聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第37回「五つのパンと二匹の魚」
説教  澤 正幸 牧師
旧約聖書 イザヤ書52章7〜10節
新約聖書 ルカによる福音書 9章10〜17節

 

ルカによる福音書連続講解説教 第37回
「五つのパンと二匹の魚」 ルカによる福音書9章10〜17節

10節
先週、12人の弟子たちを主イエスが派遣された箇所を読みました。派遣とは何か。派遣とはユダヤ人のことわざに「ある人が遣わす使者はその人自身である」とあるように、12人の弟子たちが、主イエスのおいでにならない町々、村々で福音を語り、病人を癒すために派遣されることによって、そこに主イエスが来られるのです。そこで弟子たちが語り、行うことは彼らを通して主イエスが語り、主イエスがみわざを行なわれるということです。そのための派遣でした。
しかし、彼らは主イエスではなく、あくまでも主イエスから全権を委ねられた全権大使に過ぎません。「ある人が遣わす使者はその人自身である」というのは確かな半面、他方、使者は使者を遣わした主人ではなく、あくまでも主人の代理です。僕なのです。ですから、派遣されたものには、帰ってきて、主人に報告する責任と義務があります。
派遣先で何を語ったのか、何をしたのか、派遣された僕として、主人の委託通りに語ったのか、したのか、それとも、委託されたことに反して語ったり、委託から逸脱した行為をしたことはなかったのか主人の前で申し開きを求められるのです。

神学校には夏休みの間、神学生を伝道実習に派遣する夏期伝道というのがあります。私も神学校の3年生と4年生の時と2回、夏期伝道に派遣されました。神学校で説教学の手ほどきを受けて、実際に派遣された教会で初めて説教をしました。その経験を通して、自分にはまだ何が足らないか、さらになにを学ばなければならないかが明確にされて、また学びへと戻るのです。この時の12人の弟子にもそういう面があったでしょう。
カルヴァンの聖書注解の言葉を紹介します。「弟子たちは、教師である主イエスのもとを離れたまま教える任務を永久に続けることはできなかった。しばらく教えた後で、より良いものを受けるために学びの場へ戻った。」
弟子たちはこのような派遣という経験を通して、将来、主イエスの同志として歩むように訓練され、成長していったのです。

弟子たちからの報告を聞かれると、主イエスは彼らを寂しいところへと引き連れて行かれました。「退かれる」というのは、主イエスが静かに祈りの時をもたれる時に用いられる言葉です。
外に向かっていた思い、それが、今、うちに向かいます。今、内省の時を持つために、主イエスは弟子たちとともに退かれます。派遣されたものが、主に対して報告をし、申し開きをする、それは主との静かな語らいのときを持つことであり、いわば祈りの時です。
主イエスも、しばしば、退いて、寂しいところで、一人で祈られました。それは、ご自身を遣わされた父なる神に対して、報告をし、自分の歩みを検討し、これからどう歩むべきかを確認するためのときだったと言えます。
11、12節
主イエスが5つのパンと二匹の魚で5千人もの人々を養われた物語は、他の福音書にも書かれている記事ですが、私は、今回ここを読んでみて、この出来事は弟子たちの派遣と結びつけて読むべきではないかと思うに至りました。12弟子が派遣された町々、村々での経験を持ち帰って、主イエスに報告したことが、彼らの教育と訓練の機会だった、それによって、彼らは主イエスの同志として歩むように成長が期待されていたと申しましたが、そうだったとすると、この時の出来事も、弟子たちを訓練し、成長させる機会であったと受け止められるのではないかという意味です。
このときは主イエスが一緒におられました。主イエスが集まってきた人々に、神の国について語り、病気の人を癒しておられました。日が傾き始めたとき、弟子たちは、そこに集まった人々の宿泊と食事のことを心配し始めました。集まった人々は今晩どこに泊まったら良いのか、食事はどうしたら良いのか。
自分たちの手ではどうしようもない。だから速やかに群衆を解散させて、それぞれが周りの町や村で宿をとり、そこで食べ物を見つけるようにする他ないと考えます。

