聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第60回「聖霊を冒涜する罪」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 エレミヤ書 23章18~24節
新約聖書 ルカによる福音書 12章8〜12節

 

 

(1)
先週に引き続いて、今日はルカによる福音書12章8〜12節をもう一度詳しく読んでゆきたいと思います。
8節と9節は一読すると正反対のことが書かれているように思われるかもしれません。しかし、注意してよく読んでみると対称的に書かれてはいないことに気づかされます。
いくつか指摘します。8節では「だれでも」これは原文では「すべての人」という言葉が使われているのに対して、9節にはその言葉がないのです。また8節では「人の子も」という言葉が主語として出てきます。でも、9節には「人の子」という言葉は出てきません。
8節と9節は対称ではない、非対称になっている、それは文法上の、言葉の上の違いでなくて、事柄、内容からきているのだと思います。
事柄の違い、内容的な違いとはどう言うことか、二つはどう違っているのか、その違いを理解する鍵は「人の子」という言葉だと思います。
「だれでも(先ほども申しましたが、これはすべてということです)人々の前で自分が『わたし』(主イエスは後半では『わたし』を『人の子』と言い換えておいでになります)の仲間であると言い表す者は」とありますが、そこで「わたしの仲間である」あるいは「人の子の仲間である」と言い表すと言われているのはどういう意味でしょうか。
(2)
主イエスはしばしばご自分をさして「人の子」と言われました。「人の子は枕する所がない」(マタイ8:20)とか、「人の子は仕えられるために、また多くの人の身代金として自分の命を与えるために来た」(マルコ10:45)、さらに「人の子は必ず祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目に復活する」(マルコ8:31)と言われました。
主イエスがご自分を人の子と呼ばれる、そこに、ご自分が父なる神さまから遣わされてきた者として、同じ人の子であるわたしたちの一人、わたしたちの仲間だという思いが込められているのだと思います。わたしたちが人の子である主イエスの仲間であると言い表すのに先立って、神から遣わされた主イエスは、ご自身の方から、病める者、悲しむ者、とりわけ罪びとに対して、わたしはあなたの仲間だと言われるのです。主イエスが十字架についたとき、人の子主イエスは右と左に十字架につけられた犯罪人の一人として数えられ、彼らの仲間となられました。さらには、主イエスは死んで葬られ、陰府に降られたお方として、死者の一人となられたと言えます。
主イエスが人の子であられるのは、主イエスがわたしたちの一人となり、わたしたちに向かって、「あなたはわたしの仲間であり、わたしはあなたの仲間だ」と言ってくださるということです。
その主イエスに対して「アーメン」と言い、主イエスが生きるときも、死ぬときもわたしたちとともにいてくださる、わたしたちにとって掛け替えのない「仲間である」ことを人々の前で言い表す者は、すべて、だれでも、その全員に対して、主イエスもまた神の天使たちの前で、その人を自分の仲間だと言い表すと言われています。
(3)
それに比較して9節は、8節と反対のことを言っているように読めるかもしれませんが、しかし、よく考えてみれば、それは本来、あり得ないこと、例外的なことだと言わざるを得ないと思うのです。「人々の前でわたしを知らないと言う」、確かにペトロは主イエスを三度知らないと言いました。でもそのとき鶏が鳴いて、主イエスが振り向いてペトロを見つめられたのでした。その主イエスの眼差しに込められた主イエスの語りかけの言葉、「シモン、シモン、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。わたしはあなたを見捨てることはしない。あなたはわたしの仲間であり続ける」と言われる言葉に対して、ペトロは心からの悔い改めと感謝をもって「アーメン」と言うほかなかったと思います。
このような非対称は次の10節にも見られます。
(4)
