聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第26回「わたしにつまずかない人は幸いである」 説教 澤 正幸牧師
使徒書簡 ペトロの手紙(1) 1章3~9節
新約聖書 ルカによる福音書 7章18〜30節
2023年6月11日 ルカによる福音書連続講解説教 第26回
「わたしにつまずかない人は幸いである」 ルカによる福音書7章18〜30節
18、19節
領主ヘロデによって牢に閉じ込められていたバプテスマのヨハネは、獄中で弟子たちから主イエスのなさっておられることを聞きました。すると牢の中からヨハネは二人の弟子たちを主イエスに遣わしてこう尋ねさせました。
「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。
原文では、「あなたが」という言葉が質問の冒頭に来ています。他でもないあなたが、来るべき方なのですか、と、「あなた」に強調点がおかれています。
ユダヤ人にとって神がイスラエルの先祖に約束されたメシアがやがて来るということ、そして、そのメシアを待つということが、ユダヤ人にとっての最大の関心事でした。来るべきメシアを待望することがなければ、ユダヤ人に存在意義はないと言えるほど、メシア待望にユダヤ人のすべてがかかっていたと言って過言ではないと思います。
この「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」という問いは、今なお、問われ続けている問いなのです。
ナザレのイエス。そのお方が十字架につけられて殺されてから2千年以上経っていますが、今に至ってもなお、世界中のユダヤ人たちにとって、来るべき方はナザレのイエスだったのか、それともほかの方を今なお待たなければならないのかは、自分たちの問いであり続けています。
当時の人々は等しく、この問いの前に立たされていました。ユダヤ人の指導者であった律法学者やファリサイ派の人々にとって、ナザレのイエスはだれなのかは無視したり、見過ごしにしたりできるような問題ではありませんでした。また名も無い大勢の民衆にとってもそれは真剣な問いでした。民衆だけでなく、ヨハネを投獄し、さらに処刑してしまった権力者ヘロデまでもが、イエスの名を聞いたとき、一体イエスは何者かと言ったと書かれています。(ルカ9:9)
そのとき、ヘロデが、あれは自分が首をはねたバプテスマのヨハネが死者の中から生き返ったのだと言ったこと(マタイ14:2)、民衆の間でも、主イエスのことを洗礼者ヨハネだというものたちがいたということが書かれています。(ルカ9:19)
しかし、主イエスがヨハネではないことを、だれよりよく知っていたのはバプテスマのヨハネ自身でした。そして、そのヨハネが主イエスに問うているのです。「あなたはだれなのか」と。ヨハネは神から遣わされて、来るべきメシアを迎える道を備えるために生きてきたのです。そのヨハネ以上に、主イエスに対して、この問いを発する資格のある人は、他にはいませんでした。
ヨハネが生涯のすべてと魂をかけて問うた問いに対して、主イエスは、然り、イエス、否、ノーのどちらだと、答えられたのでしょうか。
22、23節
ヨハネの問いに対する主イエスの答えはイエスです。でも、単刀直入に「わたしこそ、あなたが待っていた来るべき者である」と答えないで、このような答え方をされたのはなぜでしょうか。
主イエスが「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」と言われたことは、ルカはそれを21節にわざわざ要約して記していますが、同じことが先に18節に「ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた」と書かれているように、弟子たちによってヨハネに伝えられ、ヨハネはそれをすでに聞かされて、知っていたことでした。
ヨハネは、それらのことを聞いた上で、なお、「あなたが来るべきお方ですか」と問うていたのだと思います。ですから、このときのヨハネと主イエスの間のやりとりは、ヨハネは弟子たちを通して、主イエスのことについて聞いたことだけでは、主イエスが本当に来るべきお方だと確信できなかったので、「あなたが来るべきお方なのですか」と問うたのだと思います。そうだとすれば、主イエスのそのようなヨハネに対する答えは、わたしが来るべき者であることを信じる上で、あなたが聞いている以上のことは何もないというものだったのです。
23節の「わたしにつまずかない人は幸いである」というお言葉は、今、人々が主イエスについて見聞きしていることでは、主イエスが来るべきメシアであると信じる上で十分ではない、それだけでは到底満足できないという人たち、このようなお方がメシアであるはずはないと言って、主イエスにつまずく人たちがいるだろうけれど、このような主イエスにつまずかない人たちは幸いだと言う意味だと思います。
24節
獄中のヨハネのところに弟子たちは主イエスの答えを持ち帰りました。ヨハネは主イエスの答えを聞いてどう思ったでしょうか。
