復活節礼拝 「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを神は復活させられた
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 イザヤ書2章1~5節
新約聖書 使徒言行録 2章22〜36節

 

 

(1) 今日は復活節です。
朝、まだ暗いうちに主イエスの墓を訪れた婦人たちは、彼女たちに現れた御使からこう告げられました。「なぜ、生きておられる方を死者のうちに捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。
婦人たちは急いでその知らせを弟子たちに伝えました。しかし、ペトロをはじめとする弟子たちはそれを愚かなたわ言のように思って、信じようとはしませんでした。

でも、婦人たちの知らせを信じようとしなかったそのペトロが、それから50日が経ったとき、エルサレムの人々に向かって、三度繰り返して、主イエスは復活されたと語りました。それが今日、読んでいる聖書の箇所です。

「神はこのイエスを死の苦しみから解放して復活させられました。」(2章24節)
「神はこのイエスを復活させられたのです。」(32節)
「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(36節)

ペトロが恐れることなく、ひるむことなく、エルサレムの人々の前で神はイエスを復活させられたと語ってから2千年が経ちました。2千年が経った今、世界の人々は、イエスは復活されたという知らせを信じているでしょうか。婦人たちの知らせを聞いても、それを愚かなたわ言だと思ったペトロのように、今なお世界の多くの人々にとって人々は主イエスの復活は信じられない、それこそ愚かな話ではないでしょうか。
わたしたちは主イエスの復活を信じているでしょうか。信じているとしても、最初信じようとしなかったペトロが50日経ったとき、人々の前に立って、大胆に、神はイエスを復活させられたと語るようになったように、人々に向かって、この知らせを語り伝えるようになっているでしょうか。

(2) ペトロがイスラエルの人々に向かって「神はイエスを復活させられた」と語ったとき、彼はただ「神はイエスを復活させられた」と語ったのではありませんでした。「神がイエスを復活させられた」と語る前に、「あなた方が十字架につけて殺したイエスを」と語ったのです。神が復活させられたイエスは、ほかでもない、あなたがたが殺したイエスであると語ったのです。

「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさった。」

これは聞く相手によっては、ペトロが自分を非難している、自分の罪を責め、告発していると受け止められかねない言葉です。これを聞いた人が反発してペトロに、「あなたはイエスの血の責任をわたしに負わせようとしているのか」と食ってかかりかねない言葉です。

わたしは高校生の時、アメリカで過ごしましたが、教会でときおり、とても固い表情でわたしの顔を見る年老いた方達にお会いすることがありました。「わたしの息子は、あなたの国の兵士によって殺されたのだ」、その人たちの固い表情はそう語っているようでした。
「あなたの国によって殺された私の息子」と言えば、それは当然、相手の国を糾弾する言葉として響くでしょうし、聞く側にとっては穏やかな気持ちで聞けるはずのない言葉です。

(3) 「イエス・キリストを殺したのはユダヤ人だ。」「ユダヤ人はイエス・キリストを十字架につけた罪深い民族だ。」
2千年のキリスト教の歴史、特にヨーロッパの歴史において、イエス・キリストの死の責任はユダヤ人にあるとして、ユダヤ人を「キリスト殺し」といって非難し、迫害してきた歴史があります。
南ドイツに村人が総出でイエス・キリストの受難劇を演じるオーバーアマガウという村があります。ローマ総督、裁判官ポンテオ・ピラトが主イエスに罪を認めず、釈放しようとしたのに対して、ユダヤ人の群衆が主イエスを十字架につけよと叫び、ピラトに死刑判決を下すよう強要したとき、ユダヤ人たちの面前でピラトが手を洗って「この人の血について、わたしには責任がない」と言うと、それに対して群衆がこぞって「その血の責任は、我々と子孫にある。」と叫ぶ場面は、反ユダヤ主義を扇動しかねないので、最近になって、ユダヤ人の人権団体から繰り返し、この部分を削除してほしいとの要望が村に出されています。

しかし、ペトロがここでユダヤ人に向かって「あなたがたが十字架につけたイエス」、「あなたがたが磔にして殺したイエス」と語ったとき、彼は後世、キリスト教徒がユダヤ人を憎み、迫害したような意味で、イエスの死の責任をユダヤ人に負わせようとしているのではありません。ペトロ自身、主イエスを三度知らないと言って、主イエスを見捨て、主イエスを死へと追いやった一人でした。ペトロは自分の罪を不問にし、それを棚上げにして、ユダヤ人の罪を責めたてる資格などなかったからです。

それ以上に、ペトロがユダヤ人の手によってイエスが死に至らせられたと語るとき、ユダヤ人に主イエスの血の責任を負わせようとして、そう語っているのではないもっと大きな理由が別にあることが、22節以下にはっきりと示されています。
ペトロは、主イエスを十字架につけられるべく、ユダヤ人の手に渡されたのは、ほかでもなく神であると語っているからです。

