聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第31回「主イエスの家族とはだれのことか」
説教  澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩編133編1〜3節
新約聖書 ルカによる福音書 8章16〜21節

 

2023年7月23日 ルカによる福音書連続講解説教 第31回

「主イエスの家族とはだれのことか」 ルカによる福音書8章16〜21節

先週、主イエスがお語りになった「種蒔く人」のたとえを読みました。

「種を蒔く人が、種蒔きに出て行った」という言葉で始まるこのたとえ、ある種は道端に落ちて空の鳥についばまれてしまい、ある種は石地に落ちて芽は出したものの、根がなくて枯れてしまい、ある種はいばらに覆われて実を結ばなかった。良い畑に落ちた種だけが百倍の実を結んだという、このたとえで、種をまく人が蒔く種とは、神の言葉でした。8章1節に主イエスがユダヤやガリラヤの町や村を巡り歩いて、「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせた」と書かれているように、方々を巡り歩いて福音を宣べ伝えた主イエスが、種を蒔く人であり、主イエスが告げ知らせた福音が、蒔かれた種でした。その結果、蒔かれた種が実を結ぶに至ったかどうかは、福音を聞いた人々が、その福音を信じて救われたかどうか、さらにその人を通して、福音が多くの人々に伝えられたかどうかが問われたのでした。

今日わたしたちが読もうとしている箇所においても、同じことが取り上げられています。

16節に出てくる「ともし火」は主イエスが告げ知らせた福音のことです。「ともし火」をせっかく灯しながら、器で覆い隠したり、寝台に下に置く人はいないとありますが、種蒔きのたとえで福音の種が実を結んだとしても、さらに多くの人々に伝えられて行かない場合が考えられるように、福音というともし火の光が周りに広がらないということです。

そもそも、蒔かれる種や、ともし火である神の国の福音は何を告げているのでしょうか。その内容はなんでしょうか。

神の国の福音とは、神がイエス・キリストにおいて、わたしたちの父となってくださり、わたしたちは、イエス・キリストにおいて、互いに兄弟であり、神の家族であるということです。

幸いのおとずれ、喜びのおとずれと呼ばれるこの福音は、わたしたちにどんな幸い、どんな喜びをもたらすのでしょうか。わたしたちは神から、イエス・キリストを通して愛され、神と人を愛して生きてゆく神の子たちとされる幸いに召されることを心から喜んで生きるのです。

わたしたちはこの福音を、すべての人と共に信じ、すべての人と共にこの幸いにあずかるために、神から福音を聞かされているのですから、それが、人々に伝えられないままでいることはおかしいことです。

でも、実際には、福音を聞かされているわたしたちが、それを私蔵する場合がないとは言えないのではないでしょうか。

(例えば、・・・)

主イエスは、あなた方は世の光である。山の上にある町は隠れることができないと言われました。これは教会の建物のことを言っているのではなくて、わたしたちひとりひとりが世の人々の前で、福音の証人であるということを言っておいでになるのです。

17節で「隠れているもの」というのも、同じ、神の国の福音であると言えます。あるいは、主イエスの福音を信じたわたしたちの信仰と言ってもいいでしょう。

それは隠れたままでいることはない、隠れている状態から、露わにされると言われます。聖書がここで言っているのは、自ずと明らかになるという意味ではなくて、露わになるとか、公になるという言葉のギリシャ語の原語が受け身形、露わにされる、公にされるとなっていることからわかるように、隠された状態にあるものを明るみに引き出し、公にされるのは神様であるという意味です。

神さまがわたしたちに福音の言葉を授け、信仰を与えてくださるのは、それを私物化するためではなく、多くの人のためにそれを用いさせるためだからです。

わたしたちが聞いた福音が、最終的にどんな成果を生み出したかを、神さまは終わりの日に明らかになさるでしょう。

18節 だから、あなた方はどう聞くか、聞き方に注意しなさいと言われています。主イエスが告げ知らされた神の言葉、福音は、わたしたちすべての者が父なる神のこどもとされて、互いに愛し合うために、すべての人とともに福音を信じるようになるためにこれを聞かされていることを受け止め損なうことがないように注意しなければならないのです。

「持っている人はさらに与えられる」というのは、イエス・キリストから告げ知らされた、父なる神の子としていただくという福音を心から喜び、感謝する人は、同じく兄弟姉妹とされた人々を愛し、また、新しく福音を聞いて主イエスを信じて神の子とされる人々を祈り求めて行くことによって、いよいよその信仰と喜びと感謝の交わりが広がってゆき、その信仰と喜びがますます大きくされてゆくからでしょう。

