聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第63回  「神の国を迎えるため備えなさい」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩編130編1〜8節
新約聖書 ルカによる福音書12章35〜48節  

先ほど、主イエスの昇天を覚える賛美歌を歌いましたが、先週の木曜日が、主イエスが復活されてから40日目に天に昇られたことを記念する昇天日でした。弟子たちは、彼らを離れて天に昇って行かれる主イエスの姿が、雲に包まれて見えなくなったとき、天を見つめたまま呆然とそこに立ち尽くしていましたが、その弟子たちに御使が現れてこう告げました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天にあげられたイエスは、天にゆかれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)。

「主はまたおいでになる」。今日の聖書において読む主イエスのお言葉は、御使が約束した通り、主がまたおいでになる、そのときを待ちつつ生きる弟子たちの姿勢、生き方について教えられた言葉です。

35節

腰に帯を締めるのは、歩いたり、仕事をしたりするときに、着物がまとわりついて邪魔にならないように、着物をたくし込んで、歩きやすく、動きやすくするためです。他方、ともし火を灯すのは、夜です。

すると、腰に帯を締めるのと、ともし火を灯すことは互いに矛盾します。腰に帯して働いたり、旅をしたりするのは、普通、昼間のことです。夜が来たら、人は休息します。そのときには、それまで締めていた帯を緩めるか、解くかします。

腰に帯して、灯をともす、これが主の再臨を待つ弟子たちの姿勢、主の教会の生き方であるとすれば、それは周りの人々がしないことをすることを意味します。人々が夜の訪れとともに休み、眠るときに、そうしないで目を覚まし続けるということだからです。

36節

人々が夜の眠りについているときに、目を覚ましているのは、主が帰ってこられるのを迎えるために待っているからです。

先ほど読まれた旧約聖書の詩編130編に「見張りが朝を待つ」という言葉がありました。エルサレムの城壁の上で、夜回りとか衛士と呼ばれる兵士が、夜通し敵の襲来を見張っていました。夜回りはひたすら朝の来るのを待ち望んで、厳しい見張りの務めに耐えます。見張りは寒い冬の夜、雨風の吹き付ける中、眠気や疲労と戦いながら、目を覚まし続けなければなりません。辛い仕事です。主人の帰りを待つ僕にとっても、目を覚まし続けることは辛いことなのでしょうか。

 

37節

主人は、自分の帰りを目を覚まして待ってくれていた僕を見つけて、心から喜んでくれることでしょう。「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」

主は、目を覚まし続けているのを見られる僕を幸いだと言われますが、続いて思いがけない言葉が続きます。

ともし火を灯し、主人の夜遅い帰りを待っている僕が、腰に帯を締めているのは、帰ってきた空腹の主人に食事を出すためではないでしょうか。僕こそが、主人のために食事の席を用意し、そばで給仕するはずではないでしょうか。

ところが、驚くことにそうではないのです。僕ではなく、主人が帯を締めて、僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕するだろうと、主イエスは言われるのです。

 

主イエスは十字架につけられる前の最後の晩、弟子たちと食事をなさったとき、このように言われました。「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。」(ルカ22:27)

ベツレヘムの馬小屋に産まれ、十字架の上で死んでゆかれた主イエスの地上の生涯は、仕えられるためではなく、仕えるために来られた僕としての生涯でした。それだけでなく、復活し、昇天されて、もう一度、戻っておいでになる時にも、主は仕える者であられるのです。

弟子たちが、主イエスをお迎えするときに「あなたがたは幸いだ」と主から言っていただく理由は、彼ら自身、主からあなたがたは本当に幸いだと言っていただく理由は、辛いのによく我慢して目を覚ましていたから、褒美を与えようと言って、辛く厳しい務めが報われるからではないでしょう。ご苦労様と言って、主が食事に招いてくださって、労らってくださるからでもないでしょう。そうではなくて、弟子たちが、主イエスが地上におられた時も、再び来られる時も、いつも腰に帯を締めて仕える僕であられる、その主イエスの姿勢に、弟子たちもあやかって、同じく僕として生きられることが幸いなのではないでしょうか。

僕がともし火を灯して、目を覚ましているのはだれのためでしょうか。

もちろん、それは帰ってくる主を出迎えるために違いありません。しかし、もう一つのことが考えられます。それは、主が来られることを周りの人々に身をもって示すためでもあると思います。なぜなら終わりの日、主の再臨はすべての人に訪れるからです。眠っている人々に、目をさましなさいと促し、呼びかける意味があると思うのです。

ともし火をともし、目をさましている僕には、主が来られる日まで、すべき仕事があります。主が来られときに備えること、用意を整えるという仕事です。

主をお迎えするための準備とは具体的に何をすることでしょうか。

主のために食事を準備するのでしょうか。先ほども見ましたように、驚くことに、主が再びおいでになる時には、僕である弟子たちが用意した食事を主に差し上げるのではなく、主が用紙された食事に弟子たちが預からせられるのです。

では、僕は何をもって主の到来に備えたら良いのでしょう。それは、まず、自らが仕える者となることです。また、人々に主の到来、再臨を伝えることです。終わりの日に、わたしたちのために帯を締め、わたしたちを食事の席に着かせ、そばに立って給仕してくださるお方があることを伝え、自分自身が人々に仕えることを通して、自らの生き方によってそのお方を待つ生き方、姿勢を示すことです。

終わりの日に、わたしたちのために帯を締め、わたしたちを食事の席に着かせ、そばに立って給仕してくださるお方があること、そして、その方と同じ生き方をしながら、その方を待って生きることの幸いを伝えることが、夜の闇の中に灯火を灯すことです。

わたしたちは、主の来られるのを夜の暗さの中で待っています。時代も、世界も暗く、闇が支配しています。でも、この福音の音ずれがその夜の闇の中で、ともし火となります。そして腰に帯を締めて人々に仕えて生きるのです。それがわたしたちの教会に託された使命であり、責任です。福音を伝え、人々を食事の席に招き、そばに立って給仕することが僕であるわたしたちに与えられている仕事です。それが、主の帰りを待つ僕に主が託しておられる務めなのです。

福音を伝え、人々を食事の席に招き、そばに立って給仕することは、わたしたちの待っている主ご自身の生き方なのです。わたしたちはこのお方を心から愛し、このお方がわたしたちの誉れであり、誇りであるので、このお方と同じ生き方をするのです。そのように主に倣って、仕える僕として生きてゆくことがわたしたちの幸いなのです。

父と子と聖霊の御名によって。