聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第33回「悪霊に取り憑かれた人の救い」
説教  澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇87章1〜7節
新約聖書 ルカによる福音書 8章26〜39節

 

ルカによる福音書連続講解説教 第33回
「悪霊に取り憑かれた人の救い」 ルカによる福音書8章26〜39節

26、27節a
主イエスと弟子たちの乗った舟は、ガリラヤ湖上で嵐に見舞われましたが、主イエスがその嵐をしずめられて、ガリラヤ湖の対岸、ゲラサ人の地に着きました。すると、湖の向こう岸に降り立った主イエスを、悪霊に取り憑かれた男の人が出迎えました。

このときの主イエスの湖の向こう岸に渡る旅の持つ意味がなんだったか、それをマルコによる福音書は、この船旅の直前に、種蒔きの喩えを記すことで示します。このとき、主イエスは湖の向こう側でも神の国の福音の種を蒔こうとなさったということです。
そこは神の国の福音の種を蒔く上で、どんな土地だったのでしょうか。主イエスが向こう岸に上陸したときに、主イエスと出会ったのが悪霊に取り憑かれた男の人だったことが、それを暗示しています。

主イエスがガリラヤ湖を渡られる直前に、種蒔きの喩えを記すマルコ福音書に比べて、ルカによる福音書では何が記されているでしょうか。ルカは主イエスの家族、その母と兄弟のことを記しています。そして主イエスの家族とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことであるという主イエスのお言葉を記しています。
海の向こう岸に住んでいたのは、血の繋がりのない、異民族の人々でユダヤ人ではありませんでした。でも、もし、その血の繋がっていない人たちが神の言葉を聞いて行う人になるなら、民族が異なっていても、文化が違っていてもなお神の家族なのです。果たして、湖の向こう側にも神の家族となる人が生まれるのでしょうか。

27節b〜31節
主イエスが湖の向こう岸に降り立たれたときに、最初に出会った人、その人のことを私たちが直に見聞きするなら、身の毛がよだつというか、人間性を失ったその姿におぞましい思いを与えられざるを得ないと思います。衣服を身につけない、家族であろうと人を近くに寄せ付けない、周りの人はこの人を鎖によっても押さえつけておくことができない、汚れた霊、悪霊に取り憑かれて、墓場へ、人さびしいところに出て行ってしまう。
そんな人が、どうして自分から、主イエスのもとにやってきたのでしょう。

主イエスとこの人の間で、言葉のやり取りがなされています。
彼は大声で、わめきながら「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないで欲しい」と、主イエスに申します。
それは主イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからだとあります。(29節)
最初に口を開いたのは、男の人ではなく、主イエスだったことになります。主イエスが汚れた霊に向かって、「わたしは命じる、この人から出てゆけ」と言われたのです。
それに対する答えが、先ほどの叫びです。悪霊は主イエスに自分を苦しめないで欲しいと頼みます。この苦しめるという言葉は、原語では虐待する、また拷問にかけるという意味もあります。悪霊は、自分を虐待しないでくれ、拷問にかけたりしないでくれと、よくも言えたものだと思います。悪霊が夜昼、絶え間なくこの男の人に精神的虐待、霊的拷問を加えていながら、自分には虐待は加えないでくれと言っているからです。自分はれっきとした加害者であるのに、自分が被害者になることを恐れるというのは随分、身勝手な、おかしなことです。
主イエスは、悪霊がこの男の人に虐待を加え、苦しめ続けていることを許さない、ただちにその虐待を止めよ、と命じられたのです。

もう一つの対話は、主イエスが男の人に「名はなんというのか」と問われたのに対して、男の人が「レギオン」と答えたものです。レギオンというのはローマ軍の軍団のことで、一軍団5千から6千人の兵士からなっていました。

これらの二つの問答、やり取りで男の人の口を通して語っているのは、本人ではなく、男の人に取り付いている悪霊です。
男の人、本人が語るとすれば、最初のやり取りでは「主よ、悪霊に苦しめられている私を助けてください」と言ったでしょう。また第二の、「あなたの名はなんというのか」との問いに対しては、自分が生まれたとき両親から与えられた名前を言ったでしょう。

