聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第30回「聞く耳のあるものは聞きなさい」
説教  澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇138章4〜8節
新約聖書 ルカによる福音書 8章4〜15節

 

2023年7月16日 ルカによる福音書連続講解説教 第30回
「聞く耳のあるものは聞きなさい」 ルカによる福音書8章4〜15節

主イエスは教えを聞こうとして方々の町々から集まってきた大勢の群衆にたとえを用いてお話になられ、最後に、「聞く耳のある者は聞きなさいと」言われました。

もしも、だれかが外国語で何かを話をしたなら、その外国語、韓国語なら、韓国語、英語なら英語が聞き取れる耳を持っている人は、何が話されたかを聞くことができますが、外国語を理解する耳を皆が持っているわけではありませんから、そのような聞く耳を持っていない人は聞くことができないことになるでしょう。
では、主イエスはここで、外国語のような、聞く耳を持たない人が聞いても何のことかさっぱりわからないような話をされたのでしょうか。

ここで主イエスはたとえを用いてお話しになったと言われている、この「たとえ」というのは、聞いている人が理解できるように、わかりやすくするために用いるときの「たとえ」ではなくて、むしろ、反対のこと、わたしたちの間では、「なぞなぞ」と呼ばれるものを用いて話されたということです。

朝は4本足、昼間は二本足、夕方は3本足で歩くものは何、という謎かけは、聞いている人に一体、それは何を表しているのだろうと考えさせます。
主イエスがお語りになる「たとえ」も、ただ聞いたのでは、その意味していることはわからない。ヒントか何かをもらって、あ、そうかと言ってひらめく、最初聞いた時にはわからなかったことが、なるほどそうかとわかるようになる、そういうものでした。

弟子たちは、この時、主イエスがお話になられた種蒔きのたとえはどんな意味ですかと主イエスに尋ねました。彼らも、最初は聞いてもわからなかったのです。彼らは聞く耳を持っていなかったのです。それで、主イエスから謎解きをするように、たとえの意味を説明していただいたのでした。

これが、主イエスの説明、主イエスによる謎解きです。
種を蒔く人が種蒔きに出て行った。その種とは神の言葉である。
先週、8章1節以下を読みました。「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡られた」とある、これが種蒔く人が種を蒔きに出て行ったということでしょう。
蒔かれた種とは、それゆえ、神の国を告げ知らせる言葉、福音のことです。

主イエスが町や村を巡り歩いて人々に福音を告げ知らせたとき、人々はそれをどのように聞いたでしょうか。
先週、ご一緒に聞いたのは、特に女性たち、例えば7章に出てきた売春婦をしていた女性は、主イエスからあなたの罪は赦されたとのみ言葉を聞いて、その福音を信じました。その信じた女性に対して主イエスは、「あなたの信仰があなたを救った。」と言われ、また「安心して行きなさい」と言われたのでした。そう言われた女性はどこに行ったのでしょうか。聖書は、7つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリアのような女性たちが、自分自身を福音のために捧げて、主イエスに従うようになり、最終的に主イエスと共に福音を宣教する旅に加わって行ったと書いていますが、7章に出てきたあの罪を赦された女性も、主イエスが福音を告げ知らせて旅をする一行に加わったのでしょう。

そういう女の人たちがいた一方、主イエスが告げ知らせた福音を、女性たちが受け入れたようには受け入れようとしなかった人たちもまたたくさんいたに違いないと思います。例えば、7章に出てきた、主イエスを食事に招いたファリサイ人シモンは、主イエスの後に従って、福音宣教の旅に加わったとは思われません。

そうすると、主イエスがここでお話しになったたとえの意味はもうはっきりしたのではないでしょうか。女性たちのように、主イエスが語られた福音を信じた人たちは、福音の種が良い土地に落ちたケースであって、福音は彼女たちの人生において豊かに、何倍もの身を結んだだけでなく、多くの人々にも伝えられていった結果、百倍もの実を結ぶに至りました。

けれど、ある人たちは主イエスが語られる福音を聞くには聞きましたが、聞いた本人の人生は、聞いたことによって少しも変わらないままに終わってしまい、その人において福音の種が実を結ぶことがなかったばかりか、その人から他の人に福音が伝えられることもなかったので、結局、蒔かれた福音の種が結んだ実はゼロでした。

