聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第28回「多く赦された者は多く愛する」
説教 澤 正幸 牧師
旧約聖書 エゼキエル書36章18〜27節
新約聖書 ルカによる福音書 7章36〜50節
2023年7月2日 ルカによる福音書連続講解説教 第28回
「多く赦された者は多く愛する」 ルカによる福音書7章36〜50節
ルカによる福音書7章36〜50節を読んでいただきましたが、ここは4つの部分に区切られています。今から、それらの区切りごとに読み進んで行きます。
その4つに区分される全体を一つのテーマが貫いていることに気付かされます。4つの部分を貫いているテーマというのは、主イエスの友、友人、友情です。
最初の区切り、36節から39節に二人の友が登場します。一人は主イエスを食事に招いたファリサイ派の人です。この人の名はシモンと言いました。主イエスを食事に招いたということは、シモンが主イエスのことを自分の友人だと思っていたということです。
もう一人の友というのは、その食事の席に現れた罪深い女の人です。この女の人は、いわゆる「招かれざる客」としてその場に現れます。今日読んでいるすぐ前の34節に、主イエスが「徴税人や罪人の仲間だ」と嘲りを受けていたことが書かれていますが、そこで徴税人と並んで挙げられている罪人の代表格が、今日の箇所に登場する罪深い女の人、つまり売春婦たちでした。ここで仲間と訳されている言葉は、文字通り訳せば友達という言葉です。
主イエスを友人として食事に招待したファリサイ派の人は、主イエスには、売春婦であるような友がいることを目の当たりにして、当惑し、主イエスを招いてしまったことを後悔し始めていたと思われます。確かに、その場に居合わせた人たちは、その人が普通の社会的感覚を持ち合わせていたなら、このとき、女の人が主イエスに対してした行為を、異様な感じを持って受けとめたに相違ないと思います。
第二の区切りは40節から43節です。主イエスは自分を招待したファイリサイ人シモンに一つの喩えを話されます。これは、旧約聖書に出てくるエピソードとよく似ています。ダビデ王が罪を犯したとき、預言者ナタンがダビデ王のもとに来て、ダビデがウリヤの妻バテシバとの間に犯した姦淫の罪について咎めようとしましたが、そのとき、預言者ナタンはいきなりダビデのした行為を指摘せずに、遠回しに一つの喩えを用いました。その譬え話を聞いたダビデは譬に出てくる非道な仕打ちをした人物に怒りを示しますが、そのときナタンは、ダビデにむかって、「王よ、それはあなたです」と言ったのでした。ここで主イエスが語られた譬に出てくる二人の人は、36節から39節に出てきた主イエスの二人の友人です。この譬によって、ファリサイ人シモンは外から自分を見る目、最終的には神さまの目に自分がどう映っているかに気付かされます。
第三の区切り44節から47節において、二人の友人の主イエスに示した友情が対比されます。シモンは主イエスに対して足を洗う水も出さなかったのでした。挨拶の接吻もしませんでした。客人を丁重に迎える歓迎のしるしとしての香油も塗らなかったのです。女の人がしたことはいささか過剰だと思われたとしても、もし、彼女の心の中に、主イエスがファイリサイ人から冷淡にあしらわれていることへの同情があったとしたらどうだったでしょうか。しかも、主イエスがそのように人々から不当にも冷たく、軽んじられている理由が、他でもない、主イエスが自分のように蔑まれている売春婦や徴税人たちと付き合い、その人々の友となってくださっているためであることを思っていたとすれば、女の人はいよいよ主イエスへの思いを込めて、感謝を表そうとしたと考えられるのではないでしょうか。
47節は、互いにあい対立する考え方を示しているかのようです。一方で、この女の人は多く愛したから、多くの罪を赦されたといわれており、他方、多く赦された人が多く愛する、すくなく赦された人は少ししか愛さないという、罪を赦されたから、その感謝の表れとして愛している、愛は赦しの結果だと言われていて、二つの向きが正反対の考えが、ここに並べられているように思われます。しかし、あまり込み入った議論をするまでもなく、罪を赦されることと、愛することが一つとして、二つを切り離すことはできないということを、私たちとしてはここから受け取っておきたいと思います。
そして、最後の第四の区切りが48節から50節です。ここで、これまで一貫していた主イエスの友人というテーマに関わって、ファイリサイ人シモンという友人、それに対比される罪深い女の人という主イエスの友人の他に、第三の友人が登場します。49節の「同席の人たち」です。この人たちも主イエスと食卓を共にしていたという意味で、主イエスの友人でした。第二の区切りの譬で出てきましたように、多く赦された友人に対して、少なく赦された友人がいて、その対比はまず、ファリサイ人シモンと罪深い女性に関してなされましたが、第三の友人たちも、ファリサイ派の人や罪深い女性と比較して、その赦された負債が多かったか、少なかったかはどうだったとしても、負債を免除されたことは事実です。第三の友人を通して、わたしたちは自分のことを考えずにおれないと思うのです。
