聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第57回「食事の後の分争」
説 教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 サムエル記上16章5~7節
新約聖書 ルカによる福音書 11章37〜54節
37節
ファリサイ派の人が主イエスを食事に招待します。ルカは主イエスがファリサイ派の人の招きに応じてその客人となられたことを7章に書いていましたし、この後14章にも書いています。ですから、この時の食事が珍しい、特別なものだったと言うわけではありませんでした。主イエスを食事に招いたファリサイ派の人は、主イエスに好意を抱いて、食事を共にして、もっと交わりを深めたい、主イエスの話をもっと聞きたいと願って、この食事の席を設けたのでしょう。
するとのっけからファリサイ派の人にとって不愉快でショッキングなことが起こりました。自分たちは食事の前に必ず手を洗って、身を清めてからでないと食事の席につかないのに、主イエスがそれをなさらなかったからでした。
38節
食事の席に着く前に手を洗い、身を清めるのは、衛生上の理由からではなくて、神さまの前に負っている汚れから身を清めるためです。ファリサイ派の人たちを始め当時のユダヤ人が食事の前に身を清めるのは、神さまに対して自らを清めるためだったのですが、なぜか主イエスはそれをなさいませんでした。それを見て、ファリサイ派の人は驚き、不審に思います。ファリサイ派の人が心の中で思っただけでなく、それが顔に出たかもしれませんが、口に出してそれをあからさまに言うことはしなかったのでしょう。でも、主イエスはファリサイ派の人の心の思いを見抜かれました。
39節〜41節
主イエスの口から、実に辛辣なファリサイ派批判の言葉が語られます。ファリサイ派の人は好意から主イエスを食事に招きましたが、食事の前から主イエスが手を洗われないことで思いもしないショックを受けたのに、今度は、自分が客として食事に招いた主イエスからあからさまに面と向かって「愚かな者たち」と言われたのには、本当にびっくりしたことでしょう。この後、3度も繰り返し、「あなたたちファリサイ派の人たちは不幸だ」と言われたのでした。原文では、「禍なるかな」と言う言葉、これは「幸いなるかな」で始まる山上の垂訓の、あの「あなたがたは幸いだ」と言う祝福の呼びかけの反対の言葉です。好意を持って招いた客人から主人であるファリサイ派の人が「あなたは禍いだ」などと言う言葉を聞こうとは、まさに予想だにしない事態だったことでしょう。
ルカはここで、ファリサイ派の人々に対して厳しい言葉を語られたのは「主は言われた」と、それが主、権威ある主なるお方だと記しています。これまで「イエスは」とルカは書いてきました。しかし、ここではわざわざ「主は言われた」と主語をイエスから主に書き改めています。
先ほど、旧約聖書の朗読で、主は「人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」と言われていました。
主なる神が見るのは心の清さであって、目に見える外面的な、形式的な、儀式的な清さではないと言うことです。ファリサイ派の人たちは杯や皿にたとえれば、外側はきれいに洗い清めるが、内側は神さまに対する汚れた思いで満ちている。ファリサイ派の人たちは人の目にどう映るかに気を使うことには熱心でも、心を見られる神の目にどう映っているかを考えようとしないとの批判です。ここと並行しているマタイ福音書23章では「まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる」と書かれていますが、ルカでは41節にあるように「器の中にある物を人に施せ」と書かれています。「器の中にある物を施す」と言う言葉の意味はわかりにくいように思います。どうして、「器の中にある物を施す」と「あなたたちにはすべてが清くなる」のでしょう。そのことはもう少し読み進んでから、最後にもう一度考えて見たいと思います。
42節
ここから主イエスはファリサイ派を名指しで激しく批判し始めます。その第一は、神の戒めである律法への服従のあり方に対する批判です。わたしたちの教会ではあまり聞きませんが、「十分の一献金」と言う言葉を聞かれたことがおありでしょうか。ファリサイ派の人々の間ではこの「十分の一」のささげ物が固く守られていました。十分の一献金に熱心な彼らが正義の実行と神への愛はなおざりにしていると主イエスは言われます。
