聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第40回「エルサレムで遂げる最期」
説教  澤 正幸 牧師
旧約聖書 出エジプト記40章34~38節
新約聖書 ルカによる福音書 9章28〜36節

 

2023年10月29日 ルカによる福音書連続講解説教 第40回
「エルサレムで遂げる最期」 ルカによる福音書9章28〜36節

28節
「この話をしてから8日ほどたったとき」と書き出されています。
主イエスが三人の弟子だけを連れて、祈るために高い山に登られたとき、主イエスの姿が変わり、栄光に光り輝いたという、「山上の変貌」と呼ばれる出来事を、福音書記者ルカは、それが「この話をしてから8日ほどたったとき」の出来事であると、先週読みました21節以下の記事と結びつけて書いています。
「この話をしてから」というのは、原語を直訳しますと、「これらの言葉の後で」となります。そして「これらの言葉」とは、まず22節の、主イエスが人の子として、多くの苦しみを受け、指導者たちに捨てられ、ついには殺されるに至ること言うことを指しています。それは、神のお遣わしになるメシアのたどる道としては、聴く人が耳を疑うような信じ難い言葉でした。さらにそれに続く23節の、主イエスをメシアであると告白して、主イエスの後に従う者が、日々自分を捨て、自分の十字架を負って主に従うという、主イエスのたどるのと同じ運命にあると言う言葉を指しています。

これらの驚くべき、信じがたい言葉が主イエスの口から語られてから、また、それを弟子たちが聞いてから8日が経った、そのときに、今日読んでいる「山上の変貌」という出来事が起こったというのです。

「8日ほど経って」。わたしたちは、こうして週ごとに、そうです8日目ごとに集まって礼拝を守っています。その礼拝の中心は、そこで神の言葉が語られ、神の言葉が聞かれることであると思っています。しかし、神の言葉が語られても、語られた言葉を理解できない場合、受け入れることができない場合があったのでした。弟子たちが主イエスから、メシアは苦しみを受けて、排斥されて、十字架につけられて殺されると言う言葉を初めて聞かされたときがそうでした。彼らはみ言葉を聞きましたが、聞いたみ言葉を理解することができなかったのです。

しかし、そのように、聞いたみ言葉が直ちに理解できかった弟子たちが、8日後に起こったある出来事を通して、8日前にはどう受け入れたらよいかわからないような言葉に、別の角度から光が当てられることによって、そこに変化が生じて、御言葉ができるようになる道が開けそうになったのでした。それは弟子たちの方の理解力が増した結果、み言葉が理解できるようになるというのではなくて、神さまが起こされる出来事を通して、それまではっきりとわからなかった言葉の意味が明らかにされると言う仕方で、弟子たちがみ言葉を悟るに至ると言うことです。
先に語られたみ言葉に、新しい光を照らすことになった出来事とは何だったかが、29〜31節に書かれています。

このときの主イエスの様子は、旧約聖書の出エジプト記34章にモーセが主なる神と顔と顔を合わせて語り合っている間に、その顔が光り輝いたとときに似ています。神に祈っておられた主イエスの顔の様子が変わり、服が真っ白に輝いたと言うのは、ちょうどモーセの顔が神の栄光に輝きを反射して輝いたように、主イエスも神からの栄光を受けて、全身が栄光に包まれる様を示しています。主イエスと同じように栄光に包まれてモーセとエリヤが現れて、三人が栄光の中で主イエスがエルサレムで遂げる最期について語り合っていたとあります。
この出来事をマタイとマルコの福音書が記していますが、そこには三人が語り合いっていたと書かれているだけで、語り合った内容が、主イエスがエルサレムで遂げる最期についてであったと記しているのはルカだけです。
「エルサレムで遂げる最期」の、この最期という言葉は、旅立ちとも訳される言葉で、死を意味します。ということは、この時の情景は何を意味していたのでしょうか。
それは、22節で語られた主イエスのメシアとしての死、長老、祭司長、律法学者から排斥されて、十字架につけられて殺される死が、恥と悲惨さに終わる死ではないということ、それが「三日目に復活することになっている」と言われる通り、復活の栄光に導かれる最期、旅立ちでとしての死であることが、ここに示されていると言えるでしょう。

続いて、ルカの記述の視点は、栄光に包まれた三人から、その情景を見たペトロたちに移ります。それを見た弟子たちの反応がどうだったかが、32〜33節に書かれています。

三人の弟子はそれをどう受け止めたのでしょうか。
この出来事が起こったのは夜だったようです。ユダヤでは日中は暑くて登山はできず、夕方か夜、涼しくなってから山に登るそうです。ペトロたちが眠気に襲われたのは登山の疲れからだったかもしれません。でもここでの眠りにはもっと深い意味がありそうです。
冬山で遭難する人は、眠りに落ちて死んでゆくといいます。人は耐えきれないほどの苦痛や悲しみに遭遇させられると、気を失うか、眠ってしまいます。
弟子たちにひどい眠気が襲った場面が、最後の夜、主イエスがゲッセマネの園で、汗が血を滴らせるように落ちる中、悶え苦しみながら祈っていたそばで、ペトロたちが眠ってしまったとき、何度起こされても、また眠ってしまったときにありました。それは、ルカによれば、悲しみの果てに眠り込んだと言われていますが、弟子たちがあまりの悲しみに耐えられなかったからでした。
山上の変貌の際にペトロたちが眠りに落ちそうになったのも、ゲッセマネの園、彼らが悲しみに耐えきれなかったのとは少し違うかもしれませんが、このとき、そこで起こっていることを受け止めることが、彼らの意識を超えるような、限界状況だったために、ちょうど麻酔で朦朧としているような中で、ペトロたちは主イエスとモーセたちの栄光の姿を見たということなのだと思います。その結果、ペトロは自分で自分が何を言っているのかわからないようなことを口走ったのでした。

