聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第35回「遅すぎてはいない」
説教  澤 正幸 牧師
旧約聖書 列王記上17章17〜24節
新約聖書 ルカによる福音書 8章49〜56節

 

ルカによる福音書連続講解説教 第35回
「遅すぎてはいない」 ルカによる福音書8章49〜56節

49節
会堂長のヤイロのもとに、娘が事切れてしまったとの知らせが届きました。ヤイロは、一刻も早く主イエスが娘のところに来てくださり、彼女を癒してくださることを願いましたが、その願いはむなしく、彼女はついに息を引き取ってしまったのでした。
ヤイロの家に向かう途中、長血を患う女の癒しのことで手間取っている間に、間に合わなくなってしまったのでした。
使いの者は言います。「この上、先生を煩わすことはありません。」娘が死んでしまったいま、主イエスにご足労いただいても、これ以上、なすすべは何も残っていないと人々は思ったのです。
50節
このところは、マルコ福音書では、「主イエスはその話をそばで聞いて」と書かれています。主イエスは使いの言葉を聞き流されるのです。そして、会堂長のヤイロに向かって「恐れるのをやめなさい。一途に信頼するのだ。」と言われます。主イエスはヤイロに信仰をお求めになります。
先週、長血をわずらった女の人が癒されたとき、主イエスは女の人に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われました。そのように、今、ヤイロにも、「あなたの信仰があなたと、あなたの娘を救う。だから、ただ信じなさい。」と言われるのです。
今、ヤイロに主イエスがお求めになる信仰とはどんな信仰でしょうか。
ヤイロは主イエスに娘の病気の癒しを願いました。主イエスが、死にかけている娘を病気から救ってくださることを信じようとしていました。しかし、娘が死んでしまったいまは、これ以上、何を信じたら良いのでしょうか。でも、主イエスが、そのヤイロになおも、ただ信じなさいと言われるとき、主イエスは病気を癒すことがおできになるだけでなく、死からも救うことがおできになることを信じる信仰が求められていました。
51〜53節
主イエスが3人の弟子を連れて会堂司の家に着かれると、そこではもう亡くなった娘のとむらいの儀式が始まっていました。
人の死に直面するとき、わたしたちに一体何ができるでしょうか。自分の伴侶、子ども、両親など、自分にとってかけがえのない人の命が失われたとき、わたしたちは、どうやってその死を受け止めたら良いのか、受け入れがたいその現実を、どう受け入れられるかが課題になります。そして、愛する者の死を静かに受け入れ、愛する者のことを心に思い、忘れずに覚え続けようとするだろうと思います。また愛する者を失った悲しみの中にある人に対しては、その人に寄り添い、慰めようとします。
しかし、主イエスがヤイロの娘が亡くなった葬りの家に来られたとき、娘を失った両親に対してなさったことは、そのようなことではありませんでした。また、両親を慰めようとしてそこに集まっていた人々に対して言われたのも、そのようなことではなかったのです。
主イエスは、両親に対して、そこに集まって泣き悲しむ人々に言われます。
「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」
この主イエスの言葉は人々から嘲りを呼び起こしました。それは死という現実を受け入れようとしない、常識はずれの言葉だと言って、嘲笑われ、嘲られたのでした。
しかし、その嘲りの言葉をよそに、主イエスは娘の両親と3人の弟子たちには、主イエスの言葉をただ信じることを求められたのでした。
54〜56節
主イエスは娘を死の中から呼び戻してくださいました。霊が戻ったというのは、霊には息という意味もあるので、一旦息を引き取った娘が、今また息を吹き返したということでしょう。主イエスは彼女に食物を与えなさいと言われましたが、主イエスは、彼女にもう一度命を与え、彼女を生かしてくださったのです。

主イエスはこのことを誰にも話さないようにお命じになります。それはどうしてでしょうか。娘が部屋から出てくれば、主イエスの言葉を嘲っていた人々も、娘が生き返ったのを見ることになるでしょう。このことを秘密にしておくことはできなかったはずです。

