聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第50回「聞きたかったこと、見たかったこと」
説教  澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇16編1~11節
新約聖書 ルカによる福音書 10章38〜42節

 

 

ルカによる福音書連続講解説教 第50回
ルカによる福音書10章38〜42節

マルタとマリアについての説教は、これまでに皆さんが何度となく聞いてこられた説教ではないかと思います。実際、この箇所は先々週、ルカによる福音書の連続講解説教において取り上げたばかりです。それでも、今朝、もう一度この箇所を取り上げようと思った理由は、わたしたちが今開いている聖書のはじめのところ、すなわち10章17節から、今日読んでいる10章の終わり42節までを通して読んできて、ここに通奏低音のように一貫して響いているテーマがあることに気づかされたからです。今日はそれを皆さんと聞き取りたいと思っています。

ここに一貫しているテーマというのは何かと言えば、それは喜びであると思います。17節はこう始まっていました。「72人は喜んで帰って来て、こう言った。」主イエスによって伝道旅行に派遣された72人の弟子たちが帰って来たとき、彼らは喜んでこう言いました。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」それに対して主イエスはこう言われたのでした。「悪霊があなたがたに服従するからと言って、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

そう言われた主イエスご自身が続けて21節で喜びにあふれてこう言われたと書かれています。「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。』」
主イエスのうちにあふれていた聖霊による喜びとは、だれのゆえに、だれのことを喜ぶ喜びだったのでしょうか。ここで「幼子のような者たち」と呼ばれているのは、だれのことかといえば、それは他でもない、弟子たちのことでした。弟子たちは主イエスから自分の名が天に記されていることを喜びなさいと言われていますが、それは本来、弟子たちにとっての喜びであるはずなのに、それをだれよりも喜んでおられたのは主イエスでした。

そして主イエスは23節、24節で弟子たちを振り返りながらこう言われます。「あなたがたが見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

思い起こされるのは、ヨハネ福音書の8章56節に主イエスがアブラハムについて語られた次のようなお言葉です。「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」モーセをはじめとする多くの預言者たち、エリヤ、イザヤ、エレミヤたち、そしてダビデやソロモンといった王たちは、弟子たちが今、聞きていることを聞くことを望み、見ていることを見ることを楽しみにしていたゆえに、彼らは今のあなたがたのことを喜んでいると言われるのです。

では、預言者や王たちが見たいと願い、聞きたいと願っていたことで、弟子たちが今、目にしていること、弟子たちが今、聞いていることとは何でしょうか。

弟子たちの名が天に記されていることを主イエスから喜びなさいと言われた、その喜びを弟子たちが喜んでいる姿こそ、多くの預言者や王たちが見たかったことであり、弟子たちが喜んでいる姿を見ることは彼らの喜びに他なりません。

旧約の預言者や王たちが待望していたのは、天地の主である父よ、と主イエスがここで呼びかけている、主なる神がお遣わしくださる救い主メシアでした。彼らが見たかったのに見ることができなかったのが救い主の到来であり、聞きたかったのに聞けなかったのはメシアの語られる言葉でした。

しかし、旧約の預言者や王たちが待望していたメシアが神から世に遣わされたとき、そのお姿は一体どのような姿だったでしょうか。その語られた言葉は、一体どのようなお言葉だったでしょうか。人々が期待していたような姿で現れ、予想していた通りの言葉を語られたのでしょうか。

そうではありませんでした。それを主イエスの21節以下の言葉が示しています。

天地の主であられる神は、救い主として御子をこの世に遣わされました。そのお方は人間の姿で来られたのです。主イエスは神から送られた神の御子でした。でも、主イエスは人間でした。主イエスは百パーセント人間なのです。人間らしい人間、正真正銘の人間なのです。それも幼子のような、小さい人でした。神の子なら、神々しくて、恐れ多くて人が近づけないような存在であったとしてもおかしくはないでしょう。しかし、主イエスは神の子でありながら、栄光に輝く姿をしていないばかりか、人間の中でも知恵ある者、賢い者、偉大なものでなく、かえって、一人前の存在として数えられない幼子のような存在でした。無視され、軽んじられ、人々から遠ざけられる存在、要するに小さい人でした。神の子は小さい人の一人だったのです。
それが父なる神の御心でした。「そうです。父よ、これは御心に適うことでした」と主イエスは言われます。神は、主イエスというお方、小さい人の中の一人となられた主イエスによって、小さい人たちが神の子として受け入れられていること、愛されていることを示し、ご自身がこれらの小さい者たちを守る父であられることを、明らかにされたのです。

