聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第29回「女性たちの奉仕」
説教  澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇40章1〜12節
新約聖書 ルカによる福音書 8章1〜3節

 

2023年7月9日 ルカによる福音書連続講解説教 第29回
「女性たちの奉仕」 ルカによる福音書8章1〜3節

1節 ここに主イエスが「神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」とありますが、この町々、村々を巡る福音宣教の旅はいつ始まったのでしょうか。それについて4章42節以下にこう書かれていました。主イエスは行く先々で、人々から自分たちのところにいつまでも留まってほしいと、引き止められたのでした。
そのとき、主イエスは人々の手を払いのけるようにして、「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」と言われました。その結果、ここに記されている通りに、主イエスのガリラヤとユダヤの町々、村々を行き巡る宣教の旅が続けられてきたのでした。

主イエスがガリラヤとユダヤの町々、村々を行き巡られたのは、ご自分が行って神の国の福音を告げ知らせなくても良いと思われる町や村が一つもなかったからでした。それは21世紀の今日に至るまで、主イエスの変わることのない御心であると思います。主イエスにとっては、今でもご自身の福音が告げ知らされなくても良い町、村は、日本の国内であれ、遠い南太平洋の島々であれ、この世界に一つもないのです。

主イエスにとって、行かなくても良い町や村がなかったというのは、場所のことだけを言っているのでなくて、主イエスが福音を告げ知らせなくても良いと思われた人が一人もいなかったことを意味しています。今日読んでいる箇所には「婦人たち、奉仕する」と見出しがついていますが、特に婦人たち、女性たちに主イエスの福音が届いたということ、そのことをしっかりと受け止めるべきだと思います。

昔、朝鮮半島に宣教師が伝道しようとしたとき、儒教の影響の強い韓国では男性の宣教師が女性に接触することはできませんでした。福音を届けることができない、そういう障害がありましたが、それだけでなく、ある時代まで、女性は数に数えられていませんでした。現にこの日本でも戦前まで女性には選挙権が与えられていませんでした。投票権を持つ国民の数に入っていなかったのです。社会的にも、男性には開かれていても女性には閉ざされていた職業はたくさんありました。医師も裁判官も弁護士もそうでした。それらの職業への就職の機会が与えられなかったために、女性には、教育の機会すら与えられてきませんでした。とりわけ問題なのは宗教上の男女差別でした。女性には宗教的指導者になる道は閉ざされていました。ユダヤ教の律法学者に女性の弟子はいませんでした。また会堂で聖書朗読をするのも、祈りを導くのも男性だけでした。女性は会堂の礼拝において、男性と並んで説教を聞くことすら許されていなかったのです。
みなさんがよく知っているあのマルタとマリアの話は、女性が礼拝において男性と一緒にみ言葉を聞くことが許されなかった時代背景を重ねて読めば、よくわかる話です。女性は主の足元に座ってみ言葉を聞いてなどいないで、台所で甲斐甲斐しく食事の世話をしていればそれで良いとされていました。
しかし、主イエスはそれをお望みになられません。主イエスは男性にも女性にも、等しく福音を語りかけなければならないと思っておられたからです。
その点で注目したいのは、冒頭1節の「すぐその後」という言葉です。この言葉は、ギリシャ語の原語を直訳しますと、「その後にひき続き起こったことは」となります。8章1節以下に書かれている主イエスの福音宣教の旅は、一体、何に引き続いて起こったことなのでしょうか。それは、7章50節に記されていますように、主イエスの告げ知らされる福音を信じて、救われる人々が起こされたとき、主イエスから「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた人たちはどこに行ったのでしょうか。
「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」との言葉を聞いて、その後に引き続いて起こったこと、それが救われた女性たちが、男性とともに、主イエスに従って、主イエスの福音宣教の旅に加わったということだったのです。

2、3節
主イエスの福音宣教の旅に、12人の男性の弟子たちと並んで、女性としてそこに加わった人たちの名前がここに記されています。
これらの女性たちは、同じように福音宣教の旅に加わった男性の弟子たちと比べてはるかに大きなハンディを負っていたように想像されます。例えばヘロデの家令クザの妻ヨハナと呼ばれるマリアという女性が上げられていますが、この女性は主イエスの一行と一緒に旅をした間、家のことはどうしたのでしょうか。その間、家を空けることを主人のクザが快く許してくれたのでしょうか。あるいは、彼女は離縁同然の状態で家を後にしたのでしょうか。また、彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕したと書かれています。ということは、クザの妻も自分の所有する財産を捧げたということでしょう。それを男性の弟子がしても非難を受けないのに、女性がすれば、ゴウゴウたる社会的非難が湧き上がったことでしょう。
しかし、この女性たちの行動、生き方が、男性と比べて不利であり、いわれの無い非難を受けなければならなかったとしても、かえってそのことが、福音の輝き、福音の恵みの大きさ、福音の福音たるゆえんを示すことになったのだと思います。
この女性たちが福音に奉仕したのは、救われた喜びに対する彼女たちの感謝を込めた献身としてでした。主イエスは彼女たちの病気を癒してくださり、彼女たちから悪霊を追い出してくださいました。彼女たちは癒された身を主に捧げたのです。
主イエスは多く赦されたものが多く愛すると言われました。主イエスの福音を聞いて、罪の赦しの恵みに預かり、福音を信じ、喜んで主イエスに従う人は、多くの罪を赦されたゆえに、より大きな愛を主イエスと隣人にたいして抱いて、主イエスと共に福音を伝えようとします。主イエスを愛することの多い人は、伝道することも多いのです。罪を赦されることの少ない人は、愛することも少ないので、伝道することも少ないのです。
先週、ファリサイ派のシモンと、人々から後ろ指を指されていた売春婦の女性の話を読みました。主イエスから少ししか罪を赦されることのなかった律法学者やファリサイ派の人々は、主イエスとともに福音を伝道しようとは決してしなかったのです。彼らは赦されることがすくなくて、愛することも少ない人達だったので、主イエスの福音を宣教しようとは思わなかったからです。しかし、多くの罪を赦され、それゆえ多く愛そうとしたこれらの女性たちは、喜んで福音宣教の旅に加わりました。