ルカによる福音書16章14節に「金に執着するファリサイ派の人々が、主イエスを嘲笑った」と言う言葉があります。そこでファリサイ派の人々が主イエスを嘲笑った理由は、主イエスがこう言われたからでした。「どんな召使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
ファリサイ派の人たちの中に、富は神が自分たちの正しさを認めて祝福してくださっている証明、自分たちを神様が祝福しておられる証拠であると言う考えがありました。神に仕えることと富に仕えることは両立する、その二つは相反することはないと彼らが考えていたので、主イエスの「神と富とに仕えることはできない」と言う言葉を聞いて嘲笑ったのだと思います。
しかし、主なる神さまは心を見られます。ファリサイ派の心の中に神さまを愛する愛があるのか、それとも彼らの心には神さまへの愛よりも富への愛があるのか、それは神様の目には明らかなのです。確かに彼らは十分の一は捧げます。しかし、十分の一を超えて捧げよと言われたら、とんでもない、十分の九はわたしのものです、と言うでしょう、それ以上は、びた一文出さないのです。彼らの内側は強欲と悪意に満ちていると主が見ておられるのです。ファリサイ派の人の心には神さまへの愛がないことを次の節も明るみに出します。
43節
わたしたちもいろいろな会合に出席したら、自分の座るべき席はどこかを考えないでしょうか。それぞれの場に応じて、そこに集まる人との関係で序列のようなものがあるからです。会堂は礼拝の場です。会堂の上席に着くとは神さまを礼拝する時に、そこに集まっている会衆の中で自分が筆頭、最初のものであると自他共に認められることを意味します。みなさん、礼拝の席で大事なことは人の目でしょうか、それとも神様の目でしょうか。
広場で挨拶されると言うのも、私は会社勤めをしたことがありませんが、平社員が重役や社長に最初に挨拶するのではないでしょうか。平社員が自分から先に社長に挨拶もせずに、社長からの挨拶を待って、挨拶を返すなどと言うことをするでしょうか。彼らは自分から挨拶するものではなく、人から挨拶を受ける者になりたいのです。
ここでルカが最後に「好む」と書いているのは、「愛する」と言う言葉です。ファリサイ派の人々が愛しているのはだれなのか、神さまなのか、それとも自分なのか、それは神さまの目にははっきりと見えています。
44節
ここのマタイの並行箇所は23章27節以下です。マタイでは白く塗られた墓とあるのが、ルカでは「人目につかない墓」となっています。白く塗られていれば、人目につかないことはないように思われますが、いずれにせよ、それに触れる人が気づかないうちに汚される点では同じだと思います。ファリサイ派の人たちは、自分が人々を汚す存在だなどとは夢にも思っていないでしょう。しかし、主イエスは、先ほど読んだマタイ23章の少し前の15節で、ファリサイ派の律法学者は改宗者作りに熱心に奔走するけれど、それによって人々を自分よりも倍も悪い地獄の子にしていると批判されました。
今日の聖書箇所は、汚れを清めると言うことから始まりました。外側を造られた神は、内側をもお造りになった神です。その神さまに対して、わたしたちはどのようにすれば、清くされることができるのでしょうか。
みなさん、主イエスは優しいお方、柔和なお方、人々に罪の赦しの福音を語り、神の憐れみを語られるお方だと思っていたのに、どうしてその主イエスの口からこれほどに容赦のない、相手を糾弾し責めて裁くような数々の言葉がファリサイ派の人たちに対して語られるのでしょうか。
ファリサイ派の人たちは当時のユダヤ人社会で高い地位を占める、政治的権力を持つ有力者たちでした。主イエスがそのような人々に面と向かって歯に衣着せずに批判すれば、タダでは済まないことは火を見るより明らかなことです。主イエスはそれを考えなかったのでしょうか。相当なしっぺ返しを食うに決まっていることを思って、黙っておこうとは思わないのでしょうか。それを考えないで無謀な言動をしたのでしょうか。ファリサイ派の主イエスに対する敵意と憎悪は、最終的に主イエスを十字架につけることになりました。
みなさん、今日の箇所の冒頭はこう始まっています。「イエスはこう話しておられるとき」。