ここでわたしたちは、わたしたちは、私たち自身に向けられた一番重要な問いかけを受けます。

福音を聞かされている私は、果たしてこのたとえで語られているどの場合に該当するのかという問いかけです。
自分は福音を信じた女性たちのように、主に感謝し、自分自身を喜んで福音のために捧げているだろうか。福音は自分の人生において多くの感謝と賛美の実を結んでいるのだろうか。さらに、それを人々にも喜んで伝えようとしているのだろうか。福音の種は自分の人生において百倍もの実を結んだと言えるのだろうか。ということを自分自身への問いかけとして聞かなければなりません。

それとも、福音の種は私自身の人生においては、実を結ぶことなく終わっているのでしょうか。
自分の人生は、石地のような人生なのか、茨の生い茂る草むらのような人生なのか、はたまた、道端に落ちた種が悪魔によって奪い去られるような人生に終止しているのでしょうか。

日本に福音が最初に伝えられるようになったキリシタン時代以来、まもなく5百年が経とうとしています。福音が宣教されながらも、日本は石地のような伝道困難な土地だと言われてきました。遠藤周作という小説家は、その小説の中で宣教師に、この日本は、石地どころか、福音が芽を出しても、その根が腐り、苗が育たない泥沼のような所だと言わせています。

もしも、自分の人生が、またこの国の土壌が、蒔かれた福音の種にとって石地のような土地であったり、沼地であったり、茨の生い茂る薮や、道端であったなら、福音の種が失われてしまうほかはないのではないでしょうか。誰がどうやったとしても、福音の種が実を結べないのは、もう致し方ない、如何ともしがたいということにならないのでしょうか。

今日読んでいるこのたとえを、本当の意味で悟るとはどういうことなのでしょう。このたとえを、本当に深く理解し、信じるとはどういうことなのでしょうか。

わたしたちが聞く福音の種、それはイエス・キリストが救い主であられるという福音です。
そして、その福音の種が悪魔によって奪い去られようとする試練に襲われるということが確かにあると思うのです。

たとえば、シモン・ペトロがサタンによって試みられたときがそうだったと思います。
ペトロはサタンによって試みられて、主イエスを三度知らないと言ってしまいました。あの時、かつて主イエスに対して、あなたこそ生ける神の子キリストですと、告白した彼の信仰告白はいったいどこに消えていったのでしょうか。
しかし、主イエスはサタンの試みにあうペトロの信仰がなくならないように、ペトロのために祈ると言われました。ペトロは主イエスを三度知らないと言ってしまった後、鶏の声を聞いて、ハッとして我に返り、主イエスのそのお言葉を思い起こしたのでした。

サタンはペトロから信仰を奪い去ろうとしましたが、主イエスはペトロの心の中に蒔かれた主イエスのみ言葉がサタンによって奪い去られないように守ってくださったのです。

そのように、サタンの試練に遭遇させられることが、わたしたち信仰者にはあります。でも、主イエスが救い主であられるとの福音、その御言葉は主イエスが守ってくださるのです。わたしたちはペトロのように躓くかもしれません。しかし、主イエスはその罪と躓きの中にあって、なおわたしたちを愛し、赦し、再び立ち上がらせてくださるのです。これが福音です。そしてその福音の種は主イエスが救い主であってくださることによって、増えこそすれ、サタンの試みによってなくなることはないのです。聖霊もまた、サタンからわたしたちを守り助けてくださるのです。
このように、ペトロはサタンからの攻撃を受ける中で、もう一度主イエスの愛と、守りと、救いを信じたのです。そのとき、福音の種はペトロのうちで何倍もの実を結ぶことになりました。それはペトロが自分の力で結んだのではありません。主イエスが結ばせてくださったものでした。

石地のような迫害を受ける中でも、その試練と迫害に耐えさせ、乗り越えさせてくださる主イエスの真実を通して、また主イエスが与えてくださる恵みと忍耐を通して、わたしたちが結ぶ実は、主イエスへの心からの信頼と感謝と賛美の実です。
また、この世の人生の思い煩い、富や快楽からくる誘惑に関しても、主イエス・キリストにおいて愛してくださる父なる神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないことを知らされるようになります。そのようなわたしたちの人生を通して、神さまはご自身を賛美する賛美の実をわたしたちに与え、神さまに栄光を帰する栄光の実を与えてくださいます。それらはみな神さまが聖霊によって結ばせてくださる実なのです。

主にある兄弟姉妹、父なる神さまは、イエス・キリストによって、また聖霊によって、わたしたちの人生を良い土地に造り変えることがお出来になりますし、現に造り変えてくださっています。そのことのゆえに、主に栄光と賛美と感謝を捧げましょう。

父と子と聖霊の御名によって。