中でも、マグダラのマリアという女性に注目したいと思います。この人は主イエスによって7つの悪霊を追い出していただいたと書かれています。7つの悪霊にとりつかれるとは一体どういうことでしょうか。手の施しようがない、この人はどうやっても悪霊から自由になることはできないと周囲の者から思われ、本人もそう思っていたということでしょうか。
主イエスが神の国の福音を告げ知らせたとき、この人には福音は適用されない、この人は福音宣教の対象から外されているとお考えになった人は一人もありませんでした。7つの悪霊を追い出していただいたマグダラのマリアは、主イエスにとって諦める相手は一人もいないということをはっきりと示しています。彼女が7つの悪霊に取り憑かれていたということは、悪霊の支配から完全に自由にしていただくまで、彼女には非常に多くの時間がかかったということかもしれません。でも主イエスは、彼女が完全に悪霊の支配から自由になることができなかった間にも、彼女の信仰が不十分な時にも、彼女を諦めるようなことはなさらなかったということだと思います。
それゆえ、マグダラのマリアは主イエスの福音によって救われる、一番手のかかる、最後の人だったと言えるかもしれませんが、その一番手のかかる、最後にいたマリアが、この後、主イエスに従い続けてどうなっていったかを、わたしたちは聖書によって知らされているのです。彼女は、男の弟子たちが全員、主イエスを見捨てて逃げ去った後も、主イエスに従い続けることをやめませんでした。そして、彼女は、ゴルゴタの丘の上で最期を遂げられる主イエスを遠くから見守ったのです。それだけでなく、十字架からとり下ろされた主イエスの遺体が納められた墓をも見届けました。こうして、あの復活節の朝早く、だれよりも先に墓を訪れて、主イエスの墓が空であるのを発見し、主イエスの復活の最初の証人となったのでした。一番手のかかる、列の最後尾にいたこの女性は、ペトロやヨハネたちよりも、だれよりも先に復活の主イエスにお会いすることを許されたのでした。

テレビのニュースなどで、今なおアフガニスタンではタリバンの支配下で、女性たちが様々な規制を受け、若い女学生たちから教育の機会が奪われているのを見ます。女性が軽んじられるとき、女性だけが軽んじられるだけでなく、男性も含めた人間全体の権利が踏みにじられているのです。このようなことは、男性と女性の関係だけでなく、あらゆる面で言えることだと思います。障がいのある人が軽んじられる社会では、障がいのない人の権利も軽んじられ、文明の未発達な社会の人が無視される世界では、文明国に暮らす人々もまた無視されることになります。
それと同じく、主イエス・キリストの福音が宣べ伝えられない人が出てくることはやむを得ない、それは決して良いことではないけれど、致し方ないことであると考えるなら、その時、それならば、どうしてこのわたしに主イエスの福音が告げ知らされたのか、説明がつかなくなります。主イエスは、わたしを含めて一人ももれなく、福音を告げ知らされることを望んでおられます。わたしたちはすべての人が福音を聞かされることを望まれる主イエスと共に、福音をすべての人に告げ知らせようとしないなら、また、そのような形で神によって重んじられている人を、私たちが軽んじるなら、それによって自分自身を、福音を告げ知らされる相手にふさわしくない者にしてしまうのです。

今日の説教の最後に申し上げたいことは、女性の信徒に与えられている大きな光栄についてです。
8章1節以下の主イエスの宣教旅行における女性の弟子たちの奉仕は、おそらく、男性の弟子たちと比べた時、男性の弟子たちが直接、福音の宣教に従事するようになったのに対して、女性たちは、主イエスと男性の弟子たちの食事の世話をするなどという、裏方の仕事というか、男性の働きを支えるための奉仕が主であったと思われます。
しかし、そのような男性に対して一歩下がったところでの女性の働き、福音宣教への奉仕で非常に重要なものがありました。
今の時代は、福音宣教に、女性が男性とともに前面に立って奉仕するようになっていますが、女性にその道が閉ざされていた時代から、女性には、隠れたところで福音宣教のためにしてきた大きな奉仕があったのです。それは、罪を赦された恵みに感謝して、自分自身を捧げる、その献身のしるしとして、自分の胎に宿した我が子を福音のご用のために捧げるという信仰と祈りでした。

今日、献身者が切実に求められています。献身者が少ないのはかつて信仰の先輩であった女性たちが祈った祈りが少ないこと、その祈りの源となる主への愛の献身が少ないことからきているとすれば、今こそ、私たちはその祈りを祈りたいと思います。
教会は信仰者の母と呼ばれます。教会が、信仰者の母としての祈り、主への愛のゆえに、自らを主に捧げ、教会から生まれてくる新しい命を、主の福音のために捧げる熱い祈りを祈りたい、そのような祈りを捧げる教会とされたいと願います。

父と子と聖霊の御名によって