それが、主イエスが聖霊に満たされて、父なる神に賛美をささげている理由です。小さな人々、そのような人たちを神は、その小さい人たちの父として、限りなく愛してくださっているということ、それこそが小さい者たちにとっての喜びであり、主イエスの喜びであり、それこそが、預言者や王たちが見たかったこと、聞きたかったことでした。

小さな者たちであるわたしたちは、天地の主である父から、ご自身のこどもたちとして愛され、受け入れられ、守られているのです。それが、わたしたちの名が天に記されていることの喜びであり、それより大きな喜び、それに優る喜びはないのです。

わたしたちは天の命の書にその名を記していただいたものとして、永遠の命を受け継ぐでしょう。永遠の命とは、律法の専門家が言うように、神さまを愛し、隣人を愛するという戒めを守ることですが、わたしたちにとってそれは難しいことではなくなっています。なぜなら、小さな、数に入らないような者たちでありながら、神さまから命の書にわたしたちの名を記していただいている以上、わたしたちは、神さまのこどもたちとして父なる神さまを愛さずにおれないからです。わたしたちは喜んで、心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、全身全霊を尽くして父なる神さまを愛するでしょう。

また、わたしたちにとって隣人を愛するのは、わたしたちの父なる神がそれらの人々を愛されるからであり、隣人を愛することが神を愛することだからです。天の父が愛される人々、わたしたちの隣人とはだれでしょうか。それは小さな人たちのことです。神から愛されるにふさわしくないとして、数に数えられなかった人たちとは、当時罪人と呼ばれていた、徴税人、遊女、外国人たちでした。しかし、父なる神はそれらの数に数えられない小さな者たちを愛されます。その小さな者たちを愛される父なる神を愛することは、神から愛されているそれらの人々を愛することなのです。

そこには大きな喜びがあります。縁もゆかりもないと思っていたサマリア人が隣人になってくれたあの傷ついた人の驚きと喜びです。わたしたちにとって、遠くの人たちが、わたしたちの隣人となってくださり、わたしたちを愛してくれることほど、驚きに満ちた喜びはないと思います。

主イエスの足もとに座って、このような福音が主イエスの口から語れるのを聞くことは、何という幸いでしょうか。わたしたちの聞いていることを聞く耳、わたしたちの見ていることを見る目は、誠に幸いだと思います。

このように、10章17節からの一連の流れの中で読み進む中で、改めてマルタとマリアの話を読むと、ここではそれまで一貫して響いていた喜びの調べが中断させられている感じを受けます。マルタが主イエスとその一行のための食事の世話に忙殺されるあまり、主イエスに食ってかかるようにして、マリアに何をすべきか主イエスは彼女に命じるべきだと言ったとき、マルタは主イエスに命令していたのでした!そんなマルタに喜びがあったでしょうか。また、教会が、マルタがマリアを非難し、批判するといった、そのような非難や批判の声が飛び交うようなところであったら、そんな教会を見て、世の人々は教会を喜べるでしょうか。

しかし、わたしたちが主イエスの喜ばれることをわたしたちの喜びとするなら、教会には喜びが満ちます。主イエスの御言葉に聞くところには大きな喜びが泉となって湧き上がります。もし、教会において御言葉が聞かれなくなったらたちまちにして喜びは失われるでしょう。教会からも、この世界からも喜びが消えてしまうでしょう。みなさん、省みて、果たしてわたしたちひとりひとりの中に本当の喜びがあるでしょうか。わたしたちを見る人たちは、わたしたちを見て喜ぶでしょうか。神さまはこの世のすべての人々が教会を見て喜ぶようになるために教会を集めておられるのです。

わたしたちの喜びは、自分が信仰深いクリスチャンであることにあるのではありません。自分が主に用いられて、よく主と人々に奉仕できることが喜びなのでもありません。

わたしたちが小さな者として父なる神に愛されていることが、すべてに優ってわたしたちの喜びなのです。さらに、神さまから愛されているのがわたしだけではないこと、すべての人がわたしと等しく神さまに愛されていることが、わたしたちの喜びなのです。

あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい。そうです。あなたの名とは言われていません。あなたとともに、あなたと同じ小さな人たちが、空の星のように、海の砂のように数えきれないほど多く、その名を天に記されていることを喜びましょう。

父と子と聖霊の御名によって