聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第39回「キリストを恥としない」
説教  澤 正幸 牧師
使徒書簡 フィリピの信徒への手紙2章19~30節
福 音 書 ルカによる福音書 9章21〜27節

ルカによる福音書連続講解説教 第39回
「キリストを恥としない」 ルカによる福音書9章23〜27節

23節a
主イエスはこれまで弟子たちと語り合っておられましたが、今日読むこの言葉が向けられているのは「皆」にたいしてでした。弟子たちだけではないのです。

ここで主イエスの言葉が向けられている「皆」と弟子たちの関係はどういう関係か考えますと、思い浮かぶのは、すぐ前に書かれていたあの5千人の給食のことです。あのとき、弟子たちは5千人の人々を前にして、自分たちにはとうていこれだけの人の世話はできない、めいめいが自分で泊まる場所を確保し、その晩、食べるものを用意してもらう他ないと思いました。しかし、主イエスは弟子たちに、あなた方の手で人々の世話をしなさいと言われました。弟子たちの手元にあったのはたった5つのパンと二匹の魚しかなかったのに。

弟子たちは、かつて主イエスから伝道旅行に送り出されたとき、何も持ってゆくな、パンも下着2枚も、杖すらも持たずにゆきなさいと言われたのでした。それは弟子たちが行く先々で、食べるパンもなく、泊まる家もない彼らを迎え入れてくれる人たちがいたからでした。

突然、弟子たちが戸口に立って、今晩泊めて欲しいと言われたとき、どうぞお入りなさいと言って、自分の家に迎え入れ、わずかな食事を共に分かち合い、寝る場所もないのに、自分は床に寝ても寝る場所を提供するようにして、迎え入れたてくれた人たちは確かにいました。そのことを今、パンも寝る場所もない5千人の群衆に対して弟子たちがするようにと主イエスはお求めになりました。

その結果、5千人の人々の間に満ち足りた幸いな夜が訪れました。食事が終わったとき、食事の前よりも多くの食べ物が残ったのでした。それは何を意味しているのでしょう。
5千人の給食のとき、主イエスは人々を50人ずつの組に分けて座らせました。50人ずつ分かれた人々は、残った12のカゴに一杯になったパンから、5つのパンを持ち帰って、帰っていった先々で自分も旅人を迎え入れる生き方をするようになって行くことにこのときの食事の奇跡があったのでしょう。たった5つのパンが何十倍、何百倍にも増えたということは、ここで食事にあずかった人たちが、めいめい5つずつ持ち帰って、それが持ち帰られた先々でさらに何十倍、何百倍に増えてゆくことになるということです。

23節b
当時の律法学者には弟子がいました。パウロが回心する前、サウロと呼ばれていたとき、彼はガマリエルという高名な律法学者の弟子でした。弟子というのは、師と仰ぐ教師のあとについて行くものたちです。主イエスがここで「わたしについて来たい者」と言われるのは、文字通り主イエスの弟子になりたいと思うもののことです。
主イエスの弟子になるためには覚悟が必要でした。それは相当な決断と覚悟を求められることでした。ペトロたちはそれまでの漁師という職業を捨てました。漁師をやめたら生活の保証はあるのでしょうか。ある弟子は、父親をまず葬りに行かせてくださいと言ったとき、主イエスは、親の葬りよりも主イエスに従うことを優先させるように言われたのでした。それを聞くと、主イエスの弟子になることは、仏教の僧侶になる人が、俗世間を捨てて出家するようなものだと思うでしょう。
そして、そのような犠牲や厳しさを要求されるのであれば、それに応じられるのは少数の選ばれたものたちのみであって、一般の人々は主イエスの弟子になれないと思われるでしょう。