ことは信仰に関わることだったのです。果たして死んだ人が復活することがあるのか。死は永遠の眠りであり、一度死の眠りについた人が再び目を覚ますことはない、死はまさに終わりなのか、それとも、死は終わりではないのか、死はしばしの眠りにすぎず、また目覚める朝が訪れるというのは本当なのか。このことはすべての人にとっての問いかもしれません。しかし、その問いはまさに信仰に関わることなのです。一般的な思想や、抽象的哲学の問題ではありません。信仰抜きに、生ける神を信じることなしに、また人格と実存をかけることなしに問う問題ではないのです。

そのことを、聖書から読み取りたいと思います。
このとき、主イエスがヤイロの娘のよみがえりの出来事を、娘の両親と3人の弟子以外には立ち会わせなかったということが、まず、ここでは信仰が問われていたことを教えています。そして、主イエスがヤイロの娘の手をとって起き上がらせたとき、主イエスは娘に呼びかけておられます。ラザロが墓からよみがえらされたときも、主イエスは大声で、ラザロの名を呼ばれました。わたしたちも、愛する者が世をさってゆくとき、また去ってしまってからも、大きな声でその者の名を呼ぶことがあると思います。
神が主イエスを死者の中から復活させられたとき、父なる神は全能なる愛の父として、主イの名を呼んで、墓の中から呼び出されたのです。それは、神が、私たちの父となられ、私たちを愛する子と呼んで、私たちを死者のなから復活させてくださるお方であることを私たちに告げています。
信仰、わたしたちに求められている主イエスを信じる信仰とは、神が御子を人としてこの世界に遣わされた、あのナザレ人イエスの生と死において、神はわたしたちの生と死に全面的に関わっておいでになるという信仰です。

今、神が御子を人としてこの世界に遣わされた、あのナザレ人イエスの生と死において、神はわたしたちの生と死に全面的に関わっておいでになると申しましたが、わたしたちの生涯の一日、一日が、神の顧みのもとにあります。わたしたちにとって、夜毎につく眠りは小さな死です。眠りについて、そのまま朝を迎えずに世を去る人もあります。朝の目覚めは、小さな復活なのです。主なる神がわたしたちに新しい命をお与えくださったからです。
その信仰をもって今日を生きること、それは、誰かに話して聞かせるより、まず自分自身が驚きをもって、その信仰をもって1日の命を真実に生きるべき課題ではないでしょうか。

最後に最初に読んでいただいた旧約聖書の記事からみ言葉に聞いて説教を終わりたいと思います。サレプタのやもめは、飢饉で死のうとしていましたが、エリヤの到来によって生かされ始めていました。けれども一人息子が死んだとき、やもめはエリヤに「神の人よ、あなたはわたしにどんな関わりがあるのでしょうか。あなたはわたしの罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」と言いました。

会堂司のヤイロが娘の死の知らせを聞いたとき、主イエスからただ信じなさいと言われたのは、主イエスが、彼の心にやもめの思いに通じる思いがよぎったのを察知なさったからではないかと思います。娘が死んでしまったのは、わたしのせいだ。わたしが娘を死なせてしまった。娘の死は他でもない、私自身の罪のためではないかという思いです。

先週の長血を患った女の人も、自分の抱える汚れ、それが人を汚すので、人と交われない孤立へと追いやられていました。そのような孤独から救えるお方は主イエスだけでした。
愛する者を死なせてしまったとの自責の念を抱えるとき、同じような孤立に追いやられるのではないかと思います。その罪を人のせいにすることもできず、どこにも救いを求めようがないまま、自分でそれを抱えなければならないからです。でも、それを知っていてくださるのが主イエスです。その罪を委ねなさいと言ってくださるお方は、この世界にたった一人しかいません。それは主イエスです。主イエスは、私たちが死に至らせてしまった愛するものたちの名を呼ぶとき、私たちと共にその者の名を呼んでくださり、私たちの愛する者を生き返らせ、わたしたちの手に返してくださいます。

「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば娘も、あなたも救われる。」

父と子と聖霊の御名によって