聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第49回「愛されることと愛すること」
説教  澤 正幸 牧師
使徒書簡 ヨハネの手紙(一)4章19~21節
新約聖書 ルカによる福音書 10章25〜37節

 

2024年1月21日 ルカによる福音書連続講解説教 第49回
ルカによる福音書10章25〜37節

「善いサマリア人」についての説教は教会で繰り返し語られる説教です。皆さんも、これまでに何度となく「善いサマリア人」についての説教を聞く機会がおありだったでしょう。宗教改革者マルチン・ルターは「善いサマリア人」の箇所を10回説教したそうです。先々週の日曜日に、ルカによる福音書連続講解説教のなかで一度この箇所で説教をしましたが、今日もう一度、同じ箇所による説教をしようと思いました。その理由は、この箇所には一回の説教では語りつくせないほど豊かな内容があるからです。たとえば、先週読んだ「マルタとマリア」についての有名な箇所と、その直前に書かれている「善いサマリア人」の喩えが深くつながっていることは、今回「マルタとマリア」の箇所を読むまでは気づきませんでした。

そういう訳で今日、改めて「善いサマリア人」の箇所を説教しますが、今日の説教は先々週の説教の続きとしてではなく、皆さんにはまったく新しい説教を聞くつもりで聞いていただきたいと思います。

27節に書かれている「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」という二つの戒めは、主イエスご自身、律法の中で最も重要な掟であると言われたものです。主イエスは旧約聖書の律法と預言者は、この二つの掟に基づいていると言われました。(マタイ22:40)

主イエスは律法の専門家から永遠の命について質問されたとき、その質問に「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読むか」と問い返されました。27節の答えは主イエスからの問いに対する律法の専門家の答えでした。でも、律法の専門家は主イエスからの質問にまだ半分しか答えていません。27節の二つの戒めは、主イエスの質問の第一の質問に対する答えでした。律法にはなんと書かれているか。それに対する答えは主イエスからその通りだと言われる正しい答えでした。しかし、問題は第二の質問に対する答えの方だったのです。「あなたはそれをどう読んでいるか。」

使徒言行録の8章にエチオピアの宦官の話が出てきます。その人はエルサレムからエチオピアに帰って行く道すがら、乗っていた馬車の中で預言者イザヤの書を読んでいました。しかし、その人はそこに書かれていることが分かりませんでした。フィリポが彼に近づき「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねると、その人は答えます。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう。」(使徒8:30)

「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう。」聖書を読むとき、これはわたしたちすべてに当てはまることだと言えます。礼拝で牧師がこうして聖書の解き明かしをするのは、フィリポがエチオピアの宦官に聖書の手引きをしたように、会衆を手引きするためです。しかし、講壇に立って聖書の解き明かしをする牧師もまた、聖霊によって心を照らされ、聖霊によって手引きされるのでなければ、聖書を悟り、理解することはできないのです。

律法の専門家も同じでした。彼は永遠の命について聖書に何が書かれているか、それは知っていました。しかし、聖書に書かれていることを、どう読むべきかについては手引きが必要だったのです。主イエスがお語りになった「善いサマリア人」の喩えは、聖書に書かれている最も重要な二つの戒めをどう読むべきかについての手引きでした。

律法の専門家が聖書に書かれていることを、どう読むべきか、どう解釈したらよいか分からなかったのは「隣人を自分のように愛しなさい」とある、「隣人」とはだれを指すのかということでした。彼はそこで主イエスに「わたしの隣人とはだれですか」と問いました。「自分を正当化する」ために問うたと書かれていますが、動機が何であれ、彼は自分が愛すべき隣人の範囲がどこまでかが分からなかったので、主イエスに教えを乞うたのでした。

主イエスは彼の問いを受けとめてくださいました。そしてお語りになったのが「善いサマリア人」の話です。単純な、分かりやすい話です。追い剥ぎに襲われ、半殺しになった人が行き倒れになっている道を、三人の人が通りかかりました。最初の二人はユダヤ人、しかも、神殿で神に仕える祭司とレビ人でした。最後の人はサマリア人で、ユダヤ人から蔑まれ、敵対視されていた人でした。半殺しになっていたユダヤ人を助けたのは同胞のユダヤ人ではなく、異邦人のサマリア人でした。

律法の専門家が出した質問は「だれが、わたしの隣人ですか」という質問であったのですから、主イエスが「善いサマリア人」の話をされた後、律法の専門家に問われるべきなのは、この祭司、レビ人、サマリア人にとっての隣人はだれですかという問いではなかったでしょうか。もしそう問われたら、律法の専門家は、三人にとっての隣人は強盗に襲われた人ですと答えたでしょう。しかし、主イエスの質問はそうはなっていません。「だれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」でした。