10節の最初の文章には、8節と同じく「皆」という言葉があります。原語では8節の「だれでも」と同じ「すべての人」と言う言葉です。しかし、後半にはそれがないのです。
この前半と後半の非対称も、先ほど見たのと同じく内容からくる違いだと言えます。主イエスが、わたしたちに対して「わたしはあなたの仲間である」と言われるのに対して、わたしたちが主イエスの友情に反し、その心を悲しませるようなことを言うことがあったとしても、主イエスはわたしたちを赦してくださるでしょう。実に7度を70倍するまで人を赦しなさいと言われた主イエスが、わたしたちに限りない忍耐と赦しを約束してくださっていることは確かなことです。
後半の「聖霊を冒涜する」と言うのは、主イエスがわたしたちに差し出される限りない寛容と憐れみ、罪の赦しと愛に「アーメン」と言わないことです。主イエスの御言葉に「聖なるものを犬に与えてはならず、また真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう」(マタイ8:6)という言葉がありますが、まさに聖なるものを踏みにじり、噛み付こうとする犬や豚に等しい仕業です。
つまり、人であれば、これは本来あり得ないことです。あってはなりませんし、わたしたち自分自身についても、他の人についてもこのようなことは決してあって欲しくないことなのです。
(5)
このように、主イエスがわたしたちに対して、「わたしはあなたの仲間であり、あなたもわたしの仲間である」と言われるのに対して、わたしたちが「アーメン、その通りです」と答える、そのように告白させてくださるお方は聖霊です。
聖霊はわたしたちのうちに神に逆らわせる悪霊が住んでいるなら、それをわたしたちのうちから追放されます。神の霊であられる聖霊は悪霊よりもはるかに強いお方です。聖霊よりも強い悪霊など存在しません。聖霊の働きと悪霊の働きは非対称です。父なる神はわたしたちに聖霊をお与えくださり、イエスは主であると告白させてくださいます。この父なる神はわたしたちの髪の毛までも一本残らず数えておられます。一羽の雀さえお忘れにならないと言われる父なる神さまが、わたしたちを知らないと言われることなどあり得ないのです。8節と9節、10節の前半と後半はまったく非対称なのです。
(6)
天と地を満たしておいでになる主なる神さまが、わたしたちと共にいてくださり、生きるときも死ぬときも、あなたはわたしのものだと言ってくださるのです。それゆえ、わたしたちに「恐れるな」と言われる主イエスの友として、主イエスが本当に恐るべき神さまだけを恐れ、恐るべきでないものを恐れなかったように、わたしたちも決して恐れないで生きていって良いのです。
しかし、顧みて、わたしたちが生きている世界、生きている時代は恐れに満ちているのではないでしょうか。パレスチナの戦火はガザから中東地域全体へと燃え広がりかねない危機的様相を呈しています。中東地域だけではなく、わたしたちの住んでいる東アジアにおける緊張と対立も深刻の度合いを日々深めています。戦争の恐れだけではなく、つい先日も地震がありました。地震の起きた地域には原子力発電所がありました。地球の温暖化のことも憂慮すべきことです。
さらに日本社会全体の少子高齢化の問題は、わたしたちの教会において一層深刻です。わたしたちの教会から若者たち、子供達の姿が消えてしまっていることは本当に悲しいことです。
わたしたちはこれらのことを思って恐れるべきでしょうか。恐れざるを得ないのでしょうか。人の子主イエスは、わたしたちが正直にわたしたちの恐れていることを主イエスに祈るなら、どうお答えになられるでしょうか。わたしは、主イエスはきっとこうお答えになると思います。
「あなたがたが人の子であるわたしに対して言う、憂いの言葉、心配の言葉、不安の言葉、疑いの言葉はみな赦される。」
「恐れるな、わたしはどんなときにもあなたとともにいる。また全能の父なる神があなたの味方であられる。だからあなたがたは思い煩うことなく、聖霊があなたがたに教えてくださる言葉、示してくださる言葉に聞き従って行きなさい」。

主イエスは聖霊の賜物を祈り求めるわたしたちに、父なる神は聖霊を必ず与えてくださると約束してくださいました。それゆえ、聖霊がすべての人に注がれるよう祈り求めましょう。

父と子と聖霊の御名によって。