聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第59回「恐れるな」
説 教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 イザヤ書 51章12~16節
新約聖書 ルカによる福音書 12章1〜12節
(1)
1節
「とかくするうちに」。今、聖書朗読で読まれたルカによる福音書12章1〜12節に書かれている様々な言葉は、福音書記者のルカによって、先週読みました11章37〜53節、そこにはファリサイ派、また律法の専門家に対して主イエスが「あなたがたは不幸だ」と言って語られた激しい批判の言葉が書かれていましたが、それらの言葉と「とかくするうちに」という言葉でつなげられています。
「とかくするうちに、数え切れないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。」そこで主イエスは、まず弟子たちに話し始められました。
数え切れないほどの群衆、別の聖書では「数万の群衆」と訳されていますが、ここで「数え切れない」と訳されているのは、ギリシャ語の原語では文字通りには何万人ものという言葉です。それらの数え切れないほどの群衆を導いていた宗教的指導者は、主イエスが厳しく批判されたファリサイ派の人々や律法の専門家だったのです。そのファリサイ派の人々や律法の専門家に代わって、多くの群衆を導くべき弟子たちに、主イエスはどのようにその務めを果たすべきかを語られるのです。
「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。」
偽善とは、口で言っていることと、実際にやっていることが違うことです。
ファリサイ派や律法の専門家は、内側と外側、人々に見せている外面と、心の中の思いが食い違っていました。
しかし、主イエスはここでファリサイ派を批判しておられるのではありません。主イエスはこの言葉を弟子たちに向けて語っておられるのです。主イエスの弟子たちにもファリサイ派と同じ偽善に陥る危険があるとの警告です。
(2)
弟子たちは何を語るのでしょうか。主イエスから語るように命じられた言葉、主イエスご自身が神から遣わされて語られた、神の福音を、弟子たちもまた主イエスに遣わされて語ります。しかし、その前に弟子たちは「イエスは主なり」との信仰の告白を神と人の前で公に告白します。
その「イエスは主なり」との信仰告白と、弟子たちの実際の生き様、生き方が一致しないこと、すなわち弟子たちが主イエスに従って生きるのではなく、主イエスを知らないということ、十字架の前夜、主イエスを見捨てて逃げ去っていったあの弟子たちのような姿になることがあります。
弟子たちにとっても、また教会にとっても、口で言い表す信仰の言葉、信仰の告白と、信仰の行為、服従との間の不一致は、ここで主イエスが注意しなさいと言われる偽善です。
そのような偽善、信仰と生活の不一致は空間的に、また時間的、歴史的にも起こります。
空間的、場所的に起きる食い違い、不一致というのは、礼拝の場と生活の場、教会の中と社会、この世との間に起こる不一致です。
2、3節
わたしたち日本のキリスト教徒は人口の1%にも満たない少数者ですから、わたしたちの存在も、宣教も、活動も多くの人々には知られていません。人口150万人の福岡市に住む人々の一体何パーセントの人が福岡城南教会を知っているでしょうか。
ここで何が語られようと、信じられようと、数多くの人々には知られないという状況がわたしたちにはあります。そのような状況はわたしたちに危険また誘惑をもたらしています。ここで語られることは、ここでだけ通用すること、ここでしか通用しない、外では通用しない、だから外では口外しない、外の人には黙っておくという誘惑であり、危険です。
でも、わたしたちが信じていることは、使徒信条で告白しているように「わたしは天と地の創造主、全能の父なる神さまを信じます」ということです。わたしたちは神さまが、天と地、この世界とその中にある全てを造り、今も支配しておいでになると信じています。わたしたちの信仰がたとい、人々に対して「覆われ、隠され」ようと、また「暗闇で、奥の間でささやかれる」ようにして語られたとしても、その内容は、すべての人にとっての真理であり、すべての人に関わることです。
主イエスは、覆われているものでも、現されないままで終わることはない、隠されているものでも、すべての人がそれを知る時が必ず来ると言われます。神がそれをすべての人の前に明らかになさるし、世界中に向かってそれを公言されるからです。終わりの日に神はそうなさるでしょう。
では、それまでは、わたしたちは黙っておくのでしょうか。神さまを信じるわたしたちにとっては、終わりの日を待たず、今日という日に神さまの御前に立つとき、それは心で信じるだけでなく、口でも言い表し、さらにそれに従って生きるべき真理なのです。
