聖日礼拝 「実を結ぶ信仰」 説教 伊藤 健一 長老
旧約聖書 列王記上 2章1~11節
新約聖書 マルコによる福音書 11章12〜19節

 

わたしたちの人生には、それまでの歩みを振り返り、その先の歩みについて考える時があります。先ほどお読みいただいた列王記上2章の冒頭では、ダビデは死を迎えようとしています。「この世のすべての者がたどる道を行こうとしている」とは、死ぬということです。ここでは、死に瀕したダビデが、王位継承者であるソロモンを祝福し、励ましています。わたしたちも、この時のダビデのように、人生の節目にあたって自分のこれまでの歩みを振り返り、後に続く人にメッセージを送り、励まし、後を託すということがあります。学び舎を後にして就職していく、職場において異動のために引き継ぎをする、職場を退職して次のステップに進む、そのような折りに、後に続く人たちにメッセージを送り、後を託すことはむしろ頻繁なことでしょう。わたしたちはここで、信仰を継承するということに焦点をあてて黙想してみたいと思います。

救世軍という教会のことは皆さんもご存じかと思います。宣教活動とともに社会奉仕にも力を注いでいる教会で、現在、特に青少年伝道に熱心に取り組む姿がウェブサイト上でも紹介されています。その救世軍の今年の標語が「世代から世代へ」だそうです。ウェブサイト上にもその標語に基づく動画メッセージがアップロードされています。「世代から世代へ」と言うときにまず思い浮かべるのは、「前を歩む世代から後に続く世代へ」という方向性です。長い人生経験に基づく知恵や知識を若い世代に伝えるということです。ダビデの働きの多くはサムエル記に記されていますが、ダビデの最晩年がこの列王記に記されています。

ダビデはサウル王に召し抱えられ、多くの戦いに勝利していきます。その活躍に嫉妬したサウル王に執拗に命を狙われますが、ダビデは逃げて生き延びます。サウルの死後、正式に王となったダビデは、信仰によって神に祈りながら、戦いに勝利していき、イスラエルの繁栄をもたらしました。大きな過ちも犯しましたが、基本的には主に忠実な歩みを送った優れた信仰者として、40年間に及ぶ繁栄の時代をもたらした名君であったと言って良いと思います。その後の分裂王国の王が評価されるとき、「父祖ダビデが行なったように」、「父祖ダビデほどではなかったが」、あるいは「父祖ダビデと異なり」などとダビデが物差しのように用いられるほどでした。

そのダビデも、最後の時を迎えることとなりました。ダビデは妻バト・シェバを呼び、ソロモンが後継王となることを宣言します。「王は誓った。『わたしの命をあらゆる苦しみから救ってくださった主は生きておられる。あなたの子ソロモンがわたしの後を継いで王となり、わたしに代わって王座に就く、とイスラエルの神、主にかけてあなたに立てた誓いをわたしは今日実行する』」(列王記上1章29~30節)。そしてダビデはソロモン王に遺言とも言うべき最後の言葉をかけます。「わたしはこの世のすべての者がたどる道を行こうとしている。あなたは勇ましく雄々しくあれ。あなたの神、主の務めを守ってその道を歩み、モーセの律法に記されているとおり、主の掟と戒めと法と定めを守れ。そうすれば、あなたは何を行っても、どこに向かっても、良い成果を上げることができる。また主は、わたしについて告げてくださったこと、『あなたの子孫が自分の歩む道に留意し、まことをもって、心を尽くし、魂を尽くしてわたしの道を歩むなら、イスラエルの王座につく者が断たれることはない』という約束を守ってくださるであろう」(列王記上2章2~4)。

モーセの律法に従順に、主への揺るぎない信仰に生きるならば、ソロモンの治世はおろか、ダビデ王朝は途切れることなく永遠に祝福されていく、とダビデは語ります。この信仰こそが、ダビデの治世40年を支えた原動力であったと言えるでしょう。この王位継承において、ダビデの臣下も、「主は王と共にいてくださいました。またソロモンと共にいてくださいますように。その王座を我が主君、ダビデ王の王座よりさらに大いなるものにしてくださいますように」(列王記上1章37節)と祈り祝福したのでした。こうしてダビデは旧世代から新しい世代へ、信仰の継承をしていったのです。