ペトロは自分で自分が何を言っているのかわからないようなことを口走ったといえば、あの主イエスが捕らえられた最後の夜、鶏が鳴く前にペトロが3度主イエスを知らないと言ったあのときも、後から冷静になって考えてみれば、ペトロは、自分で自分が何を言っているのかわからないまま、話していたのではないでしょうか。

こうして考えてくると、そもそもペトロが主イエスに対して「あなたこそ、いける神の子キリスト、メシアです」という、あの信仰告白をしたときも、自分で自分が何を言っているのかわかっていたのでしょうか。ペトロはあのように告白しながら、自分がメシアであると告白しているお方が、本当はどういうお方なのか、わかっていなかったのではないかということです。
そして、そのことは、ペトロだけのことではなくて、まさに、私たち信仰者一人一人の問題になります。私たちはどうなのでしょうか。わたしたちは本当に自分が信じて、告白しているお方を、十分に理解して信じ、告白しているのかどうかが問われざるを得ないと思います。
ペトロは、少なくとも主イエスをメシアであると告白しましたが、それを告白したときには、主イエスが苦難の死を遂げられるというみ言葉が理解できていませんでしたし、また、その受難の死の言葉を聞いた8日後に、主イエスの最期は、決して恥と悲惨で終わるしではなく、復活の栄光への旅立ちであるということについても、主イエスの姿が変わるという驚くような出来事を見たのですが、それでも十分には理解できなかったのでした。

ルカの視点は、主イエスたち三人から、弟子たちの三人へと移り、再び主イエスへと戻ります。
34〜36節
「雲が現れて、彼らを覆った」というときの、雲は神の臨在、現臨を指します。それが彼らの恐れさせた理由です。雲の中からの声というのは、父なる神の声です。父なる神が「これに聞け」と言われた主イエスは、36節に記されているように、もはやモーセとエリヤの姿は消えて、ただお一人で立っておられました。この場面をマタイ福音書の17章6〜8節が印象的にこう記しています。
ルカにおいても、弟子たちが見た主イエスは、先の神の栄光に包まれた姿ではなく、低く、卑しく、貧しい姿をしておられました。
弟子たちは沈黙を守り、このときのことを「当時」だれにも話さなかったと言います。
弟子たちが沈黙を守ったのは、彼らが見た出来事を理解できていなかったからでした。人に語ろうとしても、自分自身、理解していない以上、それを語りようがなかったのだと思います。

最初の時も、このときも、弟子たちにとって、聞かされたこと、見たことがそれこそ霧の中のようで、理解できなかったか、ぼんやりとしか見えなかったのでした。しかし、最後に雲の中から聞こえた「これに聞け」という父なる神のことばは、ぼんやりとしか主の語られる言葉を聞くことのできない弟子たちに、そのような状態に置かれている弟子たちがすべきことは、彼らのそばに立っておられる主イエスに聞き続けることだということをはっきりと命じる言葉だったと思います。わからなくても、わからないまま、主イエスに聞き続けるとき、弟子たちはついに、主イエスの受難の予告の意味がわかる日、山上の変貌でみたことの意味を理解する日を迎えることができるとの父なる神からの約束がそこに込められていたのでした。

ペトロたちは、主イエスが語られる言葉を十分に理解できていませんでした。また自分で自分が何を言っているのかわからないような不十分さ、無理解さを抱えて、霧に包まれたような思いを持って歩まなければなりませんでした。しかし、そのペトロたちが、直ちには理解できないまま聞いた言葉、麻酔にかかったような状態で朧に見たこと、それらが一遍に霧が晴れるようにはっきりと見える日を迎えることを許されるようになるのです。それはペトロたちが自分で見たのではありません。神さまが見させてくださったので、見えるようにされたのです。

わたしたちはこうして礼拝を守り、み言葉に聞き続けて歩む信仰の旅を続けています。わたしたちの信仰の旅路も、聞いたみ言葉を、聞いたその日にすべてを理解し、悟れるような旅路ではありません。悟り得ないこと、理解し得ないことをたくさん抱えて、霧に包まれるような思いを抱えながら歩むことがしばしばなのです。そのようなわたしたちに神さまは主イエスのみ言葉を聞き続けることをお命じになります。それは、神さまがわたしたちのために、それまで隠されていたことを神さまからはっきりとわからせていただく最期の日、旅立ちの日が備えられているからです。
その日、わたしたちは神さまの栄光を仰ぎ見ます。そのとき、神さまの栄光を鏡に映し出すように、わたしたち一人一人の人生が神さまの栄光を映し出す鏡となって、神様に栄光を帰させてくださるでしょう。それゆえに、私たちは雲の中から響いた父なる神のみ声をしっかりと心に刻んで、主イエスに耳を傾け、主イエスに聞き続けましょう。主イエスは、昨日も、今日も、いつまでも共にいてくださり、私たちの信仰の旅路を導いてくださるからです。その主イエス・キリストに聞き続けて歩んでまいりましょう。
父と子と聖霊の御名によって。