聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第64回  「無知の知」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 イザヤ書 21章 11〜12節
新約聖書 ルカによる福音書12章 35〜40節

 

 

先週はペンテコステ礼拝でした。ペンテコステの十日前、主イエスは復活されたのち、40日間にわたって、度々弟子たちにご自分の生きておいでになることを示されましたが、ついに弟子たちの見ている前で、彼らを離れて天に昇ってゆかれたのでした。そのとき、御使は弟子たちに、主イエスはもう一度おいでになるといいました。

では、それはいつなのか、いつ主イエスはもう一度おいでになるのかについて、主イエスは弟子たちに、その時や時期は「父がご自分の権威をもってお定めになっていて、あなた方の知るところではない」と言われたのでした。

主イエスが再臨なさる終わりの日、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存知である。」(マタイ24:36)

今日読んでいるところでも、38節には、主人の帰りが真夜中か、夜明けの明け方か、わからないと書かれています。36節にその主人は婚宴から帰ってくると書かれていますが、パレスチナの婚宴はヨハネの福音書にカナの婚礼の記事があって、そこからわかりますように、ぶどう酒がなくなったらお開きになったようです。するとそれがいつかは家の者にも、客人にもわからなかったでしょう。また、盗人が夜、こっそり忍び込んでくる時がいつなのかはその家の者たちにはわからないように、主イエスの再臨も予期しない、思いがけない時にそれが人々に臨むだろうと言うのです。それは妊婦に産みの苦しみが突如として襲うのに似ているとも言われます。

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存知である。」

父なる神だけが知っておられる。みなさん。父なる神がご存知だというのはどういう意味でしょう。

それがいつか、わたしたちには知り得ないのですが、わたしたちに知らされていることがある、その時は必ず来る、神さまが定めておいでになるその日に、主イエスは必ずもう一度来られるということです。

妊婦には出産の時が必ず訪れます。婚礼も永遠に続くわけではなく、必ず終わる時が来ます。そのような、その時がいつかはわからないけれども、必ずわたしたちが迎えるものとして、わたしたちは自分の死、人の死を知っています。

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存知である。」

父だけが知っている。そこに、これが必ず起こること、世界と全人類が免れることのできない仕方で、最終的、かつ、不動の出来事として、神の御心のうちに定められているということを受け止めます。

ただ、不思議なのは、それほど重大なことを父なる神はどうして御子にも知らせないのでしょうか。

その理由はわかりませんが、御子も、また御子でさえ知らないということの中に、御子さえ知らされていないのだから、私たちも知らなくて良いのだ、知らなくても十分なのだということを考えさせられます。さらにもう一歩踏み込んで言えば、父なる神がその時をわたしたちに知らせようとなさらないのは、わたしたちのためを思ってそうしておいでになる、知らせないことの中に、私たちを思いやってくださる神の愛の御心があるはずだということ、それゆえ、それがどのようなものかを知りたいと思うのです。

今日の箇所の40節に「あなたがたも用意していなさい」とあります。

この用意しているという言葉は、福音書に数回出てきますが、そこでとても印象的なことがあります。それは用意するという時の主語が神様であるということです。

「天地創造の時からあなた方のために用意されている国を受け継ぎなさい」(マタイ25:34)あるいは主イエスが「わたしの父の家には住むところがたくさんある。もしなければ、あなた方のために場所を用意しにゆくといったであろうか。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻ってきて、あなた方をわたしのもとに迎える。」と言われるように、終わりの日の救いと幸いをわたしたちのために用意してくださるのは、父なる神であり、主イエス・キリストなのです。

わたしたちの側でする備え、わたしたちが用意するのは、神さまの側で準備がなされ、それがわたしたちに差し出される日が必ず来るので、それを受け取るための用意であり、準備です。

花婿が来る。必ず来ることが決まっている。それゆえに花嫁が身にまとう衣装を用意するのに似ています。

かつての戦争のとき、戦地に行ったまま婚約者の消息が不明になり、帰ってくるかどうかわからなくなってしまった人たちがいたと聞きます。いつまで待っていても、本当に帰ってくる保証はない、それで、諦めて他の人と結婚する。ところが、帰ってこないと諦めた婚約者が生きて帰ってきた。けれども、もう遅かった。

