聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第58回「今の時代の責任」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 歴代誌下24章15~22節
新約聖書 ルカによる福音書 11章37〜54節

 

(1)
今読んでいただいた箇所は、主イエスを食事に招いたファリサイ派の人、また、ファリサイ派と同じ立場に立っていた律法の専門家と主イエスが食事の席上交わした会話です。福音書の中でも最も激しいこれらのやりとりは、公衆の面前で、公の討論という形でなされるのなら理解できますが、福音書記者のルカはこれを食事の場で交わされた会話として記しています。

このとき、主イエスを招いたファリサイ派の人も、またその食事の席に同席していた律法の専門家も、食事の席上、主イエスから面と向かって繰り返し、「あなたがたは不幸だ」と言われることはまったく予想していなかったでしょうし、不本意でもあったでしょう。ファリサイ派の人にしてみれば、主イエスに対する好意から、主イエスとの交わりと友情を深めたいと思って主イエスを食事に招待したはずだからです。

しかし、その結末は、主イエスが食事を終えてファリサイ派の家を出て行くと、ファリサイ派の人々や律法学者は激しい敵意を主イエスに対して抱くようになり、彼らの主イエスへの敵意と憎しみは、最終的に主イエスを十字架につけて殺すまでに膨らんで行ったのでした。

(2)
ルカによる福音書は食事の場面を多く描いています。中でも印象的なのは、最初の復活節の夜のエマオでの食事です。その日の午後、エルサレムからエマオの村に向かっていた二人の弟子に、復活された主イエスがともに歩いてゆかれました。最初、弟子たちはそれが主イエスだと分かりませんでした。しかし、夕方、宿で食事の席に着き、主イエスがパンを裂いておられるとき、二人の目が開けてそれが主イエスだとわかったのでした。
わたしたちは、今日も礼拝の中で、その食事を記念する聖餐式を守ろうとしていますが、食事である聖餐式は復活節の夜の食事が平安と喜びに満ちたものであったように、平安に満たされた喜びの食事、祝いの食卓です。

しかし、今日読んでいるファリサイ派や律法学者との食事には、食事本来の平安や喜びがありません。なぜでしょうか。
主イエスは本来喜びと平安の場であるはずの食事の席で、どうしてファリサイ派や律法学者に対しておおよそ食事の場にふさわしいと思われないような調子で、激しく彼らを批判なさるのでしょう。
そうなりますと、聖餐式の食卓につこうとするわたしたちにも、主イエスはファリサイ派や律法学者に浴びせたのと同じ厳しい批判をなさるのでしょうか。

わたしは今日の説教を準備しながら、ここで批判されている律法の専門家は自分のことだと思いました。ファリサイ派や律法学者を批判された主イエスの批判はわたしたちには関わりのないことだと言って済ますわけにはゆかないと思いました。そのことは最後にもう一度お話ししたいと思います。

でも、最初に覚えておきたいことは、主イエスはファリサイ派であれ、律法学者であれ、彼らに対して批判のための批判をなさるお方ではないということです。主イエスは彼らに対する真実と愛をもって、彼らと本当の意味で、喜びと平安に満ちた食事を共にしたいとの願いをから、この批判をされていると信じます。

(3)
今日読んでいる箇所の後半に、律法学者に対して三度、「あなたがたは不幸だ」と糾弾の言葉が繰り返されていますが、その真ん中の49〜51節にはこう書かれています。

49〜51節
ここに「わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。」と言われていますが、これは先週引用しました「ぶどう園と農夫」の喩えで、農夫たちにぶどう園を貸した主人が、収穫を納めさせるために何度も僕を送った、あの送られた僕たちが、神から遣わされた預言者や使徒たちであり、その僕たちが袋叩きにあったり、追い返されたりしたというのが、神から遣わされた預言者や使徒が迫害されたり、殺されたりしたというのに相当します。
そして、ぶどう園の主人が最後に、自分の愛する息子を送るところに当たるのが、「今の時代の者たちがその責任を問われる」という言葉です。すなわち主イエスの時代に生きていた律法学者たちは、神が最終的に世に送られた、神の子に対して自分たちがどうするかによって、それまで先祖たちがしてきた数々の罪、流されてきた血に対する責任の総決算をすることになるという意味です。

ここで考えなければならないのは、主イエスが、今の時代の者が責任を問われると言っておられるのはどう言う意味かと言うことです。神が最終的にこの世界に送られた御子キリスト、あのナザレ人イエスにおいて、神はどのように今の時代の者たち、律法学者たちの責任を問うておられるのでしょうか。

主イエスはファリサイ派や律法学者に、神が求められるのは犠牲ではなく、憐れみであるとはどういう意味か行って学びなさいと言われました。

49〜51節の直前の47、48節で、主イエスは律法学者たちが預言者の墓を建てていることを批判しておられます。
47、48節
その意味は、ここの並行箇所のマタイ23章29節以下を読むとこう言われています。
(46ページ)

