聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第53回「しつような祈り」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇46編1~12節
新約聖書 ルカによる福音書 11章1〜13節

 

今朝は5節以下の主イエスが話された喩えから読み始めたいと思います。

5、6節
「あなたがたのうちのだれかに友達がいて」。わたしたちにも友達がいます。だったら「あなたは、真夜中にその友達のところに行って、自分が困っているから助けてくれと言いますか。」
わたしたちは夜遅くなったら、電話することを控えるでしょう。「親しき中にも礼儀あり」と申します。もう寝ている時間だと思えば電話はしません。訪ねて行って友達を起こすこともしないでしょう。
「友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達が突然訪ねてきて、何も出してやれない」。店は閉まっています。すきっ腹を抱えて訪ねてきた人になにか食べさせてあげたい。どこからパンを手に入れたらいいだろう。だからパン三つ貸してくれと友達に頼むのです。これは大人一食分という意味だそうです、それを貸してくれとあえて、友達に頼むのです。

7節
やはり、こういう答えが返ってきました。それはもう最初からわかっていたことでした。
だから、友達を訪ねて行って、寝ているところを起こして頼みごとをするなど最初からしないでおけばよかったのだ、出かけてゆくだけ無駄だったのだと思われるかもしれません。
でも、そうなれば、空腹な旅人は放っておかれることになります。一体どうすれば良いのでしょうか。

8節
「友達だからというのではなく、しつように頼めば」。この「しつように」と訳された言葉の意味を考えてみたいと思います。原語では「慎みを欠いて」とか「恥を持たないで」という意味だそうです。普通、悪い意味で使う言葉だと言われています。
常識に立って考えれば、ここは相手のことを考えて遠慮するケースなのに、遠慮しないで、あえて思い切って、揺るぎなく、一歩も引き下がらず、大胆に願う、そういう意味で、ここでは「しつように」ということが積極的な意味で言われているのだと思います。

友達であれば、先ほども申しましたように、親しき仲にも礼儀ありで、むしろ、自分が友達の立場に立って考えれば、友達だからこそ無理なお願いをすべきではない、お願いしてはいけないことだってあるでしょう。

でも、友達だからというのではない、この願いは何としても、どうしても実現させたい、自分のためではなくて、困っている他者を助けるための願いなので、なんとかしたい、してほしいという願いから「しつように」、大胆に、一歩も引き下がらず、揺るがずに願い続ける。そのとき、門が開かれ、求めているものが与えられ、必要なものが見出される。8節 !

だから、求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。門をたたきなさい、そうすれば開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる。
この御言葉はマタイによる福音書の山上の垂訓にもある有名なお言葉ですが、ここでは主の祈りと、今読んだ祈りについての喩えに続けて記されています。そして、続けて11節以下にこう書かれています。

ここまで読んできてわたしはハッとさせられました。深夜、寝静まった頃に、戸を叩いているのが、自分の子供だったらどうなるのかと思ったのです。
友達だから、お願いしたい、どうか頼みを聞いてほしい、多少、無理なお願いかもしれないけれど、そこを古くからの友達として助けてほしいと、友達が願っているのと、お父さん、助けてください、お願いですと自分の子供が願ってきているのとの違いです。

普通だったら、聞いてもらえないところを、友人としてひと肌もふた肌も脱いでくれて助けてくれる。それは実にありがたいことです。持つべきものは友です。
しかし、それにもまた限界がある。友達でも、そこまでは如何ともし難いという場合もあります。
友達でも残念だけれど、申し訳ないけれど助けてあげられないと言われて、引き下がらずにおれないような場合でも、引き下がらないで、しつように、大胆に願う、そのような祈りを祈りなさい。願いを訴えなさい、そうすれば祈りは聞かれ、願いは聞き届けられるだろうと主イエスは言われたのです。

そうであれば、真夜中に、もうベッドの入っている時間に、家の戸を叩いているのが、友達ではなく、自分の息子、娘だったら、そして、その子がしつように、一歩も退かずに、大胆に求めていたら、父親はその願いを聞いてやらないでしょうか。

みなさん、ここで、わたしたちが今抱いている願い、祈りのことを考えてみたいと思います。わたしたちの教会は牧師が退職を迎えなければならない年齢を迎えて、次の新しい牧師を祈り求めています。このような教会が牧師を求める祈りは、主の祈りの中の「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」という祈りと結びつきを持っています。わたしたちには肉体を養うパンが必要ですが、人はパンだけで生きる者ではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる、と言われていますように、わたしたちには霊の糧、御言葉の糧が必要です。その御言葉の糧を与える説教者を、わたしたちは「わたしたちに必要な糧を与えてください」と祈りながら、父なる神さまに祈り求めるのです。

その際、主イエスは、わたしたちに必要な糧を父なる神様に祈り求めるとき、それを「わたしたちのパン」と呼ぶようにお教えになりました。わたしのパンではありません。わたしたちのパンです。わたしたちが神さまに「父よ」と呼んで、祈り求めている「わたしたちのパン」というのは、父なる神の家の食卓につく子供達全員を等しく養うパンのことです。

わたしたちの福岡城南教会には御言葉の奉仕者である説教者、牧師が必要です。でも、わたしたちが祈り求めるのは、わたしたちの教会だけでなく、父なる神の子供達が等しく御言葉の糧の養いを受けられるように、すべての教会に御言葉の奉仕者が与えられることです。今度、ここに招かれる牧師が、ここに来るために、それまでいた教会を無牧師の状態にするようなことを、わたしたちは願いません。それは「わたしたちの糧」を父なる神さまに願い求める祈りに沿った願いではないからです。

でもこんなに牧師の数が不足している状況で、果たして、本当にわたしたちの祈りは聞き届けられるのでしょうか。こんな状況では難しい、諦めるほかない、そう思って祈り求めることをやめてしまいそうにならないでしょうか。

みなさん、主イエスが言われる言葉を、今日、わたしたちに向けられた言葉として聞きましょう。8節、9節。

父なる神さまが、わたしたちが父よと呼んで願い求める願いを聞いてくださらないことはないのです。わたしたちに御言葉の糧を与えてくださいと祈りましょう。そして、父なる神さまの与えてくださる聖霊によって、わたしたちがどんなときにも、諦めないで、しつように、大胆に父なる神さまのみ国と御心を願い求め続けるものとされますようにと祈りましょう。かくして、父なる神様の御名が崇められますように。

父と子と聖霊の御名によって