番外側の召使いの仕事は、時間どおりに食べ物を人々に分配することです。ですから、先ほどの同心円でいうと、召使いの外側に召使いが食べさせる人々がいることになります。
その召使いの上に立てられた管理人は、召使いたちに、彼らが分配する食べ物を調達することがその仕事になります。
その管理人を召使いの上に立てる主人ですが、この主人はどういう主人かと言えば、それは主イエスの話されたたとえに出てくるような主人です。この主人は世の中の常識を覆す、驚くべき主人です。37節です。「主人は帯を締めて、僕たちを食事の席につかせ、そばに来て給仕してくれる。」
同心円と申しましたが、中心の主人、次の管理人、その外側の召使いは、いわば同じ動きをしています。
たとえば、召使いの仕事が「時間どおりに食べ物を分配する」とありますが、その「時間どおり」というのは、毎日、朝に夕にということです。
わたしたちは主の祈りで、「わたしたちに必要な日毎の糧を今日もお与えください」と父なる神に祈りますが、わたしたちに「時間どおり」食べ物をくださるお方は、主イエスキリストの父なる神さまです。
またわたしたちは、人はパンだけで生きる者ではなく、神の口からでる一つ一つの言葉によって生きると言われるように、命のパンである、神の言葉の養いにあずかるために、こうして週ごとに、安息日の礼拝に集っています。そこでみ言葉を取り次ぐのは、主からその務めを与えられたみ言葉の仕え人、すなわち牧師たちです。
主イエスも、主イエスからみ言葉を語るよう召された牧師も、またその牧師からみ言葉の養いを受ける信仰者たちの群れも、同じ働きをします。
43節 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
帰ってくるまでの期間、主人は不在なのです。主人は不在でも、主人がここにいるかのように、主人がここにいたらすることを、不在の主人に代わってするのが管理人の与えられた務めです。
しかし、主人が帰ってくるまで、その不在の期間、主人がいたらするであろうことを、主人に代わってするのではない管理人もあり得るのです。主人の帰りが遅い、主人は当分帰ってこないだろうと思う僕の生き方が45節にえがかれています。
45節「しかし、その僕が、主人の帰りは遅れていると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不正な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何の準備もせず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。」
この僕が食べたり、飲んだりしているものは、本来、召使いの手を通じて人々に食べさせるはずの食糧です。それを自分のために使っています。それは私物化です。許されない行為です。それより、もっといけないことは、この僕は、主人が決してしないようなことを平気でしていることです。
この僕は主人に倣って、主人がするように僕たちを食卓に招き、給仕をし、食べさせることをしません。自分が主人になっています。しかし、こんな僕は主人から、わたしはお前を知らない、お前はわたしと全く関係のない人間だと言われるでしょう。
みなさん、この悪い僕は、教会の牧師に向けられた警告です。
牧師はここに出てくる管理人です。教会員、信徒の人々は召使いに当たります、牧師はみ言葉を語ることを委ねられています。それはみ言葉の糧をもって教会員を養うためですが、それは、教会員が自らみ言葉の糧によって養われるだけではありません。ここが今日の説教で一番大事な点なので、よく聞いていただきたいと思います。教会員には仕事があるのです。み言葉を周りの人々に分配する仕事です。自分勝手に飲んだり、食べたりする管理人、つまり牧師も災いですが、その悪例に見習って、み言葉の養いを自分だけの養いにとどめてしまう教会員は災いです。
牧師がお仕えする主人、イエス・キリストは、すべての人をみ言葉の糧で養おうとなさいます。それゆえ、牧師は、その主に倣って、教会員にみ言葉の糧を差し出しますが、それは教会員がそのみ言葉の糧を、家族を始め、友人や、隣人に分配してゆくためなのです。
47節「主人の思いを知りながら何の準備もせず、主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される。」
ですから、教会員が主から罰を受けるようなことがあったとしても、牧師が鞭打たれるほどにはひどく鞭打たれることはないでしょう。教会員が主の思いに沿うような生き方ができなかったとすれば、それはそのように知らされなかったからであり、知らさなかった責任は牧師にあるからです。
今日の箇所をもう一度振り返ってみますと、主という言葉が何度も繰り返されていました。そして、改めて最初のペトロの問いを読むと、主とはどなたなのかという問いに帰って来ます。
ここでパウロの言葉を引用したいと思います。ローマの信徒への手紙14章7節です。
みなさんの主はだれですか。みなさんはだれのために生きているのでしょうか。わたしはわたしのものだと答えるかもしれません。そうだとすれば最後はどうなりますか。わたしのために生きて、わたしのために死ぬ人生の終わりは何でしょうか。
しかし、わたしたちはわたしたちのではない、主のものだと、パウロは告白しています。
では、主のために生き、主のために死ぬとはどういうことでしょうか。
主のために生きるということは、主のように生きるということです。主がご自分のためにではなく、ご自分のすべてを、命までをも差し出して、わたしたちを愛されたように、わたしたちも人に仕え、自分のためにではなく、神と人を愛して生きるしもべとなること、それが主のように生きる生き方であり、主のために生き、主のために死ぬことです。
この説教に続いてわたしたちは聖餐式を守ります。今日の説教は、ペトロの問いから始まりました。主イエスを中心とする同心円があります。聖餐式の食卓についても同心円があります。
まず食卓に招かれる主イエスが中心にいます。次に、その招きに応えて食卓につこうとする人々、洗礼を受けている教会員がいます。その外側に、小児洗礼は受けているけれども、まだ信仰告白をしていないこどもたちがいます。さらに礼拝に来ているけれども、まだ洗礼を受けていない人たちがいます。さらにその外側に、教会に来たこともないたくさんの人たちがいます。
主が招かれるのはだれでしょうか。主イエスが語られる神の救いの約束がすべての人に向けられているように、主が食卓に招いておられるのもすべての人だと思います。
ただ、その際にパウロが語っている警告を聞き逃すわけにはいかないと思います。
コリント(1)11:28 315ページ です。すべての人が招かれ、その食卓にあずかることを許されると言いながら、パウロが警告していますように、「わきまえるこなしにあずかって、自分に裁きを招く」ことがあるということを知っておくべきですし、牧師はそれを知らせる責任があります。
聖餐式は端的に言って、主イエスがわたしたちのためにご自身の命を与えて、わたしたちを養い、生かしてくださるように、わたしたちも自分の命を人々のために差し出し、与えるよう主から招かれる、主の招きです。わたしたちはそのことをわきまえるべきです。その招きにこたえて、食卓にあずかる人は、それによって、主イエスが自分のからだを神さまと隣人への愛のために捧げられるように、自分自身を主と隣人のために捧げることを神と人の前で誓うのです。洗礼が検診の誓いであったように、聖餐式も主が再び来られる日に至るまで、わたしたちにとって、繰り返し誓う、献身の誓いなのです。
ですから、この食卓がわたしたちだけのものだと思うなら、そして、自分たちだけがこれに預かっていればそれで良いと思って、それで自己満足し、わたしたちがこの食卓を通して、自分を捧げること、人々に仕えて生きてゆくこと、そして人々をそこに招くことをしないなら、そのような聖餐式の守り方をすることが、わたしたちにとっての裁きになるでしょう。
この食卓に主の家族が増し加わることほど嬉しいことがあるでしょうか。わたしたちは、その熱い願いと祈りを持ちながら、ともに聖餐式を守りたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって。