聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第38回「キリストへの信仰告白」
説教  澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇49章6〜20節
新約聖書 ルカによる福音書 9章18〜22節

 

ルカによる福音書連続講解説教 第38回
「キリストへの信仰告白」 ルカによる福音書9章18〜22節

今読んでいただいた9章18節から27節までは、二つの部分に区切られています。最初の部分は18節から22節で、そこには主イエスと弟子たちの対話が書かれています。それに対して23節から27節は、23節に「イエスは皆に言われた」とあって、ここに書かれているのは弟子たちだけでなく、多くの人びとに対して語られた言葉です。最初の部分では、キリストとはどなたかが語られ、後の部分ではキリストに従うものは誰かが語られています。今日は18節から22節までを取り上げ、来週の説教で後半の23節以下を取り上げたいと思います。

18 a節
主イエスが一人で祈っておられた、そこに弟子たちが共にいたというのは、論理的にはおかしいのですが、ここから読み取れるのは、父なる神の御心に聞き従おうとしてひたすら祈っておられる主イエスのそばで、弟子たちもそうあろうと願って、主イエスの祈りに、自分たちの心を一つにしていたということだと思います。

先週9章10節を読みました。そこには、主イエスから遣わされた12人の弟子が、遣わされたところから主イエスのもとに戻ってきたとき、主イエスに報告したことが書かれていました。派遣された弟子たちには、自分たちに託されたこと、命じられたことをどのように果たしたのか、主イエスに報告する責任があったのです。
そのとき、主イエスは弟子たちを連れて、自分たちだけでベトサイダという町に「退かれた」と書かれていますが、この「退く」という言葉は、主イエスがしばしば、人を避けて寂しいところに行って祈られたときに用いられる言葉です。
弟子たちは主イエスから遣わされて出て行った先々で、忙しくて、自分を省みる時間もないような日々を過ごしてきましたが、今、静かに主イエスと語らう時をもてたのです。それは祈りに通じます。
主イエスもまた、生涯において、しばしば寂しいところに一人退いて祈られました。それは、主イエスがご自分を世に遣わされた父なる神と語り合うためでした。父なる神が主イエスを何のために遣わされたのか、その御心を祈りにおいて確かめ、それに従うためでした。
今日読んでいる18節の祈りもそのための祈りだったと思います。まっすぐに父なる神に向かい合い、父なる神の御心に聞き従うために、主イエスは一人退いて祈っておられたのでした。

18 b〜19節
主イエスは弟子たちに「群衆は、わたしのことを誰だと言っているか」とお尋ねになります。この質問は、それに続いて主イエスが弟子たちに問われた、「あなたがたは、わたしを誰と言うのか」と言う質問の伏線でした。
群衆は主イエスのことをあれこれと言い、主イエスに対する願望を抱き、期待を寄せていました。しかし、人々の期待を裏切ることになったとしても、人々が主イエスは自分たちの願いに背を向けたと言って失望し、主イエスのもとから去っていったとしても、主イエスが追い求められるのは、人の思いではなく、神の思いであり、ご自身が父なる神さまから遣わされたメシア、キリストとして、いかなる使命を与えられているのか、それを、ひたすら祈り求めようとしておられたのです。

20〜22節
ペトロが主イエスに対して、「あなたは神からのメシアです。」と答えたのは、主イエスこそ父なる神から全権を委ねられた名代、代理として遣わされたお方だと言う意味です。
ペトロがそう答えると、主イエスは弟子たちを戒め、このことを誰かに話すことを固く禁じられました。どうしてでしょうか。

神から遣わされたメシアが苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者から捨てられ、殺されると言うのは、あまりにも予想外な、考えもしないことだったからだと思います。ここの並行箇所であるマタイ福音書16章では、それを聞いたペトロが主イエスを脇へお連れして「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言って諌め始めたと書かれています。

これが主イエスに父なる神から託された使命であり、主イエスがメシアとしてたどる道だと群衆が聞いたらなんと言うでしょうか。民衆は自分たちの期待が裏切られたと思い、そんなメシアなら受け入れられないと思って離れてゆくのではないでしょうか。
長老、祭司長、律法学者たちと言うのは、当時のユダヤ人の最高機関であった最高法院の議員たちを指します。彼らは主イエスを排斥するだろうと言われていますが、この排斥すると言う言葉は、ギリシャ語の原語では、家を建てる建築士が石を吟味し、その結果、これはダメだ、使い物にならないと判定して、投げ捨てると言う意味です。主イエスはユダヤ民族の代表機関において、公式に偽りのメシア、偽キリストとして有罪判決を受け、死刑に処せられるのです。
それに加えて、先ほど「あなたは神からのメシアです。」と答えたペトロは、最後の最後、主イエスが十字架につけられるために捕らえられ、裁判を受けるに及んで、主イエスを捨て、3度まで、わたしはこの人を知らないと言いました。

主イエスがこのときお語りになったメシアの道に対して、ユダヤ人はこぞって群衆も、指導者たちも反対を唱え、さらに弟子たちまでもが、主イエスを見捨ててゆく中で、主イエスだけが一人、祈って、父なる神の御心に然りと言われたのです。あのゲッセマネの園の祈りで、主イエスはできることなら十字架の苦しみの杯を私から取り除いてくださいと祈り、しかし、最後に、しかし、わたしの願いではなく、御心のままになさってくださいと祈られて、苦しみの盃である十字架の死を受け入れられたのです。

分かれ道に立って、主イエスが最後にゲッセマネの園で三度祈られ、父よ、私の願いではなく、御心のままになさってくださいと祈られたように、自分の願いを捨てて、父なる神の御心に従うことを選ぶこと、それがキリストへの信仰を告白すると言うことです。父なる神の御心に従うキリストこそ、神がこの世に遣わされたお方であると信じる信仰を告白する人は、キリストがなさるように、自分の思いと願いを捨てて、神の御心に従う道を選ぶのです。

でも、自分の思いや願いを捨てて神に従うことが、どうして私たちの救いになるのでしょうか。そのことを別の角度からお話ししたいと思います。

先週の家庭礼拝暦に星野富弘さんの「いのちより大切なもの」と言う詩が紹介されていました。星野富弘さんと言う方は、群馬県高崎市の中学校で、体操の先生をしていて、授業中に事故で頸骨を損傷し、全身が動かなくなった方です。寝たきりで、全く身動きができなくなりましたが、そのような不自由な中で、信仰に導かれて、口先に加えた絵筆で絵や詩を書いて、信仰の証をされています。
「いのちより大切なもの」と言うのはこう言う詩です。「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」

いのちを「自分」と言い換えることができるように思います。自分が一番大切だと思って、自分のことを第一に考え、自分だけを愛して生きていたころは、生きるのが苦しかった。しかし、自分より大きなお方、自分を愛してくださる神様がおられると言うことを知った日、自分よりもその神様を愛することの方がもっと大事だと言うことがわかった。そのとき生きているのが嬉しくなった。

わたしはわたしのものだと思って生きてきた、わたしは、自分のために生き、自分一人で死んでゆくと思っていた。しかし、このわたしを愛して、あなたはわたしのものだと言われるイエス・キリストを知ったとき、イエス・キリストがわたしの慰めとなった。キリストがわたしのために死んでくださり、復活して永遠に生きられるように、わたしもキリストのために生き、また死ぬことができる。

先週、パレスチナのガザで戦闘状態が勃発し、日を重ね、夜を重ねるごとに報復が報復を呼んで戦闘状態が一層悪化しています。
ホロコーストを経験したユダヤ人が、自分たちの経験したような悲惨を経験する人が二度と出ないように願うのではないかと思われるのに、ガザの人々が今、経験させられている飢餓、不条理な死、危険は、アウシュビッツでユダヤ人が経験した不幸と悲惨に重なって見えているのは何故なのか。ガザにイスラエル軍が侵攻すると言うのを聞くと、わたしにはそのイスラエル地上軍がワルシャワのユダヤ人ゲットーを壊滅させたナチスドイツの軍隊に重なって見えるのです。いたたまれない思いがします。

パレスチナにユダヤ人国家としてイスラエルを建国した人々は、ホロコーストの経験を、あれは自分たちの民族が弱かったからなのだ、いざとなったら誰もユダヤ人を守ってはくれなかった。自分は自分で守らねばならない、イスラエルの軍事力を強化し、いかなる敵からも自分を守り抜くと言う決意を抱いて行かねばならない、そう考えたと聞きます。

自分で自分を守るしかない、誰も自分を守ってくれない。自分が大切、自分を滅ぼそうとする敵とは戦うしかない。敵は戦争によって滅ぼすしかない。
しかし、ここには救いがないこと、絶望するほかない現実を、私たちは今、まざまざと見させられています。

そのような世界にあって、主イエスをキリストと告白する道は、どのような救いなのでしょうか。命よりも大切なものがある、自分が愛されていると言うことを知る喜び、自分よりも大きなお方がおられる、自分を愛してくださり、あなたはわたしのものだと言ってくださるイエス・キリストがおられる。
そのお方はどこまでも父なる神を信じ、どこからも助けが来ない中で、神の救いを待ち、ついに3日目に父なる神によって復活されられたお方なのです。

主イエスに対して「あなたこそ救い主なるキリストです」と信仰告白すると言うことは、主イエスが神から遣わされたお方として歩まれた道、すなわち人間の思いと願いを捨てて、父なる神の御心に従う道をキリストと共に歩んで生きてゆくことなのです。わたしたちは今、人間の思いによっては、どこからも救いがなく、世界の救いを期待できない得ない中で、キリストを告白し、キリストにある神の御心を追い求めましょう。わたしたちを愛される神を愛し、神にあってすべての人を、私たちに憎しみを向け、敵対する人をも愛し、その人のために祈りましょう。神がキリストを復活させられた神として、神の御心によってこの世界を憐れみ、救ってくださることを信じ、祈り、待ちましょう。

父と子と聖霊の御名によって