聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第52回「わたしたちのための祈り」
説  教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇17編1~15節
新約聖書 ルカによる福音書 11章1〜13節

*途中、3分ほど説教が中断します。

ルカによる福音書連続講解説教 第52回
ルカによる福音書11章1〜13節

先週に引き続いて、今日も主イエスに祈ることを教えてくださいと願った弟子のように、わたしたちも主イエスから祈りについての教えを受けたいと思います。

先週の説教で、先ほど読まれた11章13節の「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」という言葉から、わたしたちがこどもを持つ親として、自分の子供に与える良い物として、何を選ぶだろうかということを考えました。親が子供のために最善の物をと考えるとしたら、何を考えるか、立場を変えて、子供の側から親に与えて欲しいと望む良い物とは何だろうか、そう考えたとき、それは財産とか、教育であると思われるかもしれないけれども、先週の説教でわたしは、それは財産でも、教育の機会でもなくて、親が親としていてくれること、その存在そのものではないかということを申しました。

13節には、先ほど読んだ文章に続けて「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と書かれています。わたしたちの天の父である神さまが、子供であるわたしたちに与えてくださる良い物は「聖霊」であると言われています。その「聖霊」は、わたしたちに神さまに向かって、「アバ、父よ」と呼びかけさせる霊です。わたしたちに神さまの子たる身分を授ける霊です。つまり、神さまがわたしたちの父であってくださること、神さまがわたしたちの父として生きておられること、そして、わたしたちが神さまの子どもたちとして愛されることに優る良い物は他にないのです。

主イエスが教えてくださった祈りは、神さまに「父よ」と呼びかけます。そして、神さまがわたしたちの父であってくださいますようにとまっすぐに願うのが「御名が崇められますように」という祈りです。
そして、すべての人の造り主であられる神さまが、すべての人を父として愛し、守り、救い、すべての人をご自身のもとに集めて、平和を与えてくださいますようにと祈るのが「御国が来ますように」という祈りです。

ルカによる福音書が記している主の祈りには、最初に二つ、あとに三つ、合計五つの祈りがあります。最初の二つは、「御名」、「御国」とありますが原文では「あなたの名」「あなたの国」で、いずれも神さまに向かって、あなたの名が崇められ、あなたの国が来ますようにと祈られているのに対して、今日読もうとしている後の三つの祈りでは、いずれも「わたしたちの糧」、「わたしたちの罪」、「わたしたちの誘惑」とわたしたちについての祈りが祈られています。

新約聖書に書かれている主の祈りは二つあります。ここルカによる福音書と並んでマタイによる福音書の6章に記されていますが、マタイの方では主の祈りの導入の言葉として、次のように書かれています。

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。だからこう祈りなさい」(マタイ6:5)

今日読む、主の祈りの後半部で祈られる、わたしたちについての祈りと願いについて、主イエスはそれらのことがわたしたちに必要であることを、父なる神は、わたしたちが願う前にすでにご存知であられると言われたのです。

確かに、子供を持つわたしたち自身を顧みても、親として子供が何を必要としているかは、子供が願う前に知っているのではないでしょうか。子供にひもじい思いをさせないために、子供に十分に食べさせること、子供が病気になったり、危険にさらされることがないように子供たちを守らなければならないことを、親は知っています。

ですから、「わたしたちに必要な糧を毎日お与えください」、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」という願いは、父なる神さまご自身が、わたしたちの父として、こどもであるわたしたちを養おうと思われ、危険と誘惑から守ろうと思っておいでになるので、その思いのままになさってくださいと願う祈りだと言えます。

そう思って読むと、どうして「わたしたちの罪を赦してください」と祈るのか、罪の赦しをわたしたちが願い求める前から、それが必要であることを父なる神が知っておいでになるというのはどういうことなのかいう疑問が湧きます。
わたしたちの罪は、わたしたちを神のこどもであることをできなくさせます。わたしたちの罪は、あの放蕩息子のように父なる神の家から引き離すものだからです。わたしたちは、罪を赦していただかないならば、罪の赦しなしには、神さまのこどもであり続けることはできないのです。父なる神さまは、放蕩息子の父親が、放蕩息子の帰ってくることを願い、いなくなっていた息子が見つかり、死んでいたのが生き返ったことを喜んだように、わたしたちが神さまのこどもとして罪を赦されて、父なる神のもとに戻ってくること、再び子どもとして受け入れられることを望まれます。それゆえに、わたしたちの罪を赦すことを願われるのです。それが神さまの愛と憐れみの御心なのです。わたしたちにはその罪の赦しが必要であることは、だれよりも神さまがご存知なのです。

これまで、先週と今日と2回の説教で、主の祈りについて学んできましたが、ここで少し角度を変えてお話ししたいと思います。

1節に、主イエスの弟子の一人が、主イエスに祈りを教えてくださいと願ったとありますが、ある聖書では「祈るすべを」教えてくださいと訳されていました。つまり、ここでは祈りの文言ではなくて、祈ることについての教えが求められていると受け取っているということです。
考えてみれば、祈ることを知らない人はいないと言っていいくらい、人々はそれぞれの仕方で、様々な形で祈りを捧げています。神社仏閣に詣でる人々はそれぞれに願い事を祈っています。地震災害が起これば、犠牲者を覚えて黙祷が捧げられます。人はそれゆえ祈りを知っています。でも、それぞれに祈ってはいますが、祈る人々は本当に祈るとはどういうことなのか知って祈っているのでしょうか。