わたしたちにとって神の言葉が語られ、聞かれるのは、礼拝の中だけ、教会の中のみに限られる、外では御言葉は語られることも、聞かれることもないというのは偽善的です。ここの中では信じているけれど、人に対しては黙る、この世では違う振る舞いをする、神を信じていない者であるように生きるのは、偽善です。神の目に偽善であり、ちぐはぐな不一致としてしか映っていませんし、わたしたちの良心に照らして見ても明らかな偽善です。
教会やクリスチャンの信仰の告白と生き方、行動の不一致は、今、空間的に、教会の中と外での食い違いとして起こることを見ましたが、空間的にだけでなく、時間的に、歴史的にも起こります。日本のプロテスタント教会では大正時代、1920年代までは平和主義の大切さ、世界平和が盛んに唱えられていました。しかし、それが1930年代以降、だんだん世界平和や平和主義の声が聞かれなくなってゆきました。そして戦争中は平和でなく戦争、剣を打ちかえて鋤とするのでなく、今は、鋤を打ちかえて剣とすべき時だという説教がなされるようになりました。そのようなことを唱えることはしなくても、心の中、教会の中だけでそれを信じて、公に言うことは控えるようになりました。
今、旧約聖書のエレミヤ書23章23〜24節を引用したいと思います。(旧約1221ページ)
主なる神は天をも地をも満たしておいでになります。このお方が見つけられない隠れ場など存在しません。時間的、歴史的にも、空間的、場所的にも、わたしたちの語ることも、振る舞いも、わたしたちの心の中の考えや思いもすべて、神さまの前には明らかにされています。その主なるお方の前で、わたしたちは信じることと生きることを一致させられるのです。
(3)
4〜7節
主イエスは弟子たちを「友人」と呼んでおられます。主イエスの友人というのは、主イエスと同じ生き方をする者として主イエスから信頼されている人のことです。「体を殺しても、それ以上、何もできない者どもを恐れない」のは主イエスご自身の生き方です。主イエスのそのような、恐るべきお方のみを恐れ、恐るべきでないものを恐れない生き方をする者たちが、主イエスの弟子であり、そのような者を主イエスはご自分の友と呼ばれます。
8〜12節
10節の御言葉について、来週の説教でもう一度取り上げたいと思いますが、この言葉は読み過ごすことのできない、とても重たい言葉です。
この言葉を理解するのに、ペトロやパウロのことを思い合わせることが助けになると思います。
「人の子の悪口を言う者は皆赦される。」。パウロは、回心する前は主イエスを信じる者たちへの迫害の先頭に立って、罪のない人々を死に追いやっていた、教会の迫害者でした。パウロはその時のことを次のように言っています。「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていない時、知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。」(テモテ第一1章13節 新約384ページ)
ペトロもご存知の通り、主イエスを三度知らないと言いました。彼が主イエスを三度知らないと言い終わったとき、鶏が鳴きます。そのとき、ペトロは主イエスが言われた言葉を思い起こしました。そして激しく泣いたのでした。
ルカによる福音書には、鶏が鳴いたとき、主イエスが振り向いてペトロを見つめられたと書かれています。彼が泣いた理由は、もちろん、後悔の思いがあったに違いありません。でもそれだけでなく、ペトロが主イエスを三度も知らないと言うこと、それを主イエスはご存知で、ペトロの信仰がなくならないようにペトロのために祈られた、その主イエスの愛のゆえに泣いたのだと思います。主イエスがペトロを見つめられた、その眼差しの中に込められた愛と赦しを受けとめて、ペトロは悔悛の涙とともに、溢れんばかりの感謝の涙を流したのだと思うのです。
「人の子の悪口を言う者は皆赦される。」主イエスは、また神さまもペトロの罪をお赦しくださるでしょう。「しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。」ペトロがもし、主の赦しと愛を頑なに拒み続け、受け入れようとしないなら、彼に罪の赦しはあり得ないのです。
聖霊は、わたしたちにイエスは主なりと告白させてくださるお方です。そのお方が授けてくださる告白を足で踏みつけて斥けるなら、そのようにして聖霊の導きに従おうとしないなら、そこには赦しも救いもないのです。
わたしたちは聖霊によって信仰へと導かれる小さな者たちです。神さまは小さな者を愛されます。罪人であるわたしたちを赦される父です。主イエスをユダヤ人の手に渡し、ユダヤ人の手によって殺された主イエスを復活させて、ユダヤ人にもわたしたち異邦人にも報復ではなく、平和を与え、和解と赦しを与えてくださるお方です。
弟子たちは、小さく、弱く、貧しい人たちでした。大勢の群衆が足を踏み合いながら背後に控えているところで、一体こんな人たちに何ができるのかと人々から見られ、自分たちもそう思うような無力な人々でした。しかし、主イエスはそのような弟子たちに今日の御言葉をお語りになりました。それは今日、わたしたちにも語られている言葉です。
それゆえに「恐れない」で信仰を告白し、大胆に神の福音をのべ伝えて行きましょう。
父と子と聖霊の御名によって。