13、14a節
この出来事を弟子たちの派遣と結びつけて読むということを申しましたが、それはどういう意味かと申しますと、先に弟子たちは9章の3節で「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」と主イエスから命じられて送り出されたのでした。パンを持たずに送り出された弟子と、このときの群衆が重なるように思うのです。
弟子たちはあのとき、何も持たずに出て行って、一体、どうしなさいと主イエスは言われるのかと戸惑ったでしょう。主イエスは戸惑う弟子たちに、あなたがたを迎えてくれる人の家の世話になりなさいと言われたのでした。
今まさに、弟子たちは、立場が逆転して、自分たちがパンを持たずに送り出されたとき、弟子たちを迎え入れてくれた人、その家に自分たちがなって、パンを持っていない群衆、宿るところもない群衆を受け入れなさいと言われているのではないでしょうか。
彼らは申します。私たちには5つのパンと二匹の魚、それが持てるものすべてです。それでは到底、不十分でしょうと。
でも、突然、弟子たちが泊めてくださいと言って戸口に立たれた家の人の気持ちはどうだったでしょうか。どこの家にも食べさせ、養わなければなければならないこどもたちがいて、それぞれに事情を抱えて、決して余裕があったわけではなかったのではないでしょうか。それでも、お入りくださいと言って弟子たちを迎え入れてくれた家の人たちがいたのです。そのような人たちがいたからこそ、弟子たちの伝道、神の国の宣教と病気の人たちを癒す奉仕のわざが可能になったのです。
貧しい人々の、その晩、家族と一緒に食べようとしていた粗末な食事、それを、弟子たちを迎え入れて、弟子たちと分かち合った人たちがいたからこそ、神の国の福音の宣教が可能になりました。

14b〜16節
5つのパンと二匹の魚は弟子たちが、貧しい中で持っているすべてでした。今、主イエスは彼らの手からそれを受け取り、天を仰ぎ、賛美の祈りを唱え、裂いて、弟子たちの手を通して群衆に配らせました。
このことは、12弟子のこれからの奉仕の姿を象徴していると言えないでしょうか。弟子たちは律法の専門家やユダヤ人の指導者である議会のメンバーである聖職者たちから「無学のただ人」と蔑まれた人たちでした。学問を積んだわけではなく、知識や知恵に富む人々でもありませんでした。そんな彼らが、貧しい自分たちのすべてを、全存在を主に差し出します。主イエスは彼らとその奉仕を祝福して、それを用いられるのです。

17節
5千人の群衆、正確に言えば、男が5千人とありますから、言い換えれば5千世帯の人々と言っていいでしょう。それが50人ずつ一組に分かれて、すなわち100のグループになりましたが、12人の弟子たちはそれらの群衆に奉仕しました。皆が食べて、満腹したのです。人々は満ち足りた思いを味わいました。残ったパンのかけらは、12の籠にいっぱいになりました。はじめよりも何十倍、何百倍にも増えたということになります。
弟子たちの差し出した5つのパンと二匹の魚は、ちょうど地に落ちて死んだ一粒の麦のようになりました。死んで多くの実を結ぶに至ったからです。

主イエスがお語りになった有名な喩えの中に、「愚かな金持ち」の喩えがあります。ご存知の方が多いと思いますが、そこを開いて読んでみます。ルカ12章16節以下(131ページ)

ここで主イエスが「神の前に豊かになる」ということを言われています。「神の前の豊かさ」とはなんでしょうか。
パウロは主イエスについてこう申します。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(コリント第2、8章9節)
わたしたちを豊かにする、主イエスの貧しさ。神の前の豊かさとは、他者を豊かにする貧しさであると思います。

こんなエピソードを本で読んだことがあります。
19世紀のアメリカのことです。日本の福音伝道が始まったばかりで、日本に宣教師を派遣しようと献金を訴える集会が何日か連続でなされていました。集会の最後の日に、一人の農夫が進み出て、わずかな献金を捧げました。その人は集会で日本に宣教師が派遣されることを聞くと、汽車賃を節約して徒歩で家に帰り、また徒歩で戻ってきて、わずかな額でしたが献金したというのです。こうして、わたしたちの国に福音が伝えられたのです。

わたしたちはこのような話を聞いて、豊かにされます。人を豊かにするのは、このような貧しさなのです。神の前の豊かさとは、やもめが捧げたレプタ二つであって、金持ちが有り余る中から捧げた多額の献金ではなかったのです。

主は貧しいわたしたちが、わたしたちの貧しさの中から、喜んで主に仕え、神を愛し、隣人を愛して生きるものとしてくださいます。そのためにこそ主イエスは貧しくなってくださいました。貧しくなられた主イエス、弟子たちの差し出す5つのパンと二匹の魚を祝福し、そのゆえに神に賛美をささげてくださる主イエスを心から愛しましょう。

父と子と聖霊の御名によって