聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第32回「向こう岸に渡ろう」
説教  澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇46章1〜12節
新約聖書 ルカによる福音書 8章22〜25節

 

ルカによる福音書連続講解説教 第32回「向こう岸に渡ろう」
ルカによる福音書8章22〜25節

22節
主イエスはこのとき、ガリラヤ湖の向こう岸に渡って行こうとされました。ガリラヤ湖というのは、そう大きな湖ではないようです。長さ21キロ、幅12キロ。琵琶湖の長さが64キロ、幅が22キロと言いますから、比べれば、長さは琵琶湖の3分の1、幅は2分の1。それゆえ、湖の向こう岸に渡ると行っても、玄界灘を渡るとか、ましてや太平洋を横断すると言った航海と比べれば、渡って行く距離は短かったわけです。
向こう岸、そこはゲラサ人の地方と呼ばれています。

マルコによる福音書は、このときの航海の直前に、種まきの譬えを記しています。
湖の向こう岸と、こちら側を比べたら、神の国の福音の種まきをする上で、大きな違いが予想されたと思います。
あの種蒔きの譬えで言えば、ガリラヤ湖のこちら側には、百倍もの実を結ぶ良い土地があったと思われます。主イエスが湖の向こう側から戻ってこられたとき、40節に、こちら側の岸には主イエスを待つ大勢の人々がいたこと、その人々は、主イエスの帰りを喜んで迎えたと書かれています。
それと比べたなら、湖の向こう岸のゲラサ人の地方には、主イエスを歓迎してくれる人々が果たしているのかどうか、そこで何が主イエスを待ち受けているのかさえ、予想がつかなかったでしょう。

それでも、主イエスはこのとき、ユダヤ人の住む地域を離れて、海を渡って異邦人世界に赴かれたと聖書は伝えています。ルカによる福音書では、主イエスがガリラヤ湖の対岸、ユダヤ人ではなく異邦人の住む地域に出てゆかれたということを記している箇所は、ここだけです。

でも、たった一箇所であっても、このことが書かれているということが、今日、異邦人世界に住んでいるわたしたちにとって持つ意味は重大です。
湖を隔てたこちら側の岸と、向こう側の岸。主イエスにとっては、たとえ、そこが福音宣教にとって良い地であっても、悪い地であっても、湖の向こう岸も、こちらの岸も、神の国の福音を宣教するところとしては同じでした。「向こう岸に渡ろう」。主イエスのこのお言葉にはその思いが込められています。

主イエスの福音宣教にとって、内と外はないのです。ある領域、ある地域の内側では福音が宣教されるけれども、ある一定の線を引いて、その外には主イエスは赴かれない、というようなことはないということです。

23、24節
舟には船頭というか、航海に責任を持つ人が必要です。船のキャプテン、船長がその船に乗っている乗客と乗組員、全員に責任を負います。このとき、舟に乗っていたのは誰でしょうか。8章1節以下に、主イエスの福音宣教の旅に同行していた人々が書かれています。その人たちが乗っていたと思います。女性たちもいました。主イエスの弟子にはペトロたちのような漁師上がりの弟子たちがいましたから、彼らが舟を操っていたのでしょう。でも、彼らには船を操縦する能力と経験があったとしても、この船の行先を決め、出港の合図を出し、その航行についての最終的判断を下す船長は誰だったでしょうか。それは紛れも無い、主イエスだったと思います。主イエスこそ、この船のキャプテン、船長でした。
舟がガリラヤ湖の真ん中まで来たとき、突風が吹き降ろし、舟は波をかぶって危険な状態に陥りました。しかし、そのとき、船に対する全責任を負うはずの主イエスは、眠っておいでになったのです。

宗教改革者カルヴァンは、このとき、舟を嵐が襲い、主イエスとその一行に危険が差し迫ったことについて、それは偶然ではなかったと言います。これが起こるのを許されたのは神であるというのです。
「神はみ子が激しい風にさらされることを、理由なしにお許しになるはずがない。神はこの機会に、弟子たちに対して彼らの信仰がいかに、小さく、弱いかを示すことを意図されたのである。・・キリストが眠っておられても、そして、天からの慰めと助けが直ぐにこないかのように思われても、神は見守っておられたのである。キリストが眠られ、激しい嵐が起こり、沈没しそうになるほど、舟が水をかぶっているという、これらすべてのことは、神のひそやかな摂理によって導かれていることを悟ろう。このことから、私たちが何か艱難にあうときはいつも、神がわたしたちの信仰を試すことを意図されていることを知ろう。」

先週、わたしたちは隣の国である韓国の現代史が、一言で言えば、「苦難」と呼ぶほかない歴史であったこと、しかし、その「苦難」は神がお与えになったものだったという説教を聞きました。苦難というほかない歴史の中で、一筋の希望の光が韓国の人々を照らしました。それは韓国のキリスト教、韓国の教会の信仰でした。神の摂理によって苦難を与えられた韓国に、神からの救いの日が必ず訪れるとの信仰でした。

