聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第48回「ただ一つ必要なこと」
説教  澤 正幸 牧師
使徒書簡 ヨハネの手紙(一)4章19~21節
新約聖書 ルカによる福音書 10章38〜42節

 

 

2024年1月14日 ルカによる福音書連続講解説教 第48回
ルカによる福音書10章38〜42節

38節
主イエスはある村でマルタという女性の家に迎え入れられます。主イエスは弟子たちを伝道旅行に派遣されるにあたって、弟子たちに財布も袋も何も持たずに行って、だれか自分たちを迎え入れてくれる家を見つけて、その家に泊まり、そこで出される物を食べ、また飲むようにと言われましたが(10:4〜7)、主イエスご自身がエルサレムを目指して旅をしながら、宣教活動を続けておられた、このときもそれは同じでした。
この村で、主イエスの宣べ伝える神の国の福音を受け入れ、主イエスとその一行を家に迎え入れて、主イエスの福音宣教に協力する家として、主イエスはマルタの家を見出されたのです。
39節
今申しましたように、主イエスが村に入り、マルタの家に滞在するようになったのは、そこに泊めてもらうこと、そこで食事を提供されることが目的であったのではなくて、マルタの家で世話を受けながら、そこで神の言葉を語ることが第一の目的でした。その意味では、マリアが主イエスの足元で主イエスの話に耳を傾けたことは、主イエスの目的と願いにそうことでした。
40節
「いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いていた」と書かれていますが、「もてなし」と訳されている言葉はギリシャ語ではディアコニアと申します。給仕とも訳されますが、要するに食事を提供する仕事を指します。マルタは主イエスとその一行のために食事の準備をしようとしていました。食事を準備するとき、人数が何人かがおそらく一番重要な要素でしょう。この日にマルタが準備しなければならない食事は何人分だったのでしょうか。ある註解書は百人近い人数だった!と書いていました。
「せわしく立ち働いていた」というところを別の聖書は「忙殺されていた」と訳していますが、ここで用いられている原語の語源は「引っ張る」という意味だそうです。食事をめぐる様々なことで、文字通りマルタはあのこと、このことに心が引っ張られて、引きちぎれそうな状態だったのでしょう。
マルタは明らかに手が足らなかったので、マリアに手伝ってもらわなければ、とうていおもてなしを準備できなかったのだと思います。
41節
思い悩むというのは、主イエスが山上の説教で言われた「何を食べようか、何を飲もうかと、食べるもののことで思い悩むな。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」と言われたときの、あの思い悩むというのと同じ言葉です。心を乱しているという言葉は、会堂司ヤイロの娘が死んだとき、人々が泣き叫んだりして、騒いでいたというときの騒ぐというのと同じ言葉です。マルタに対する主イエスのお言葉はとてもストレートな表現で、「あなたは食事の準備、もてなしのことで心配し、騒いでいる」というのです。
42節
マルタが主イエスと弟子たちのために忙殺されていた食事の準備、それが必要であることはだれも否定できないと思います。しかし、主イエスは必要なことはただ一つだけだと言われます。それをマリアは選んだと言われました。彼女はこのとき、台所がどれほど大変な状態かはきっとわかっていただろうと思います。それでもあえて、接待のために台所に行こうとはしないで、主イエスの足元に座ってみ言葉を聞き、主イエスに耳を傾けることの方を選んだのです。

当時のユダヤ人社会では、律法学者の足元に座って聖書を学ぶことは基本的に女性には許されていませんでした。稀にそれが許される女性がいたとしても、それはあくまで例外としてでした。一般的に女性は律法学者から教えを受ける資格を与えられず、律法学者の弟子には数えられない存在だったのです。
女性は台所にいて食事の世話をすることを周期から期待され、要求される社会でした。その中でマリアはあえて食事の世話ではなくて、主イエスの足元で、主イエスの弟子となって主イエスに学び、その教えを聞きたいと願ったのです。これは彼女の決断的行為であり、選択でした。そして、そのような彼女の選択は主イエスの願われるところであり、喜びでもありました。主イエスはマリアの選択は良い方を選んだのだと言われます。

良い方とは何と比べて良いかと言えば、ディアコニア=食事のための奉仕の行いと比べたときに、それよりも主イエスの足元に座ってみ言葉に聞くことの方が良いという意味です。

先週、わたしたちは善いサマリア人の譬えを学びました。そこでの中心的問いは、神への愛と隣人への愛の関係でした。果たして、その二つが両立するかどうかということでした。神を愛すると言いながらも、隣人愛をなおざりにした、隣人への愛を伴わない神への愛は、真の神への愛ではないということを教えられました。
そういたしますと、主イエスはここで、ディアコニア=接待という隣人愛よりも、主イエスのみ言葉に聞くことを優先させなさいと言われたということになるのでしょうか。善いサマリア人の話で言われていたことと、反対のことが言われているのでしょうか。もし、このときマリアだけでなくマルタまでもが台所の仕事を放棄して、主イエスの足元に座ってしまったら、夕食は一体だれが準備するのでしょうか。
この問いは今に至るまでずっと教会の中で問題とされ続けてきたことだと思います。主イエスの真意はどこにあるのでしょうか。

「主イエスの足元」。そこに座るとはどういうことかをもう一度考えて見たいと思います。主イエスの足元という言葉から思い浮かぶことがあります。それは主イエスが主イエスの足元に座る弟子たちの足を洗われたということです。主イエスの足元に座るということは、主イエスによって自分の足を洗っていただくことにほかなりません。そして、主であるお方が足を洗われたゆえに、その模範に倣って、互いに足を洗い合うことが、主イエスの足元に座ってみ言葉に聞くということの意味だと思います。

「それを取り上げてはならない」という文章は原文では受け身形で書かれていて、直訳しますと「彼女からそれが取り上げられることはないだろう」となります。聖書では意図的に受け身形で書かれることがよくありますが、それは神さまを主語にすることを避けるためにそうするのです。ここでも受け身形、受動態の文章を能動態にすれば、「神さまはそれを彼女から取り上げることはなさらない」ということになります。

神さまはマリアのために良い方を選んで与えてくださったのです。それをマリアが選ぶとき、神さまはそれが誰によっても、何物によっても彼女から取り上げられないようにしてくださいます。神さまがマリアのために選んでくださった良いものとは何でしょうか。神さまが彼女の名を天に記してくださったことです。その名を命の書に記し、彼女に永遠の命をお与えくださいました。その命とは、神さまを愛し、隣人を愛する命です。

主イエスの足元に座り、主イエスの御言葉に聞き続けるところにこそ、隣人を真に愛することが生まれます。そして、そのような偽りのない隣人愛を与えてくださる神さまをわたしたちは改めて愛し、心から喜び、神さまがお遣わしになったイエス・キリストに聞き従って行こうとするのです。

父と子と聖霊の御名によって