皆さんにも似たような経験があるかも知れませんが、わたしは先週、ある経験をしました。八女を訪ねて、そこにある日本基督教団の教会の牧師に挨拶に行った時のことです。面識のない牧師さんとお会いして挨拶をして色々話しているうちに、かなり年配のその先生が東京神学大学の卒業生と伺ったので、同じ東京神学大学の卒業生であるわたしの兄のことをご存知でしょうかと聞いたら、びっくりなさってよく知っていると言われ、わたしがその弟とわかると、話がいっぺんに広がり、深まって行きました。その経験に結びつけて思い起こしたのが、注解書で読んだ、主の祈りについての次のような言葉でした。

「名前がはじめて、神をわれわれにとって本当の神とならしめる。名前がわかることによって、それまで秘密に満ちた未知の存在だったものが、われわれを助ける存在となり、われわれに要求する存在になり、われわれの人生にとって意味ある存在になる。同じことが、相手が誰であるか知らないまま会話をしてきた、その会話の相手が誰であるかをわれわれが知る場合に起こる。」

それまで、海に向かって、山に向かって、一体どのようなお方に向かって祈っているのか、よくわからないままに祈りを捧げていた人々が、祈っている相手の名は「父」なのだ、そのお方の名は「あなたの父、あなたの造り主、全世界の造り主」なのだとわかった瞬間、神さまとの間の対話としての祈りが変わるのです。

そのような祈りは一人だけで祈られるものではないと思います。主イエスは戸を閉じて隠れて一人きりで祈りなさいと言われました。ですから、一人だけで祈ることはあるようにも思われます。しかし、一人で祈るときにも、主イエスはその人と共に祈っておられます。共に祈られる主イエスがおられる以上、祈る人は一人きりではありません。

その意味で、祈りは合唱に似ているように思います。もし祈りが一人きりなら、それは独唱者のようです。でも、祈りには必ず、最低でも一人、一緒に祈る主イエスがおられるので、独唱のような祈りはあり得ません。
合唱でもオーケストラでも、最初に音合わせがあります。その音に合わせて合唱のハーモニーが生まれ、オーケストラの重層な響きが生まれてきます。主イエスの祈り、それは最初の音です。その主イエスの音出しの音に合わせるようにして、様々な声の祈りがそこに加わるのです。合唱で、自分が声を出して歌うだけでなく、互いの声に耳を傾けることが必要なように、わたしたちが祈るときにも、まず、主イエスの祈りに耳を傾けて聞き、さらに他の人々の祈りの声に耳を傾けることによって、初めてそこに美しいハーモニーが生まれます。

オーケストラに様々な音の違った楽器があるように、主イエスの祈りも、違った言語で祈られています。たった一つの形式、言語、訳で祈られてはいません。そもそも、マタイとルカでも主の祈りの言葉は一つではありません。様々な、違った言語で、ことば使いも、表現も、長さも違いながら、それが主イエスの音に合わせて、重ねられて祈りが捧げられています。それが主イエスに教えられた祈りを祈るということなのです。

以上のことを踏まえながら、最後にもう一度、主の祈りの後半部に戻りたいと思います。今日はその中の、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」だけを取り上げます。

わたしたちは朝に夕に食卓につくとき、父なる神様が日毎の糧を与えてくださったことを感謝します。以前にもお話ししたので覚えておられる方もあるかもしれませんが、わたしがガーナに行き、ある家庭で一晩泊めていただいた翌朝、朝食の前に祈られた祈りを今も忘れることができません。その朝、お皿の上にはビスケットが一枚のせられていました。その朝食への感謝を祈るとともに、その家の方は、食料にこと欠く人たちのお皿の上に今日、何かをお与えくださいと祈られました。

ルカによる福音書12章に主イエスが語られた「愚かな農夫」の喩えが記されています。その農夫は豊作で、収穫を収納する大きな倉を建ててこう言います。「さあ、これから先何年も生きてゆくだけの蓄えができた。安心して、食べ、飲め」。すると神さまは「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」と告げられたのでした。

わたしたちが明日の食糧として何かを蓄え、準備したとしても、神さまがそれを与えてくださるのでなければ、それはわたしたちを養う糧とはなり得ません。

「わたしたち」の糧と言いますが、それはわたしたちのものだと果たして言えるのでしょうか。食卓についている父親は、子供達には何も食べさせないで自分だけが食べるようなことは決してしません。食卓の糧は家族である「わたしたち」みんなの糧だからです。それならば、わたしたちにとって共に食卓を囲む家族である「わたしたち」とはだれのことなのでしょうか。わたしたちとは、閉ざされた自分の家族、自分の民族だけでなく、難民となっている人たち、飢饉で食べるものもない人たち、それらすべての人々を含む人々が、父なる神によって一つとされている「わたしたち」の家族であるならば、その人たちが「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」と祈っている声に耳を傾けずに、この祈りを祈ることはできないのです。

これまでどう祈ったらよいかわからなかった人々に、主イエスは祈りを教えてくださいました。そこに美しいハーモニーが生まれます。わたしたちひとりひとりの祈りも、ハーモニーを生み出すための一つ声です。どうか、主イエスの祈りに導かれて、父なる神を呼ぶ祈りの輪の中に、一人一人が、また全ての人が加えられますように。

父と子と聖霊の御名によって