24b、25a節
わたしたちは、ここに登場する弟子たちの姿の中に、弱さを見出します。まさに自分で自分を救うことのできない、むき出しの弱さです。
弟子たちは主イエスに助けを求めて「先生、先生、おぼれそうです」と呼びかけますが、このとき弟子たちが用いた「先生」という呼び名は、もともと上に立つというのが語源で、かしら、監督とも訳される言葉です。まさに舟とその航海に対する監督責任を一身に負っておられる、その主イエスに弟子たちは助けを求めたのでした。
わたしたち人間は、ひとしくこの弱さを身に負っています。正直に、その弱さを認め、その中から主に救いと助けを呼び求めるとき、主はわたしたちを顧み、わたしたちの手をとって滅びの穴から引き上げてくださいます。
それは、わたしたち人間が神さまの前に、正直に告白すべき弱さです。

しかし、ここには、もう一つの弱さが露わになっています。それは弟子たちの信仰の弱さです。その弱さについて、弟子たちは主イエスからお叱りを受けなければなりませんでした。第一の弱さについては、主イエスは弟子たちをお叱りにはなりません。かえって、深く同情し、憐れみ、助けの手を差し伸べられます。しかし、二番目の弱さについては、そうであってはならないと、お叱りになられるのです。

「あなたたちの信仰はどこにあるのか。」
主イエスは、弟子たちが嵐と危機の中でも、しっかりと信仰に立つことを求めておられるのです。弟子たちが主イエスに倣って、主イエスと共にしっかりと信仰に立つこと、それができていない信仰の弱さです。このもう一つの弱さもまた、私たちが抱え持っている弱さです。

「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」
主イエスが弟子たちにお求めになる信仰とはどのような信仰でしょうか。私たちは先にルカによる福音書の7章で、百人隊長の信仰を主イエスがお褒めになった箇所を読みました。
信仰とは主イエスのお言葉の権威に、聞き従うことです。主が行けと言われたら、行き、立てと言われたら、立つことです。そのお言葉の力の前に、風も波も、この世界の造られたすべてのものが、目に見えないものまで含めて、ひとしく服従するという信仰です。

今日の説教を通して、わたしたちは「向こう岸に渡ろう」と言われた、主イエスの御言葉に聞き従いたいと思います。
主イエスのみ言葉が、権威と力を持つ領域は、ある領域に限定されており、主イエスの権威が及ばない領域があると人々は考え、また信仰者であるわたしたちもそう考えることがしばしばではないでしょうか。日本という国はキリスト教にとって不毛の土地であると考える考えかたもそれに近いと思います。あるいは、主イエスは心と魂の救い主ではあるけれど、肉体の救い主ではない、それゆえに主イエスの救いは精神的領域には関わるけれど、政治的領域、物質的、科学的領域、また世界の歴史には関わらないし、関われない、そこでは主イエスの御言葉は何の力も権威も持たないと考える人も少なくありません。

そう考える理由は、どうも人々の経験に基づいているようです。もし、教会がそのような領域に舟をこぎだせば、たちまちにして嵐に巻き込まれて、沈没するほかなくなるのは目に見えていると思うからです。わたしたちが、主イエスの権威、主のみ言葉の権威は限られた領域に閉じ込められてはいないと信じて、進んでゆこうとすれば、教会はたちまちにして、内側も、外側も混乱し、危険に陥ります。このときの海を渡って行った舟の姿はそれを象徴的に示していると言えるでしょう。

では、教会は安全と思われる岸にとどまり、向こう岸へと渡ってゆこうとすべきではないのでしょうか。しかし、教会が向こう岸に、自分たちにとって未知な領域にまで、進んでゆこうとするのは、教会の主であられるイエス・キリストが自ら「向こう岸へ渡ろう」と先頭に立って進んでゆかれるからなのです。
それゆえ、もし、教会がそのかしらなる主イエスに聞き従わないで、教会独自の判断で、進むべきか、退くべきかを判断し、決定しようとすれば、そのとき教会は教会の主に対する決定的な背反の罪を犯すことになります。

今も主イエスは「向こう岸へ渡ろう」とわたしたちに言われます。そのとき、教会が危機に直面するのは、神の摂理なのです。教会はまさに自分の信仰の力によっても、自分の信仰的判断によっても、およそ、自分たちの力で立ち得ない「弱さ」を見に帯びた一団でしかないことが、危機にあってこれ以上なくはっきりと見えてまいります。

そのときに、教会はただ、神の言葉の権威をもってたちます。時代の嵐も、自然の嵐も静めることのおできになる、力ある主イエス・キリストのみ言葉とともに教会は立ちます。

主イエスは今日も言われます。あなたの信仰はどこにあるのか、と。わたしたちの信仰は、どこにあるのでしょうか。
信仰は、主イエスと共に、主イエスの中にあります。力あるみ言葉を語り、聞かせ、わたしたちをそのみ言葉に立たせてくださる、主イエスの中に、わたしたちの生きた信仰があります。

自然の嵐も、戦争の嵐も静め、平和をきたらす力に満ちた主のみ言葉は、わたしたちの不信仰の罪を取り去り、罪を赦し、わたしたちを悔い改めと感謝と喜びのうちに固く立たせる力があります。今日という日に、主のみ言葉に聞き従いましょう。

父と子と聖霊の御名によって。