神の国の福音をのべ伝えるために、湖を渡られた主イエスは、湖の向こう岸で一体、何を語られたのでしょうか。
悪霊が男の人を苦しめているのをご覧になって、主イエスは「悪霊よこの人から出てゆけ、この人のうちに住むべきは、お前ではない、この人に住むべきなのは、神の子たる身分を授ける聖霊なのだ」と言われたに等しいと言えましょう。聖霊がこの人に降るとともに、主イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたとき、天から響いた神のみ声、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなうものである」との父なる神からの声が、この男に人に対しても主イエスを通して語られ、聞かれるということです。

また、主は、あなたの名はレギオンではない。あなたは、わたしの父である神に愛されている、わたしの兄弟であり、父なる神の子こそ、あなたの名前なのだというみ言葉です。

31〜36節
悪霊たちは、底なしの淵に行けと命じないで欲しいと主イエスに懇願し、豚の群れに入ることを許可して欲しいと願います。主イエスはその願いを受け入れます。すると、男の人から出た悪霊は、豚の群れにのりうつって、豚の群れを暴走させ、マルコ福音書によれば2千匹もの豚が崖から湖になだれを打って飛び込み、溺れ死んだと言います。
主イエスはなぜ悪霊が豚の群れに乗り移ることを許可されたのでしょうか。
豚の群れには気の毒ですが、悪霊が取り憑いたままなら、この男の人の最後もどういう結末に至ったかを、これ以上はっきりと示すことはないほど、悪霊の正体、本質が、人を滅ぼすことにあることが明白に示されたと言えます。

では、悪霊が豚に乗り移りたいと願った理由はなんでしょうか。豚の群れが全滅したとき、ゲラサ地方の人々は、主イエスにこの地方から出て行って欲しいと願いました。
こうして、主イエスがこれ以上、この地方で神の国の福音をのべ伝えることができないようになったのでした。種蒔きの喩えの最初のケース、道端にまかれたタネを空の鳥が来て食べてしまった、まさにそのことが起きたのだと思います。サタンは人々の心から、また住んでいるその地域から神の言葉を奪うのです。主イエスがこれ以上、この地域にとどまって神の福音を語れないようにして、結果的に人々から神の福音を聞く機会を奪ったのです。

37〜39節
主イエスは舟に乗って、ガダラ人の住む地方を去って、またガリラヤの対岸、ユダヤ人の住むガリラヤの町々、村々に帰って行こうとされます。そのとき、悪霊を追い出していただいた男の人が、主イエスに一緒について行きたいと願います。
この人は、主イエスのみ言葉によって、人間性を回復し、正気になり、何より、主イエスの足元に座って、主イエスの御言葉に耳を傾け続けたいと願う人になりました。
この人に主イエスは、こう命じられます。39節。
この人は神の家族になりました。生まれはユダヤ人でなく、また、これまでは悪霊によって本当に悲惨な日々を送っていた人で、家族との関係も失っていた人でしたが、今、主イエスの言葉、神の言葉を聞いて行う人として、主イエスの兄弟、家族になったのです。
この人は主イエスに命じられた通り、家に帰り、神がこの人にしてくださったことを話して聞かせました。町中の人に、それを広めました。この人が、蒔かれた御言葉の種が百倍にもなった良い畑とされたことを、聖書は語っています。

主イエスの語られるみ言葉は、今も、神の国の福音として、わたしたちの間に豊かな実りを結ぶ、力ある言葉なのです。

「あなたはわたしの父であられる神に愛される子なのだ、あなたのうちに住まうべきは悪霊ではない、神に向かってアバ父よとあなたに呼ばせる聖霊である。悪霊がわたしの愛するものたちを苦しめることを、わたしが許さない。悪霊よ、お前たちに命じる、虐待、拷問、イジメを直ちにやめよ、そして出てゆけ。この人からも、この地域からも、この国から、世界からも出てゆけ。二度と戻ってくるな。」

わたしたちは、このイエス・キリストの福音によって、今、戦争をし、血を流しあう民族が、また偏見や差別によって憎み合ったり、恨みあったりしている国と国、民族と民族が、その敵意の壁を超えて、神の家族として、愛し合い、兄弟姉妹の交わりに入ることを信じ、感謝し、喜んでいます。

神の御言葉がいよいよ力を増し、豊かな実を結ぶに至りますように。

父と子と聖霊の御名によって。