しかし、福音の喜びを自分の心の中だけに閉じ込め、独り占めにする人は、自分が持っていると思っていた信仰と喜びすらも、取り上げられる日が来るでしょう。

主イエスの福音を聞いた人々の中には、主イエスの母、兄弟たちがいました。彼らもまた、福音をどう聞くかに注意しなければならない人たちでした。

ある意味で、他の人々と比べて、主イエスの家族こそ一番、福音をどう聞くかに注意しなければならない人たちだったと言えるかもしれません。つまり、主イエスの肉親ほど、福音を聞き損なう危険性の大きかった人はいなかったからです。

福音は、主イエスの父なる神を信じる信仰によって、神の子とされる喜びのおとずれですが、血筋が繋がっていれば、自動的に神の子とされると思ったら、大間違いです。家柄が物を言うとか、親戚、同郷の出身だから特別、優遇されるというのも、まったくの思い違いです。

むしろ、その正反対です。最も神から遠かった人、神を知ることもなかった、神と何の関わりもなかった人々が、神の一方的な選びと愛と恵みによって、神の子とされるということです。多くの罪を持つ、全くふさわしくない罪びとが、赦しに預かって神の子としていただく驚くべき恵みの知らせです。

主イエスの母だから、主イエスを生んだ最も近い存在だから、それだけ、神の国にふさわしいというのではなかったのです。主イエスの家族の者たちも、同じように、ただ神の憐れみと愛と赦しによって神の子とされるのです。この神の言葉を聞いて行うことなしに、主イエスの母であることも、兄弟であることもできないのです。

19節 主イエスの母と兄弟たちは、主イエスのところに何のために来たのでしょうか。会って話したいというのは、どういう用件だったのでしょうか。

ここと同じ場面を記すマルコ福音書を読むと、身内の人たちは、主イエスが、気が変になっていると言われていると聞いて、主イエスを取り押さえに来た(マルコ3:21)と書かれています。

主イエスの家族は、このとき、主イエスのことで人々から白い目で見られ、非難されることを恐れていたのかもしれません。

家族が主イエスに会って、主イエスの教えの内容について意見を言う、また主イエスの行動について忠告をする、こう言うことはあまり言わないほうがいい、ああ言うことはやらないほうがいい、主イエスの母も兄弟たちも、主イエスのことを良かれと思って、忠告しようとしたのだろうと思われます。

それに対して、主イエスはきっぱりと、神の言葉を聞いて行うこと、それが全てに優先しなければならないと言われました。それを抜きにしては、主イエスの母であることも、兄弟であることもできないと言われるのです。「人間に従うよりも、神に従わなければならない」。これは使徒言行録(5:26)でペトロ達がユダヤ人の指導者達に言った言葉ですが、それは、そのまま主イエスが家族に対して言われる言葉でもありました。

ルカによる福音書18章で主イエスは自分に従う弟子達にこう言われています。

「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」

主イエスにとっては父なる神の言葉、神の国の福音が、家族にも優先します。

主イエスの福音は、血の繋がり、肉の繋がり、親族であること、同じ民族であること、それが重んじられて、それが神の国に入る条件とされることを断固として退けるのです。そして、血によらず、肉によらず、ただ神の霊と、神の御心によってわたしたちが神の子であると言う真理がわたしたちの信じる福音なのです。

この真理に反することを主張する人とは、たとい自分の母であれ、兄弟であってもきっぱり袂を別つ他ありません。

でもその真理に従って神の国に召されるとき、わたしたちは家族を失っても、百倍の家族を与えられます。たとえ非国民と呼ばれ、民族を失うことになったとしても、福音によって世界中に民族を超えたて広がる神の民の一員とされます。

わたしたちが自分の思いを捨てて、主イエスに従い、主イエスの語られる福音に聞き従い、それを行うのです。

それが、わたしたちが、本当に主イエスの母、主イエスの兄弟となる道です。こうして、わたしたちはすべての人の父であられる神の子たちとされ、神に愛され、神を愛し、すべての人を愛する者たちとしていただくのです。

ここにある喜びを主イエスは次のようにたとえておられます。

マタイによる福音書13章です。

49節に「正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け」とあります。わたしたち自身も福音に背を向けて、福音の真理に従おうとしないなら、主イエスの家族ではあり得ません。そのような思いや生き方を、自分自身の中から取り除いていただきたいと思います。そして、神の栄光が輝き、神を喜ぶ喜びと、賛美と感謝が満ちる神の国の民にふさわしい者としてくださるように祈りたいと思います。

父と子と聖霊の御名によって