主イエスは何を話しておられたのでしょう。先週読んだところで光とともし火の話をなさっていました。
その光について引用したい聖句があります。ヨハネ3章19節以下です。世に来た光は主イエスです。主イエスのみ言葉です。主イエスを食事に招いたファリサイ派の人たちは自らをどのように思っていたかといえば、彼らは自分たちが「盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負して」(ローマ2:19〜20)いた人々だったのです。しかし、主イエスとそのみ言葉の光は盲人の案内者を自認するファリサイ派の人々が神様の目に盲人として映っており、盲人を手引きする盲人に過ぎないことを明るみに出したのです。主イエスの光によって真理を知って、自分の罪を悔い改める人は幸いです。しかし、真理の光よりも闇の偽りを愛する人、そして光と真理を憎む人は禍です。
ユダヤ人社会の指導者と自認していた人々が、その実、盲人を手引きする盲人に過ぎなかったこと、それは今の日本社会の指導者についても当てはまらないでしょうか。政治の務めを与えられている人たちが、この国の平和と福祉と正義や公平について正しく国民を指導すべきなのに、私利私欲、自分の地位と名誉と権力にしがみつくなら、滅びの穴に落ちるのは目の見えない政治家だけでなく道連れにされる国民です。歴史に対する洞察や謙虚な反省を忘れて、それを修正し歪曲し、次の世代に教育しようとしない政治家の責任は大きいと言うべきです。しかし、政治的指導者の責任よりもっと重いのは、わたしたちキリスト者と教会の責任だと思います。先週の説教で申し上げたことを、今日、もう一度申し上げます。
わたしたちを取り囲んでいる、今の時代、世界が暗いとしたら、それはこの世界を明るくする灯りとするために、神さまがわたしたちの中にともしてくださったともし火が、十分明るく輝いていないからなのです。わたしたちのともし火が、暗闇に燃えて輝く松明のように、この世界を照らしていないことを認めないで、いたずらにこの世界の暗さを嘆いているとしたら、わたしたちは何も見えていないに等しいのです。そのことを光であられる神様と主イエスのみ言葉の光の下で、はっきりと見させていただきたいと思います。そして、神さまが人々を喜ばせ、楽しませるために、わたしたちを世の光としようとなさる御心に応えさせてくださいとの悔い改めの祈りを祈りましょう。御心を悲しませている罪を告白し、悔い改めて、御心のままにわたしたちをお用いくださいと祈りましょう。
光であられる神さまはわたしたちの内に聖霊によって宿り、わたしたちを内側から照らし、清めてくださいます。また、わたしたちを通して、わたしたちの周りに光を満たしてくださいます。わたしたちは自分の力で光を放つことはできません。わたしたち自身は光ではないからです。わたしたちは光を点火していただいて輝くローソクに過ぎません。点火されないままで、それ自体で輝くローソクなど存在しません。電球も電気が通らないなら光がともりません。そのように、わたしたちの明るさは光であられる神さまから、その御言葉と聖霊によってもたらされます。
説教の最初の問いに戻りましょう。わたしたちは神さまの前にどうのようにしたら清くなれるのでしょうか。わたしたちには自分で自分を清くすることはできないのです。自分が光になれないのと同じです。父なる神さまの招かれる食卓につくにふさわしい清さは、ただ神さまからきます。光が神様からくるのと同じです。わたしたちのきよさは、わたしたちを愛して神様の子供たちとして受け入れてくださる神さまの恵みのうちにあるのです。それを信じる心、それを喜ぶ心、その心を神さまに差し出すことが、41節に言われている「器のうちにあるものを施す」と言うことだと思います。そして、信仰によって心を差し出す者にとって、父なる神様によって造られたすべてのものは清いのです。
きよさは主イエスのうちにあります。主イエスは手を洗われませんでした!そのためにファリサイ派の人々から殺されようとも!しかし、人々から殺された主イエスを神はよみがえらせなさったのです。この主イエスを死に渡された神の愛の中に、わたしたちの永遠の命ときよさがあります。主イエスのうちに留まりましょう。主イエスにしっかりとつながりましょう。そして、主イエスを愛して生きてゆきましょう。
父と子と聖霊の御名によって。