聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第34回「あなたの信仰があなたを救った」
説教  澤 正幸 牧師
旧約聖書 エレミヤ書23章23〜24節
新約聖書 ルカによる福音書 8章40〜48節

 

ルカによる福音書連続講解説教 第34回
「あなたの信仰があなたを救った」 ルカによる福音書8章40〜48節

40節
今日読んでいるのは、ガリラヤのカファルナウムの町の出来事です。ガリラヤ湖に面しているカファルナウムの町には船着場があったようです。船は主イエスと弟子たちの一行を乗せて、向こう岸、主なる神の民であるユダヤ人の住んでいない、神を知らない異邦人が住んでいる地に向かって出て行ったのでした。それから何日が経ったのでしょうか。

湖のこちら側では、主イエスの帰還を待っていた会堂司のヤイロのような人がいました。彼は一刻も早く主イエスにお会いしたい、主イエスに助けていただきたいと願っていました。その人々は船着場に立って、主イエスの帰りを、今日か、明日かという思いをもって待っていたのでしょう。そして、ついに、主イエスを乗せた船が帰ってきたのを見て、喜んで主イエスを迎えたのだと思います。

主イエスが不在だったその何日間かの間に、舟が湖の向こうに渡る途中でも、船が向こう岸に着いてからも決して小さくはない出来事がありましたが、湖のこちら側で主イエスの帰りを待っていた人たちは、それらについて何も知りませんでした。

ガリラヤの町や村の人々は、主イエスが向こう岸で何をなさったか、それらを通してどんなことを思われて帰ってこようとしておられるのかを、おそらく全然考えていなかったと思います。主イエスの側に立って、主イエスがどんな思いをもって向こう岸から戻っておいでになろうとしているかに思いを致すことはなく、ただ自分たちの関心事だけを考えて、主イエスの帰りを待っていたのだと思います。

湖の向こう岸に渡ってゆかれた主イエスは、そこでも神の国の福音を語り伝えられました。その結果、そこで何人の人が救われたでしょうか。主イエスによって、このとき直接、救われたのは一人だけでした。悪霊に取り憑かれた男の人です。その人は家に帰り、その人を通して神さまの救いを信じるようになった人が家族の中また町に住む人たちの中から生まれたと思われますが、主イエスの蒔かれた神の言葉の種は、悪霊に取り憑かれていた一人の男の人という畑に落ちて、そこから多くの実が結ばれるようになったのでした。

湖のこちら側に帰って来られた主イエスを喜んで迎えた人々は多かったと書かれています。でも、ルカによる福音書は、その中で2人の人、会堂司のヤイロと、長血を患っていた女の人のことだけを記しています。大勢の人が主イエスを待っていたし、その帰りを歓迎したのは事実です。でも、本当に待っていたのは、二人だったということです。そして、主イエスは、主イエスを待っていたこの二人を救うために戻って来られたと言えると思うのです。

主イエスが戻って来られたとき、ガリラヤにいた群衆は喜びました。でも、本当に喜ぶべきことは何だったのでしょうか。喜ぶべきは、不在だった主イエスが戻ってこられ、また自分たちとともにいてくださるようになったことではありませんでした。それ以上に、主イエスが、主イエスを待っている人のところに来ようとなさり、その人を救うことをご自身の喜びとしてくださっていることなのです。私たちの守る礼拝の喜びも、私たちのことを喜びとして、一回、一回、週日ごとの礼拝に喜びをもって臨んでいてくださる生ける主イエス・キリストご自身にあります。

41節〜43節
この日、主イエスに救いを求めた二人の人、ヤイロと長血を患う女の人は、それぞれに切迫した思いをもっていました。ヤイロは一人娘が死にかけていました。一刻を争う思いでいました。それに対して、長血を患う女の人は、生死に関わる病気ではありませんでした。この人にかかずらっている間に、ヤイロの娘は死んでしまいました。ここは、ヤイロの娘を優先させて、長血の女の人のことは後回しにしたらよかったのでしょうか。そうはならなかったのは、長血を患う女の人にも、一刻を争うヤイロの娘の救いに劣らない切迫した思いがあったということだと思います。