弟子たちにとって、主イエスが弟子たちを離れて天に昇ってゆかれたことは、婚約者の男性を遠い戦地に送ったら女性に似ているところがあります。互いに、遠く離れ離れになるからです。あるいは、主イエスご自身、弟子たちを後に残されに当たって、「わたしはあなた方をみなしごにはしておかない」(ヨハネ14:18)と言われたように、主イエスが天の父なる神のもとへと帰ってゆかれた後、弟子たちは孤児になりかねなかったのでした。

しかし、遠く婚約者と引き離されても、たとい、消息不明、安否がわからなくなっても、主イエスについては、必ず帰ってこられることが確かに約束されているのです。その約束を確かに、揺らぐことのない仕方で心に刻みつけてくださるお方がいます。

それがペンテコステに弟子たちが受けた聖霊でした。復活なさり、40日間地上にとどまってご自身が生きておいでになることを数々の証拠をもって弟子たちに示された主イエスは、今も天において生きておいでなること、そして、今、ここでわたしたちと共にいてくださることを、聖霊を通して示されます。復活され、今も生きて天におれるイエス・キリストが、聖霊においてわたしたちと共にいてくださるのです。

終わりの日にこられる主イエス、その終わりの日の先取りとして、今、聖霊において主イエスはわたしたちのところに来てくださいます。その聖霊がわたしたちに結ばせてくださる実をパウロは数え上げます。第一に「愛」、ついで「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」、これらは、なんでしょうか。

これはやがて来られる花婿を花嫁が着飾って迎える、その装い、真っ白なウェデイングドレに似ています。しかし、わたしたちの側で用意するその備えは、もともと、神さまによって備えられた天の幸い、神の国の義と栄光なのです。「愛」も「喜び」も、「平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」これらはすべて、イエス・キリストがわたしたちにくださる恵みなのです。

主イエスを待つわたしたちの心は、いつも喜びで満たされます。また思い煩うことから解放されます。わたしたちを常に喜びで満たし、心配や思い煩いから解放してくださる方は聖霊です。

主イエスは聖霊のことを、父が送ってくださる、わたしとは「別の弁護者」であると、そのように紹介されました。主イエスが聖霊を主イエスとは別の弁護者と呼ばれる時、主イエスはご自身も「弁護者」だと言おうとなさっておられるのだと思います。

主イエスは弁護者なのです。わたしたちが神さまの法廷に立って裁かれるとき、主イエスはわたしたちのために、弁護し、無罪を勝ち取ってくださるお方なのです。主イエスは、姦淫の罪を犯した女性を、彼女に石を投げつけようとした人々から守られ、わたしもあなたを罪定めないと言われましたが、終わりの日に、主イエスはわたしたちのためにも、父なる神の前で弁護者となってくださり、この者を罪に定めないでくださいと言ってくださるのです。

その主イエスが、今、この世においてわたしたちが迫害され、この世の法廷に立たされることがあっても心配するな、なんと弁明しようかと思い煩うな、その時は聖霊があなた方に語るべきことを教えてくださる、語るのはあなた方ではなく、聖霊だからだと言われました。

わたしたちが思い煩わなくて良いのは、終わりの日、父なる神の法廷において、わたしたちのことを、この者はわたしのものですと言ってくださる主イエスが、聖霊において今、ここでわたしたちと共にいてくださるからです。

それゆえに、喜びましょう。いつも喜びましょう。主はすぐ近くに、そうです、聖霊において、わたしたちの近くにおられるからです。それゆえ、思い煩うことをやめ、何事につけても、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、わたしたちの求めているものを神さまに打ち明けましょう。

そうすれば、あらゆる人知を超える神の平安がわたしたちに訪れ、神さまがわたしたちの心と考えとを、キリスト・イエスにあって守ってくださるでしょう。

父と子と聖霊の御名によって。