しかし、主イエスの弟子の生き方は、少数の人の特別な生き方なのでしょうか。今朝、説教の最初に考えたことは、そうではないのだということでした。主イエスの弟子の生き方は5千人の人々の空腹を満たし、幸せにし、さらにその人々を変えて、その人々を通して救いの出来事が地の果てにまで広がって行く素になった5つのパンと二匹の魚に相当します。パン種のようなものだと言ってよいでしょう。これがあって初めて5千人の人たちが、50人ずつか、さらに二人か三人ずつ、弟子のような生き方をして行くように変えられて行くのです。パン種がなければパンが膨れないように、5つのパンを差し出す弟子たちがいなければ、世界は変わらないのです。

弟子たちが5千人の給食のとき自分たちの持っていた5つのパンを差し出したことは、ヨハネ福音書では主イエスが天からの命のパンであることと関連づけられています。弟子たちが差し出した5つのパンは弟子たち自身であり、弟子たちの命でした。それは、主イエスがご自分の命を与えて、わたしたちを生かされることに倣い、弟子たちも自分の命を人々のために差し出すという意味がありました。

24節
先週の説教で紹介した星野富弘さんの「いのちより大切なもの」という詩を今日もここで考え併せたいと思います。

いのちが一番大切だと思っていたころ 生きるのが 苦しかった。
いのちより大切なものが あると知った日 生きているのが 嬉しかった

命というものを大切に思うのは当然です。でも、その大切な命は病気により、不幸により、脅かされ、命を守り、失わないための日々の悩みと苦しみは絶えません。

けれども、命が大切とはいえ、命よりも大切な神の恵み、神の愛、神さまご自身の存在を知らされたとき、この神さまによって生かされていることが嬉しくなった、神さまのために、また他者のために生きられることの幸いを知って喜ぶようにされたというのです。

24節の御言葉を星野さんの詩と重ねて読めるように思います。わたしたちが神さまからいただいている命も、また主イエスによっていただいている信仰の命も、それは5つのパンでしかないと思います。たったこれだけのもので、一体人々のために何ができるのか、そう考えれば客観的に限界がありますし、主観的にも貧しすぎるのです。でもその貧しく、限界のある命を生かしてくださっている神さまが、これを貧しいままに用いてくださることを喜びとし、幸いとして生きられるようにされること、それは本当に感謝に満ちた救いの出来事です。

26節
「わたしとわたしの言葉を恥じる」とあります。
弟子たちが自分たちを恥じるということはあり得ると思います。5千人の群衆を前に、たった5つのパンしか持っていない、そんな自分たちの貧しさを恥ずかしく思ったでしょう。しかし、主イエスが「わたしとわたしの言葉を恥じる」というのは、まさに、逆説的ですが弟子たちが5つのパンを恥じるという意味だと思います。
弟子たちが主イエスと主イエスの言葉を恥じないということは、自分の貧しさを恥じないで、5つのパンを差し出すことです。限りある、貧しい命が、神さまの愛と顧みのなかにあることを嬉しく思い、喜び、この貧しい命も神さまのご用のために、隣人への奉仕のために用いていただけることを誇りとし、恥じとしないということです。
主イエスを恥じないということは、このように貧しい弟子や、わたしたちが自分を恥じないで、かえって貧しさを誇り、喜びとしながら生きられるようにしてくださる、主イエスを誇ることです。貧しいわたしたちの兄弟となることを恥じとせず、貧しくなってくださった人の子、馬小屋で生まれ、十字架の死を死なれたナザレのイエス、神の子を恥じないことです。

27節
貧しいものが自分を恥じとしないで、十字架にかかり、貧しい私たちを恥じとなさらなかった主イエスを誇りとして生きるところに、主イエスの栄光は、終わりの日を待たずに、今、ここで、輝き始めるのです。

こうして、主イエスという命のパンが、弟子たちという5つのパンを祝福し、彼らをも貧しいながらも命のパンに造りかえ、それが5千人をも造りかえてゆき、地の果てにまで神の国の福音と神の栄光が広がって行くのです。わたしたちも小さな命パンとなって、神の栄光をあらわすものたちとしていただきましょう。

父と子と聖霊の御名によって