わたしたちは主イエスの友人でしょうか。主イエスはわたしの友でしょうか。
こうして、今日も主イエスの招きを受けて、礼拝に集い、とりわけ主の食卓である聖餐にあずかるよう招かれているわたしたちは、確かに主イエスから友と呼んでいただいている者たちです。
では、主イエスから友としていただいているわたしたちにとって、主イエスがわたしたちの友であるなら、わたしたちの主イエスに対する友情はいかなるものでしょうか。その友情、その愛情はファリサイ人シモンが示したような、あまりにそっけないものに終始しているのでしょうか。そして、もし、わたしたちの主イエスへの愛情が非常に少ないとすれば、それは、わたしたちが赦されることが少ないことからくるのでしょうか。
主イエスは女の人に「あなたの罪は赦された」と言われます。わたしたちは主イエスにどんな罪を赦していただいたのでしょうか。
わたしは最近になって2011年の福島原発事故について、それがどのような出来事であったのかを二冊の本を通して初めて認識するようになりました。
わたしが得た認識とは次のようなものでした。2011年3月15日に、地震が起こってから4日目、福島原子力発電所に「東日本壊滅」に至りかねない3つの危機が訪れたということです。それらの3つの危機は、まったくの偶然という他ない理由から、免れることができたので、人はそれを「3つの奇跡」と呼びますが、日本の歴史は危ういところで永らえることができたというのです。その3つの危機とは、具体的には次のようなものでした。
- 2号機 格納容器内の圧力上昇による破壊の危険 ベント(圧力抜き)が停電で不可能 手動は放射能危険で不可能
3月15日朝、大爆発を覚悟 2号機の格納容器が欠陥品であったため圧力漏れにより大爆発に至らず - 4号機 使用済み核燃料貯蔵プールの水が干上がり、放射能物質の大量放出の危険
東京都の全域、横浜市を含む250キロ圏内(4000万人居住)にも放射能汚染が起これば「東日本壊滅」の危機
工事の遅れで抜かれていたはずの水が抜かれないまま残り、仕切りがずれてその水がプールに流れ込んで危険を免れる - 免震重要棟の外の放射線量が高く、屋外の作業ができなくなる 昼頃、放射線量が落ちて、作業可能となる
福島原発事故で放出された放射性物質量は広島原爆の百倍を超えていた。
北風が吹き、プルーム(放射性物質を含む雲)が東京に達して雨が降れば、東京の首都機能は失われていた
風向きは運次第で変わり得た。
元裁判官の著者は「我が国の歴史上の最大の危機は、先の大戦でもなければ、蒙古襲来でもないし、コロナ禍でもない。10年前の2011年3月15日が最大の危機だった。」と結んでいました。
この事故から得た教訓は明らかだと著者は述べています。
原子力発電所にはもともと、安全三原則と言われる「止める」「冷やす」「閉じ込める」という原則があったけれども、そのうち、「止める」という原則は東日本大震災のとき守られて、原発を止めることはできた。しかし、第二の「冷やす」という原則に関しては、地震と津波による「外部電源喪失」により原発を冷やすことができなかったため守られなかった。そして、第三の「閉じ込める」という、放射能を外部に放出しないで「閉じ込める」という原則も守られなかった。それゆえ、今後も地震が発生したときに、福島のときに起きたような「冷やす」「閉じ込める」ことができずに放射能汚染を引き起こす危険がないかどうか、一つ一つの原発について判断しなければならない。
このような原発事故についての事実を知らされた以上、またそこから得た教訓が何かがわかった以上、それについて黙っていることは許されないことだと書いておられます。「無知は罪だけれども、無口はもっと罪」だというのです。そしてその本の最後に黒人運動の指導者マルチン・ルーサー・キング牧師の次のような言葉を引用して、本を閉じています。
「究極の悲劇は悪人の圧政や残酷さではなく、それに対する善人の沈黙である。結局、我々は敵の言葉ではなく、友人の沈黙を覚えているものなのだ。問題に対して沈黙を決め込むようになったとき我々の命は終わりに向かい始める。」
わたしは、日本が福島原発の危機を奇跡的に、本当に偶然としか言いようのない仕方で免れていることを、神さまからの罪の赦しとして受け止めずにおれません。そのような罪を赦していただいたということは、わたしが、神さまを愛して、ひたすら主イエスに従って、隣人を愛してゆくことと一つです。人からどう見られようと、どう言われようと、愚かなまでに罪を赦していただいた感謝と、その恵みを無駄にしない生き方、愛をもって人々に仕えてゆく生き方をしたいと思います。
主イエスが女の人に言われた最後の「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」というお言葉を重く受け止めたいと思います。
「安心していきなさい。」これは原文を直訳すれば、「平和の中へと進んでゆきなさい」と訳せます。主イエスがわたしたちを救ってくださる信仰は、わたしたちに、平和のない世界に平和をどこまでも追い求めて、平和を作り出すために、喜んで労苦を負い、戦うことを厭わない人生を生きさせるのです。
父と子と聖霊の御名によって。