この女の人の患っていた病気は、体の病ではありますが、社会的な苦しみを伴う病気でした。この人は自分自身が汚れた存在であるとともに、人を汚す存在だったのです。感染症の患者がそうであるように、自分の病気に加えて、自分が人に感染させる危険を抱える、歓迎されない、遠ざけられる存在なのです。こうして彼女は、自分などいない方が良い、消えてしまった方が良いと思うことさえあったでしょう。この女性は、人々とともに営む社会生活から、また神との交わりである礼拝の場からも隔てられ、締め出されていました。
女性は、なんとかしてよくなりたいと全財産を投じて医者にかかりましたが、良くなれませんでした。その結果、全財産を失って貧困に陥り、病気は治らず、人と神から隔てられることになりました。
病気を抱え、誰とも交われない、誰にも触れることができない。孤立する女性!

44節〜46節
誰にも触れることができない女性はこのとき主イエスに触れました。女の人が触れることができたのは主イエスだけだったのです。彼女はおそるおそる、人混みに紛れて、後ろから主イエスに近寄り、その衣の房に触ります。するとたちまち、女の人は癒されました。

主イエスは立ち止まり、「私に触れたのは誰か」と言われます。
すると主イエスの周りに押し寄せていた群衆は口々に「わたしではない」と言います。
多くの人々が、主イエスの帰還を歓迎しました。多くの人が主イエスを待っていたように見えました。また主イエスに迫っていました。実際に、主イエスの体に接触した人もいたと思われます。でも、本当に主イエスに触れたのは、そして触れることによって力が主イエスから出て行った人は、たった一人、この女の人だけでした。

47節〜48節
この人は、隠しきれないと知って、震えながら主イエスの前に進みでます。
この女の人は、ありのままを、包み隠さずに本当のことを、正直に話しました。
すると主イエスは言われます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

主イエスがこのときに、あなたの信仰があなたを救ったと言われた、この女の人の信仰とはどういう信仰でしょうか。

女の人は黙って、隠れて、後ろから主イエスに触ったのを、主イエスが「わたしに触ったのは誰か」と言わるのを聞いて、「なぜわたしに触ったのか」と主イエスから自分が責められると思ったはずです。汚れた自分が主イエスに触ることによって、主イエスを汚したからです。それはしてはならないことでした。
ですから、自分のしたことの重大さを思って震えながら主イエスの前に進み出ざるを得なかったのに、主イエスの口から聞いた言葉は、彼女を責め、咎める言葉ではなかったのでした。

世界に誰も触れる人がいない、その女の人を救うために主イエスが来られたのです。
主イエスには何一つ隠れていませんでした。誰一人、この世界に本当に触れ合える人のいない、この女の人の孤独、悲しみ、苦しみを主イエスは知ってくださり、また彼女が主イエスに触れればどうなるかを知りつつも、それでもなお触れずにおられなかった彼女の思いのすべてを主イエスは知っておられる。だから、全てを知っておいでになる主イエスに、ありのままを、包み隠さずに打ち明け、何一つ恐れないで主イエスに聞き従ってゆけばいいのだ。これがこのときの女の人の信仰です。その信仰が彼女を救ったと主イエスは言われました。

12年間、苦しみと孤独と、悲しみの中で歩んできた、この一人の女の人を、ヤイロの娘のことが切迫する中でも、そのことを後回しにしてでも、救おうとされる主イエス! それが主イエスと言うお方なのだという深い愛と、信頼が、この女の人を救います。

この日、主イエスは、この女性に主イエスの方から触れられる者になってくださるために湖の向こう岸から、帰ってきてくださった、そう女の人は、後になって信じたと思います。

その主イエスが、今日、ここに集うわたしたちの一人、一人をも愛し、皆さんのことを、一人、一人、すべて知っておられる主として、皆さんに会おうとしてこの場に臨んでおられます。その主に、自分の悲しみ、罪、汚れを抱えたまま、触れるものとなりましょう。わたしたちの全てを知っていてくださる主イエスに、わたしたちの全てを委ねましょう。

そのとき主は、長血を患う女の人に、「娘よ、安心しなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われたように、私たちにも、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」言ってくださいます。

父と子と聖霊の御名によって。