聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第27回「神の知恵の正しさ」

説教  澤 正幸 牧師
使徒書 コリントの信徒への手紙(1)1章17〜31節
福音書 ルカによる福音書 7章24〜35節

 

2023年6月18日 ルカによる福音書連続講解説教 第27回
「神の知恵の正しさ」 ルカによる福音書7章24〜35節

24〜27節
バプテスマのヨハネが獄中から遣わした二人の弟子が、ヨハネのもとに帰って行きました。「来るべき方はあなたですか、それとも、他の方を待たなければなりませんか」と獄中から問うたヨハネに、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」と言われた主イエスの答えを携えて、二人が戻って行った後、主イエスは群衆に向けて、ヨハネのことを語り始められました。

「あなた方は荒れ野に何を見に行ったのか、そこであなた方は何を見たのか。」そう主イエスは問われます。
この問いかけは、主イエスがヨハネのもとに持ち帰らせた答えに対応しています。
「あなた方が、今、わたしについて見ていること、聞いていること」、それは何なのか、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、ライ病人は清まり、耳の聞こえない人が聞こえ、死者は行き帰り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」

当時の人々、それは31節で何にたとえようかと言われている「今の時代の人たち」を指しています。29節、30節に出てくる、民衆、その中には徴税人も含まれていますが、それと民衆の指導的立場にあったファリサイ派の人々、律法の専門家たち、そして獄中のヨハネとその弟子も主イエスと同時代の人々として、ヨハネが登場して、預言者としての活動をし、それに続いてユダヤに登場した主イエスが、人々を教え、様々なみ業を行っていたのを、直接、見たり聞いたりしていた人々です。

そのヨハネと主イエスが生きて活動していたのを見ていた当時のユダヤ人たちは、二人のことをどう受け止めたのでしょうか。ほとんどの人は二人に対して否定的態度をとりました。当時の人のみんながみんな、二人を拒んだわけではなく、中には二人を受け入れた人たちもありましたが、そのほとんどが、わけてもユダヤ人の宗教的、政治的指導者は全員、二人が神から遣わされた者であることを認めませんでした。

ルカによる福音書20章にそのことが書かれています。民衆はヨハネを神が遣わされた預言者であると信じていましたが、エルサレムにいた祭司長、律法学者、長老たちは、ヨハネに神からの権威を認めていませんでした。
ヨハネに与えられた神からの権威を信じないそれらの祭司長、律法学者、長老たちは、主イエスに対しても神から遣わされた者としての権威を認めませんでした。

31〜34節
葬式の歌をうたうと例えられているのは、洗礼者ヨハネのことです。泣かなかったのは当時の人々のことです。ヨハネは、すべての人に向かって、罪を悔い改めることを求めました。しかし、人々、特にファリサイ派の律法学者たちは悔い改めのバプテスマをヨハネから受けようとはしなかったのでした。

他方、笛を吹いて、踊ることを求めるのに例えられているのは、主イエスのことです。ヨハネの弟子たちが断食していたとき、主イエスの弟子たちは、今は花婿がともにいるゆえに喜んで祝うべき時で、罪を赦された罪人たちと共に、放蕩息子が帰ってきた時のように喜び楽しんで踊るべき時だと言ったのでした。

ヨハネと主イエスの二人に対する民の指導者たちの反応は実に冷淡なものでした。ヨハネに対しては「あれは頭がおかしい。正気ではない」と切って捨てました。ヨハネが領主ヘロデの罪を公然と指摘し、その結果投獄され、最後はヘロデによって首を切り落とされ、刑場の露と消えて行ったことについて、民の指導者たちがヨハネのことを同情することも、悲しむこともなかったとすれば、これらの人々の心は石のように固く、鉄のように冷たいと言わざるを得ないと思います。ヨハネに続いてこられた主イエスに対しても、あからさまに軽蔑し、非難の言葉を浴びせるだけでした。

みなさん、ここで問題になっているのは、当時の人々が、単にヨハネや主イエスに否定的態度をとったこと、ヨハネの呼びかけに答えようとせず、主イエスの説教にも耳を傾け、喜んでそれを受け入れ、信じようとしなかったということで終わる問題ではありません。それだけではなく、ヨハネと主イエスの二人を拒んだ人々は、それによって二人を遣わしておいでになる神の御心を拒み、神に反抗し、神のなさっておいでになることを否定していたこと、それが深刻な問題でした。

今でも同じことが言えます。みなさんが、講壇から牧師の語る説教に反発を覚えるということ、説教についてゆけないと感じることはありうると思います。説教者も偏りのある人間である以上、聞くみなさんが素直に牧師の聖書の解き明かしを受け入れることができない場合がきっとあるでしょう。でも、説教で問題なのは、最終的には、人間の思いではなく、神の御心は何なのかということです。洗礼者ヨハネの時代の人々は、単に二人に対して批判的、否定的態度をとっていただけではありませんでした。二人を遣わし、二人を通して語りかけ、二人を通して招いておいでになる神を拒んでいたのです。神を拒むことは、それにより自分が神から拒まれることになります。

ここから、今日の説教の主題である「神の知恵の正しさ」ということに入ってゆきたいと思います。当時のファリサイ派、サドカイ派の指導者たちは、常日頃、自分たちが知恵のあるものたちだと思っていたと思います。彼らは、自分たちを「盲人の手引きする案内者」であると自認していたからです。

自分に知恵があるということは、自分がだれかを知っているということではないでしょうか。自分がいかなる存在かをわきまえている人が知恵のある人だと思います。ファリサイ派、サドカイ派の指導者たちは自分の知恵という物差しで測った結果、主イエスとヨハネを知恵にかなわない、愚かしい存在とみなしたと言えるでしょう。