律法学者、ファリサイ派の人たちは殉教者のために碑を建てることによって、預言者を殺した過去の人々と、その罪を批判し、自分たちがその時代に生きていたら預言者の側につく者たちであったことを、墓を建てることによって表明しようとしていました。
ここで主イエスが最も鋭くえぐり出している律法学者たちの罪とは、彼らの自己義認の罪だと思います。彼らが預言者の墓を建てることに熱心になる動機は、それによって自分自身が正しい人間であることを証明することにあるからです。

(3)
このときの食事は最初から険悪な雰囲気でした。主イエスが食事の前に手を洗わなかったからです。それに対して、主イエスは、ファリサイ派は手を洗っても、神に対して清くなってはいない、むしろ自分を正しい人間だと思っていることが、神に対する自分の魂、心、内面の汚れになっていると言われたのでした。
そして、自分の罪を指摘する主イエスを憎み、殺そうとするのは、人々の罪を指摘した預言者ゼカリヤを殺した先祖がしたのと同じことをしようとしているのだと言われるのです。

こうして、律法学者、ファリサイ派の人々を指導者とするユダヤ人は、イエスを十字架につけて殺したのでした。それは神から遣わされた預言者や使徒を迫害し、殺した先祖と同じことを、最後に神から遣わされた、神の愛する御子イエスを殺すことでした。

でも、ここでもう一度、神さまは今の時代の人々に問われたのです。それは、イエスを殺したユダヤ人に対して、神はイエスを復活させ、改めて、ユダヤ人にも、またユダヤ人だけでなく、異邦人も含むすべての人間に対して、神は問われるのです。

神はユダヤ人がイエスを殺すことを知りつつ、イエスをユダヤ人の手に渡されました。しかし、それはイエスにノーを言ってユダヤ人が殺すイエスを神が復活させることによって、ユダヤ人の罪を赦し、新しい命を与えるためだったのです。それは神が求めるのは生贄、犠牲ではなく、憐れみであることをわたしたちが知るためです。

(4)
神が求めるのは生贄、犠牲ではなく、憐れみであるとは、神はわたしたちが自分は正しいと主張しないこと、自己義認を追求しないこと、かえって、自分の罪人を認めることを喜ばれるということです。
人間が罪によって殺したイエスを神は復活させました。神はわたしたち人間の罪に対して、怒りをもって報復なさらず、主イエスを復活させて、平和を与え、罪を裁くのではなく、罪を赦してくださったのです。
その神の憐れみを喜び感謝することを、神はお求めになります。わたしたちはイエスの十字架と復活による平和の光の中で、すべての自己義認を放棄するのです。また人々を罪に定め、裁くことをやめるのです。神がイエスの復活において差し出されるシャロームは、神の前での神とわたしとの平和であり、さらにすべての人との平和なのです。

(5)
主イエスが律法学者への最初の批判で言われていることは、主イエスが律法学者とは正反対の方であることを教えています。
46節
また主イエスが律法学者を批判された最後の批判は、ルカによる福音書10章21節に記されている主イエスの御言葉を思い出させます。
52節

わたし自身、神の憐れみではなく、犠牲を追求しようとし、自分を正しい主張しようとすることが多かったことを告白します。また、人にも犠牲を求めがちだったことを告白します。しかし、それは主イエスがわたしたちを招いておられる食卓の清さからは程遠い、心と魂の汚れであり、周りの人々を汚すことになっています。自分自身が神の国に入らないばかりか、入ろうとする人を妨げています。

今日も、この礼拝においてわたしたちは神から問いかけられています。特に、聖餐の食卓においてそれが問われます。神が求めておいでになるもの、神が喜ばれるのは犠牲ではない、自分が正しいとする自己主張ではない、そうではなく、憐れみだということを知っているのか、そして憐れみをもって、赦しと愛をもって招いてくださる神のもとに喜んでこようとしているかどうかを問われています。

神が招かれる食卓は、主イエスによる平和、主イエスにおける清さによるすべての人との平和、その喜びに預かる恵みの場です。神はわたしたちのためにその食卓を備え、今日も、明日も、主が再び来られる日に至るまで繰り返しわたしたちを招かれます。神はここでわたしたちを、ご自分の愛するこどもたちとして、赦しと希望のうちに、永遠の命に向けて養ってくださいます。
神さまが聖餐式の食卓に西から、東から、南から、北から、神さまのこどもたちを集めて行かれることを感謝し、喜びをもって、心からの賛美をもって、希望のうちに主の食卓に連なりましょう。ここにこそ今の時代にすべての人々が心から願い求めている平和があるからです。

父と子と聖霊の御名によって。