ペトロが「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」と語るとき、「あなたがたはイエスを殺した、しかし、神はイエスを復活させられた」と言っているように聞こえます。確かにイエスを殺したのはユダヤ人です。しかし、イエスを殺そうとするユダヤ人の手にイエスを渡されたのは神ご自身だとペトロは語りました。
ペトロはこう語っています。22〜23節。

(4) 主イエスがご自身の死について語られた喩えに「ぶどう園と農夫の喩え」というのがあります。(ルカ20:9〜19)
この喩えに出てくるぶどう園の主人は父なる神さまです。最後に「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と言って送った主人の息子とは主イエスのことです。そして、息子を殺す悪い農夫とは自分たちのことを言っているのだと、それを聞いた律法学者たち、祭司長たちが気づいたと書かれています。
今日読んでいる使徒言行録の2章23節に「神は、お定めになった計画により、あらかじめご存知の上で、あなたがたに引き渡された」とありますが、これは、「ぶどう園と農夫の喩え」で言えば、息子が殺されることを知りつつ、ぶどう園に送ったという意味になります。

ぶどう園の主人は息子を殺した悪い農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるだろうと言われています。それは報復ということでしょうか。

神さまはご自分のひとり子をユダヤ人によって殺された。それでユダヤ人を殺し、滅亡されたというのなら、確かに報復されたということになるでしょう。
しかし、「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさった」と言われるのです。これは、ユダヤ人がイエスを殺したことに対して神がなさったのは、報復ではなかったという意味です。そうではなくイエスの復活という、人の心に思い浮かびもしない、世界がまったく想像しないことを神はなさった。それが、神がお定めになった計画であったと言われるのです。
神さまは、ユダヤ人、神の民イスラエルが、神から遣わされた御子を殺すことを承知の上だ、敢えて彼らの手に渡されたのでした。それによって殺されたイエスを復活させるためであり、さらに復活したイエスを神の右の座に引き上げて、新しい神の国の支配を始めさせるためであった、それが神の計画だったのだとペトロは説教しているのです。

(5) そのことをペトロはダビデの二つの詩編を引用しながら語っています。一つは詩編16編です。そこには、主イエスが見ていた復活の喜びと希望が語られています。もう一つは詩編110編です。復活させられた主イエスが、神の右に引き上げられ、そこから約束された聖霊を父から受けて、すべての人に注がれるようになったと語ります。

主イエスの復活により、主イエスにとっての喜びと希望の歌が、今わたしたちの歌になりました。主イエスの復活の喜びは、わたしたち自身の復活の喜びであり、主イエスの復活の希望は、わたしたち自身の復活の希望なのです。この死に打ち勝ち、復活をもたらされたイエス、天に上げられ、聖霊をわたしたちに送って、わたしたちに、神にアバ父よと呼びかけ祈る神の子の身分を授けてくださるイエスこそ、イスラエルの全家の上に、かしらとして立てられた主なるお方、救い主、メシアなのです。

(6) 「イスラエルの全家は、はっきりと知らなければならない。」
はっきりと知らなければならない、「はっきりと」というのは、確定したこと、しっかりと揺るぎなく定められたこととして、知るべきだという意味です。
わたしは最近、教会員のある方に勧められて一冊の本を読みました。それは今、日本に住んでいるイスラエル人の書かれた「イスラエル軍元兵士が語る非戦論」という題名の本です。内容のとても豊かな本なので、とても紹介しきれないのですが、その中から一つのことだけを紹介します。
この方は今、パレスチナのガザで起きていること、イスラエルがガザを攻撃していることについて、日本人からこう質問されるといいます。

「かつて、ユダヤ人としてホロコーストを経験して、あれだけの苦しみを受けたイスラエルが、どうしてホロコーストと同じようなことをパレスチナに住む罪もないこどもたちに対してするのですか」と。

本の著者である方はそれに対してはっきりとこう答えます。「それは、イスラエルが陥ってしまった間違いなのです。ホロコーストの悲劇を繰り返さない道は、報復をしないことなのに、その道からそれて、ホロコーストの悲劇に2度とあわないためには、自分たちの国をつくり(たとえ、そこからパレスチナ人を追い出そうとも!)、自分たちの国を脅かそうとする敵に対しては、武力で国を守り、相手を徹底的に攻撃するほかないと考えるようになってしまったからなのです。報復が報復を生む、この連鎖を断ち切らなければならないのです。」
先日、テレビでホロコーストの生き残りの90歳を超えた老人が、今のイスラエルに対するメッセージはと問われて、ただ一言、絞り出すように「シャローム!」と言われるのを聞きました。

「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は復活させ、主とし、またメシアとなさった」。
神さまは、報復の道を終わらせなさったのです。主イエスの復活によって、すべての人を死の恐れから解放し、復活の望みを与えてくださいました。神の御前に生きる永遠の命の喜びを与えてくださいました。
このシャロームをもたらす、平和の王イエスは、今、全能の父なる神の右におられます。このお方が地上に聖霊をとおしてもたらされる平和、シャローム、その平和の支配を妨げることのできる力は、天にも地にも存在しないのです。
パウロは力強く語っています。
ローマの信徒への手紙8章31節以下をお読みします。

父と子と聖霊の御名によって。