主イエスは、当時の指導者であったファリサイ派、サドカイ派の教えによくよく警戒しなさいと言われました。彼らについて警戒すべき中心点は、彼らが「天からのしるし」を求めていることにあると言われました。

彼らが主イエスに対して求めた「天からのしるし」とは、直接、誰が見てもわかるような、超自然的現象を指します。最後の最後、十字架に架けられた主イエスに向かって、十字架から飛び降りて自分を救って見よ、それを見たらお前がメシアであることを信じようと言ったのも、彼らが主イエスに求めた「天からのしるし」の一つでした。

このような「天からのしるし」を求めるファリサイ派、サドカイ派の考えでは、神の知恵というのは、自分たちの考えや価値観に合致すること、自分の価値観を補強し、強化するもののことなのです。それに対して主イエスは、そのような自分の考えに合致するしるしを求める彼らの主張する信仰は、不信仰、生ける神をまったく信じない不信仰に他ならないと言われました。

彼らにとって、神の思いは改めて、新しく神から聞くまでもなく、最初からわかっているのです。神は自分たちの考えること以外のことを考えることはないからであり、自分たちの価値判断が、外でもない神の価値判断だからです。

神の知恵は、結局、自分たちの知恵のことになってしまいます。しかし、これはまさに生きる神に対して、目が閉ざされ、耳が聞こえず、知恵のひとかけらもないということでした。

イザヤ書が言っている「わたしの思いは、あなたたちの思いとは異なり、わたしの道はあなたたちの道とは異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、私の道は、あなたたちの道を、私の思いは、あなたたちの思いを高く超えている」(イザヤ55:8, 9)ことを何も知らないことに等しいのです。

主イエスは、そのような「天からのしるし」を求める今の時代には「ヨナのしるし」のほか、しるしは与えられないと言われました。

今日の会報の裏に紹介の記事を書かせていただきましたが、先週、博多港に「ヨナのクジラ」という名の小さな6人乗りのヨットが寄港しました。このヨットは、今、東シナ海と呼ばれている海域にある島々、済州島、奄美諸島、沖縄、宮古、石垣、与那国、さらに台湾を巡って、そこが、現在、大国の軍事的対立の前線になって、そこにミサイルが隣国に向けて発射される基地が作られることにより、その島とそこに住む住民が攻撃の対象にされ、戦争の脅威にさらされていることに、島々で反対の声をあげている人々を訪ね、励まし、連帯し、共に平和を希求するための旅を続けています。

この小さなヨットが台風の襲来するかもしれない危険の中、帆をあげて風を頼りに大海原を航海するとき、ヨナがクジラの腹の中から主に助けを求めて叫んだように、このボートの安全を祈り求めることを通して、小さなボートが象徴しているわたしたち、戦争の脅威にさらされ、平和を奪われようとしている島々に住む、小さな人々をはじめとする東アジアに住むすべての人々を主が助けてくださるよう、主に平和を叫び求めて、わたしたちは祈るのです。

ヨナのしるしとは、主なる神がクジラの腹の中からヨナが祈った祈りを聞かれたように、今、わたしたちが困難の中から、祈り求める祈りを主なる神が聞いてくださることを信じる信仰のしるしです。

小さな6人乗りのたった一隻のボートが東シナ海を平和の海、「共平海」にかえる力を持つでしょうか。いいえ、小さなボートに国際政治を動かす力などありません。5千人の大群衆を前に、たった5つのパンと2匹の魚が何の力にもならなかったのと同じです。ヨナのしるしはファリサイ派の人々が求める「天からのしるし」からは一番遠いものです。

しかし、この小さなボートは、小さなわたしたちを祈りに向けて立ち上がらせます。わたしたちの手にあるわずか5つのパンとたった2匹の魚を差し出させます。朝ごとに、夕ごとに、海を進むヨットを思い起こさせ、ヨナの祈りをわたしたちも一緒に祈るものにします。

世界を創造し、世界を統治し、世界を守り、世界を平和へと導いてくださる生ける神に向けて叫び祈る者、主に対する信仰に固く立つ者たちにします。

わたしたちは神の与えてくださる平和を今、見ていませんが、見なくても信じています。

それは、わたしたちが主イエスの復活を見ていませんが、見ないで復活の主を信じているのと同じです。

この神の平和と救いを見なくても信じる信仰こそが、神の知恵です。

救いを求めて叫ぶわたしたちの叫びを聞いて、神が助けを与えてくださる、その神の助けに預からせていただくのが、小さな、貧しさと弱さの中にあるわたしなのです。神はそのようなわたしたちを助けてくださるお方であることを知る知恵、それが神からの知恵なのです。

バプテスマのヨハネは、彼自身、獄にとらわれ、自由を奪われたまま死んでいく自分が一体何者なのか、わからなくなりそうだったかも知りません。しかし、ヨハネは主イエスを知るとき、自分が誰かを知る知恵を持つようになります。主イエスの十字架の死と復活において、ヨハネは自分自身が何者であるかを知る知恵を持つのです。そして、神を信じ、神を崇め、神を誇りとし、神を喜ぶのです。

使徒パウロがコリントの信徒への手紙で書いているように、イエスの十字架こそ、神の知恵です。神は罪人であるわたしたちを憐れみ、愛して、主イエスの十字架の血によって、わたしたちの罪を赦し、復活の命によって、わたしたちを神の正しさと聖さと贖いに預かって生きるものとしてくださるのです。わたしたちも神の知恵であるイエス・キリストのゆえに、神を信じ、神を崇め、神を誇りとし、神を喜びたいと思います。

父と子と聖霊の御名によって。