主イエスの答えを聞いてヨハネがどう思ったかはここに書かれていません。ヨハネはやがてヘロデに首を切り落とされて死んでゆきました。死に臨んだヨハネの心中がどうだったのか、私たちには知る由もありません。ヨハネ本人がどう受け止めたかはわかりませんが、主イエスの答えをヨハネに届けたヨハネの弟子たちはどうだったでしょうか。彼らは主イエスのつまずかないで済んだのでしょうか、それともつまずいたのでしょうか。
ヨハネが無残にも殺されてゆく中で、ヨハネの弟子たちがそれでも主イエスのこの言葉につまずかないで済んだだろうか、そう思うと、つまずかないことは困難に思えます。
ユダヤ人の指導者たち、祭司長、律法学者、ファリサイ派の人々の中でナザレのイエスにつまずかなかった人は一人もいなかったと言えるほど、当時のユダヤ人たちはほぼ全員がナザレのイエスが来るべきメシアであるとは信じませんでした。
主イエスが本当に来るべきメシアなのか、それは主イエスの弟子たちにとっても重大かつ深刻な問いでした。それがついに問われるにいたった時のことは9章に至って書かれます。
9章18〜20節
ペトロが主イエスこそ、神からのメシアですと答えました。そのときです。主イエスの口からメシアはいかなる者であるかが明らかに告げられました。これは弟子たちにとってつまずき以外の何物でもなかったのです。
「わたしにつまずかない者は幸いである」
ヨハネの弟子たちがつまずき、ユダヤの最高議会サンへドリンの議員たちがつまずき、そして、最後に主イエスの一番そばにいた弟子たちまでもがつまずいてゆきます。特に弟子たちは、主イエスが十字架につけられる最後の夜、弟子たちに「今夜、あなた方は皆、わたしにつまずく」(マタイ26:31)と言われたように、全員がつまずいてゆきました。ペトロが「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った時、主イエスは「そう言うあなたが、今夜、鶏が鳴く前に三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われた通り、ペトロに至っては、再起不能と思われるほどひどくつまずいてしまったのでした。
では、最終的にバプテスマのヨハネはどうだったのでしょう。彼もまた主イエスにつまずいたのでしょうか。バプテスマのヨハネはメシアの到来に向けて、道を準備しようとしたとき、何を呼びかけたでしょうか。彼がメシアを迎える備えとして呼びかけたのは、罪の赦しをいただくための悔い改めでした。
主イエスがわたしにつまずかない者は幸いだと言われたとき、主イエスはわたしたちがつまずくことはないと言われたのではなかったのだと思います。つまずいても、それを通して、自分の罪を認め、悔い改めて主イエスを通しての罪の赦しを信じる道が開かれていること、それこそが最も大事なことだと思います。
何かが足らない。主イエスでは不十分だ、そう思う間は、主イエスにつまずくほかはないでしょう。しかし、この主イエスで十分である。この主イエスにおいて、神は私たちに確かな救いを差し出してくださっている、そのことを知り、また信じることは、バプテスマのヨハネ自身においても、自分の問題だったのだと思います。ヨハネも他の人々に悔い改めを要求するだけでなく、彼自身、悔い改めによって神の国に入る人の一人でした。
神の預言者として、来るべきメシアへの道備えをするために懸命に走り、最後は断頭台の露と消えていったバプテスマのヨハネにとっても十字架の主イエスはつまずきではなく、信ずべき、寄り頼むべき、救いの岩であったのです。
わたしたちにも、今日という日に、貧しい人々に対する福音が告げ知らされています。
神の喜びの知らせである、福音の核心である神の喜びについての、ボンヘッファーの文章を紹介したいと思います。
何ものによっても打ち破られない喜び
ディートリッヒ・ボンヘッファー喜びは神とともにあり、いと高き神から降ってきて、人の精神、魂、身体を包み込みます。神からの喜びが人をとらえるとき、喜びがそこに広がり、喜びが人を持ち運び、喜びによって閉ざされたドアがパッと開けます。世には心の痛み、苦悩、恐怖をまったく知らないような喜びもあります。そのような喜びは長続きしません。そのような喜びは、ほんの少しの間だけ、人の痛みの感覚を麻痺させるだけです。しかし神の喜びは、飼い葉桶の貧しさと十字架の苦しみを通って行ったものであり、だからこそ何ものによっても打ち破られず、反駁することもできません。神の喜びは、苦悩がそこにあるとき、それを否定するのではなく、その中に神を見いだします。実際、苦悩の中にこそ神はいてくださいます。神の喜びは重大な罪を見過ごしませんが、その中にこそ罪の赦しを見出します。神の喜びは、正面から死を見つめますが、まさに死のただ中に命を見出します。
この何ものによっても打ち破られることのない神からの喜びの知らせ、あらゆる貧しさの中に置かれているわたしたちが、重大な罪の中にも罪の赦しを、死の中にも命を見いだすことを許される神の喜びについての知らせ、それが、今日、わたしたちが聞くことを許されている主イエス・キリストの福音なのです。
父と子と聖霊の御名によって。