これはすばらしい信仰の継承の実例であると言えると思いますが、「世代から世代へ」と言うとき、ただ前の世代が渡してくれるものを受動的に受け継げば良いわけではないのです。ダビデにしても、罪を犯しましたし、信仰の揺らぎも経験したのでした。受け取る側も、エリヤのもとを離れようとせず、貪欲に教えを受け続けようとしたエリシャのような姿勢も非常に大切だと思います。しかし、そのまま受け継ぐのは好ましくない、むしろ害がある、という場合もあるのです。マルコによる福音書11章12節~14節を見てみましょう。イエス様はエルサレムに着いて、神殿に入り、周りを見回った後、ベタニアへ行かれました。過越の祭のために人々が大挙してエルサレムに集まっていたので、市内に宿を取ることが出来ず、周辺のベタニアまで行かれ、そこで宿泊されたのでしょう。その翌朝、イエス様が目にされるのは、葉ばかりが茂って実のないイチジク、そして商人ばかりがいて祈りや礼拝のない神殿でした。これは、その時代のイスラエルの霊的な状況を映し出しています。

12翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。13そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。 14イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。

イエス様は空腹を覚えられたので、イチジクの木のところに来て、実を探されました。しかしその木は葉が茂っているだけで、まったく実はありませんでした。イチジクの実がなる季節ではなかったと記されているのですから、このエピソードの中のイエス様は、非常に理不尽なことをなさっているように見えます。イチジクの実ができる時期ではないのであれば、葉が茂っているだけであったとしても当然で、そのことによってなぜ呪われるのか不思議に思えます。この時期は過越の祭の直前です。イエス様がエルサレムに入城されたのはその一週間前で、ロバに乗って入場されるイエス様を人々は「ホサナ、ホサナ」と叫んで大歓迎をされた時です。とすると、季節は3月後半から4月にかけての時期でしょう。イチジクは葉が出る前に実がなり、その収穫期は8~9月だそうです。ただし、古い枝に実ったイチジクは3月には収穫できるそうですから、場合によっては実がなっている可能性がある、そういう時期だったのです。そう考えるとイエス様の行動も理解できます。「いちじくの季節ではなかった」というのは、8~9月ではなかったということでしょう。

しかし、このイチジクの問題は、葉が茂り、大いに実を期待できるような木であったにもかかわらず、実はまったくない、あるいは実になる途上の、まだ食べられない青い実の子どものようなものさえなかったと言うことなのです。豊かに葉が茂った、健康体で豊かな実を期待できるようなイチジクの姿はしていましたが、それはまったくの見かけ倒しだったのです。エレミヤ書8章13節には、「わたしは彼らを集めようとしたがと、主は言われる。ブドウの木にブドウはなく、イチジクの木にいちじくはない。葉はしおれ、私が与えたものは、彼らから失われていた」とあります。イスラエルの不信仰の預言が成就したのが、このイチジクでした。「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」という呪いの言葉は、単にイチジクに対して言われただけでなく、実を結んでいないイスラエルに対して、とりわけ長い期間信仰生活を送っていたはずなのにまったく実を結んでいなかったイスラエルの宗教指導者たちに対して言われたのです。彼らは皆、信仰を正しく継承できていなかったのです。ヨハネによる福音書の15章2節には「わたしにつながっていながら実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものは皆、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」とあります。また、同じく16節には、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」とあります。実を実らせること、実を残すことが重要なのです。

続いて15節~19節を見ましょう。彼らの実を結ばない信仰のありようが、より一層はっきりと窺えます。

15それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。 16また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。 17そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」18祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。 19夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。

このエピソードが語るメッセージも、イチジクのエピソードと共通しています。イスラエルの民は、神殿で生け贄を献げなければならない、ということについては、代々伝えられてきているようです。レビ記の記述を見ると、どのような目的のときにどのようにしてどのような動物を生け贄として屠らなければならないかということが事細かく記されています。それをきちんとわきまえて必要な生け贄の動物を用意して神殿まで連れてこなければならないのです。そして神殿で祭司、大祭司の奉仕のもとで正しい方法で生け贄を献げるのです。これが神さまに近づく方法を神さまが教えてくださった唯一の方法なのです。規程通りに捧げ物をしなければならないのです。違った方法で捧げ物を行なって命を落とした人々の話を旧約聖書の中に見ることが出来ます。

とは言え、自分の生活しているところから動物を引いてくるのは大変な労力です。もし捧げ物の動物をエルサレムの神殿で買うことができるのであれば、たいへん楽になります。また、普段人々はローマの貨幣を用いていますが、神殿ではユダヤのお金を用いなければなりませんでしたから、両替商がいて便宜を図ってもらえるのなら、それは願わしいことだったのです。それで神殿においてビジネスが成立する条件が整うこととなりました。この慣習に慣れきってしまったイスラエルの人々には、このことがいかに御心からそれたものか、神を礼拝する場所にふさわしくない行為であるか、また何より、神さまを自らの商業活動に用いることがいかに大きな罪であるか、こうしたことにまったく思い至ることが出来なかったのです。