「わたしの隣人はだれか」。それはわたしが助けるべき人はだれかという問いです。そこでは隣人とは、わたしが助けるべき「対象」のことです。
それに対して、「善いサマリア人」の話を通して主イエスが問われる、「だれが強盗に襲われた人の隣人になったか」では、隣人とは、助けを求めている人に手を差し伸べる人のことです。そこでは隣人は他者を助ける「主体」のことです。

律法の専門家の質問と、主イエスが律法の専門家に投げ返した質問は互いにすれ違っているのでしょうか。噛み合っていない話なのでしょうか。このたとえ話に登場する善いサマリア人を教会は古代から主イエスに重ねて読んできました。
傷ついた人を憐れに思い、近寄り、傷の手当てをし、自分のロバに乗せて宿屋に運び、夜通し寝ずの介抱をし、宿の主人に介抱を頼んで、帰りにまた寄ると言ったサマリア人の姿は、わたしたちを愛し、わたしたちに近寄り、わたしたちの隣人となってくださった主イエスの姿を思わせます。

そのように読めば、助けを必要としている「隣人」の一人はわたしです。助けられるべき対象としての隣人にわたしも、律法の専門家も同じように入っていると言えます。
そして、主イエスから助けを受けたものとして、主イエスがわたしの隣人となってくださったように、わたしも助けを必要としている人の隣人となるべきなのです。隣人となって他者を助けるべきなのは、わたしであり、律法の専門家もそうだということになります。

そういたしますと、改めて律法の専門家が問うた「わたしの隣人とはだれか」という、隣人の範囲についての問いはどうなるでしょうか。善いサマリア人である主イエスがその隣人となってくださらない人はこの世界に一人もいないでしょう。そうなれば、愛されるべき対象としての隣人ではない人は一人もいないことになります。民族の違いを超えて、宗教の違いを超えて、国境を超えて、すべての人がわたしたちにとって自分のように愛すべき隣人だということになります。

しかし、現実の世界に目を移せば、今日も罪のない人々の血が戦争によって流されています。過去を振り返っても、おびただしい人の命が奪われてきたのが人類の歴史です。
聖書に書かれている二つの戒めが最も重要であるということは、ガザを攻撃している現在のイスラエルにおいても認められているはずです。イスラム教徒もそれを認めているかもしれません。少なくとも、この二つの戒めが最も重要であることをだれよりも世々のキリスト教会が認めてきたはずなのです。しかし、現実には、神を愛すると言いつつ、罪もない小さな命を奪う、悲惨な殺し合いがキリスト教国と言われる国々によっても行われてきました。そこでは、二つの戒めが聖書に書かれていることは知られていても、それをどう読むかという点に決定的な問題があったのだと思います。そして、今も、それがわたしたちの課題であり続けているのだと思います。

わたしたちには手引きが必要なのです。手引きは主イエスです。良きサマリア人の喩えは、わたしたちの隣人となられる主イエスを教えています。わたしたちは主イエスによって愛された隣人たちであるということです。

わたしたちは主イエスの愛を必要としている者たちであり、そのわたしたちを主イエスが愛してくださっているということ、わたしたちは愛されているということを、わたしたちはどれだけ自覚しているでしょうか。
クリスチャンも「受けるよりも与える方が幸いだ」という言葉を大事にして、自分は人に助けられるよりも、人を助ける者でありたい、助けられるよりも助けることの方が尊く、すぐれており、願わしいと思いがちです。援助を与えることを高く評価し、援助を受けることを恥ずかしく思いがちです。

しかし、本当にそうでしょうか。愛されることと愛すること、どちらがより重要でしょうか。自らが愛する前に、愛されることの重要さをわたしたちは忘れてはならないと思います。わたしたちが神さまを愛するのは、愛されているからなのです。神がまずわたしたちを愛してくださったから、わたしたちも神を愛するようにしていただいたのです。わたしたちが隣人を愛するのも同じです。わたしたちが隣人から愛されているからなのです。主イエスこそわたしの隣人となってくださった方です。そして、主イエスのわたしたちへの愛は主イエスを通してだけではなく、また主にある親しい交わりの中にある兄弟姉妹、それゆえ、わたしたちもまた愛している兄弟姉妹だけでなく、まったく思いがけない人たち、わたしたちが愛していない、わたしたちが知らない、わたしたちがまったく想像しなかった人たちからわたしたちが受ける愛を通しても、主イエスの愛が伝えられています。

善いサマリア人の話はもうわかったとは言えない話だと思います。わたしたちが隣人を愛するのは、わたしたちが思いもしなかったサマリア人のような立場の人が、わたしたちの隣人となってわたしたちを愛してくれるからなのです。そのような思いがけない人がわたしたちの隣人となってくださり、その人たちからわたしたちが愛されていること、そして、その隣人愛を受けて、わたしたちも、まったくわたしたちがその人の隣人になることを期待されていない、お互いに以前は敵同士であったような人たちの隣人になってゆくのです。

父と子と聖霊の御名によって