生け贄の動物を遠くから連れてくることがいかに大変なことか、それは容易に理解できます。しかし便利主義に流れることによって、彼らには何のために生け贄を献げなければならないのかを理解することができなくなっていたのではないでしょうか。その結果、神殿に行きさえすればよいのだ、という中途半端な信仰に陥っていったのでしょう。たいへんな労力を課されることは、自らを振り返り、悔い改めを求める神の恵みの業でもあったのではないでしょうか。商人たち、またそれを容認していた祭司たちは、表向き礼拝のために便宜を図っているような顔をして、心の中には貪欲な思いがどんどん大きくなっていたことでしょう。わたしたちも、教会に行きさえすれば良いのだ、と考えるようになるならば、この時代のイスラエルの人々と同じ過ちを繰り返すことになるのだということを覚えたいと思います。イザヤ書56章7節には、「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と記されています。イエス様はこれを引用して、神殿から商人たちを追い出し、その台やイスを蹴倒し、通路として神殿の境内を通ることも禁じられます。こうして神殿をもとの祈りの家に戻すための「改革」をなさったのです。

翌朝、あのイチジクの木は根元から枯れていました。「実を結ばない信仰」がどのような結果につながるかがはっきりと示されました。これを見て驚く弟子たちに、イエス様はこう言われます。「23はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。 24だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」本物の信仰は実を結ぶ信仰であり、それは山を動かす力さえある、神さまはそうすることがおできになる、それを疑いなく信じることなのです。

この2つのエピソードは、新しい世代から旧世代へのメッセージと言えるかも知れません。わたしたちの教会は、「御言葉によって常に改革され続ける主の教会」です。継承している信仰に誤りがあれば正していかなければなりません。わたしたちは戦争中に礼拝において宮城遙拝をしたことを告白し、悔い改めました。また古くは、宗教改革者たちが当時の教会のあり方に抗議(protest)してプロテスタント教会を建てました。いずれも、新しい世代からの軌道修正のメッセージだったと言えるでしょう。そしてそのメッセージを聞いて受け止めて自らの有り様を修正していくことはとても大切なことでした。民はその教えに「打たれた」にもかかわらず、祭司長たちや律法学者たちはイエス様の叱責を受け止めて悔い改めることが出来ませんでした。悔い改めることが出来なかった彼らは、イエス様をどのようにして殺そうかと策を弄する方向に進んでいくことになりました。神さまの御心を求めることとは正反対の行動でした。

しかし伝えていくということと振り返り吟味するということは、世代をまたがなければ起こらないことではありません。ここでは「世代から世代へ」というテーマを切り口に黙想したため、このようなこじつけのような話の展開になりましたが、この二つのことは、一人の信仰者の中で常に起こっている、あるいは起こらなければならないことなのではないでしょうか。大切なことは、この二つの方向性が螺旋のように回転しつつ、信仰が成長し前進し、次の世代へ伝えられるようにしていくことです。伝えられる信仰は、実を結ぶ信仰でなければなりません。そうでなければ、わたしたちは当時の祭司長たちや律法学者たちの過ちを繰り返すことになります。

わたしたちは常に自分の信仰が本物の、実を結ぶ信仰となっているか、常に吟味していかなければならないと思います。主イエス・キリストがわたしたちの罪の贖いの生け贄となってくださり、死んでよみがえり、天に昇られたこと、終わりの日に再び来られること、このことは自分自身のためだったのだということを確信し、それにふさわしい聖化の生活を送る、その思いが与えられ、それを覚えて生活しているならば、それは実を結ぶ信仰となっていると言って良いと思います。主を見上げて、この週も感謝しつつ生活していきましょう。

<祈り>
私たちの救い主イエス・キリストの父なる神さま
教会員が高齢化し、若い世代が少なくなっていく中で、わたしたちは信仰を次の世代へ伝えていくことを切実に願っています。主イエス・キリストを信じる信仰は真実であり、この方に依らずして救いに与ることはできないことを覚えます。コロナ禍の中で思うような伝道活動もできませんでしたが、昨年は教会コンサートを開催して人々を教会へと招くことができました。教会の宣教の業を祝福し、主の委託に応えて働き続けることができるように導いてください。
同時に、わたしたちが常に自分の信仰を吟味し、御言葉から力を得、証人として主の栄光を表わす務めを担うことができるように、お導きください。それを通して主のみ業が前進していくよう、わたしたちを用いてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン