聖日礼拝 「遣わされた者」 説教 澤 正幸牧師
使徒書簡 コリントの信徒への手紙(1) 11章1節
新約聖書 ルカによる福音書 6章40節

 

 

ルカによる福音書説教 執事任職式説教
「遣わされた者」 ルカによる福音書6章40節

今日は、この礼拝の中で二人の教会員の方が執事に任職されることを覚えて、今読まれた二つのみ言葉、一つはルカによる福音書6章40節、もう一つはコリント第一の手紙11章1節から主キリストのみ声に聞きたいと思います。

ルカによる福音書6章40節の主の御言葉、 「弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。」

ここに「師」と「弟子」が出てきます。師は教える者であり、弟子は師から学ぶ者のことです。ここで、弟子は一方的に、ただ教えを受けることに終始するのではなく、師のようになることが目指されます。師に、近づいてゆき、師のようになる、そのために十分、修行を積みます。修行を積むとは具体的にどうすることなのでしょうか。
パウロの言葉の中に、「わたしに倣う者になりなさい」と言う言葉が出てきます。弟子にとっての修行とは、師の生き方に倣うこと、師が教えるように教えることだと言えるのではないでしょうか。それゆえに、師のようになろうとする弟子にとっての最終目標は、自分も、自分に倣う弟子を生み育てるようになることだと言えます。

今日は、執事の任職式をしますが、教会では執事の他にも、牧師、長老、また日曜学校教師の任職式をします。任職式をして務めにつく人たちは、いずれも誰かを教え、指導する立場につきます。その指導的立場につく人には、二重の課題があります。

それは、先ほど読まれた使徒書簡に記されたパウロの言葉に「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。」 コリント(1)11:1
とあるように、第一に、自分を務めにつけられたキリストに倣うことであり、第二に、師であるキリストに倣って、最終的に自分に倣う人を生み育てることです。

今日の説教の題は「遣わされた者」と言う題ですが、牧師・長老・執事・日曜学校教師といった人々は、その務めに召されたイエス・キリストから遣わされた者たちです。
その際、遣わされる者は、遣わす者にまさらないと言われますが、遣わされた者の権限は、そのものを遣わす者の持つ権限より必ず小さいのです。遣わされた者の権限が遣わす者の権限より大きいということはありえないのです。遣わされた者は、遣わす者に倣うからです。パウロも、「わたしはキリストに倣う者」であると言います。使徒パウロはキリストの生き様、謙虚さ、苦難、真実を見ることによって、イエス・キリストのへりくだり、苦難、愛に倣うのです。それは、キリストに倣うパウロを見て、人々がキリストに倣うようになるためなのです。

イエス・キリストはその際に、なぜ直接、人々を教えようとはなさらないで、間接的に、使徒などの人間を遣わして、その遣わされた人間を通して教えようとなさるのでしょうか。勿論、私たちには直接キリストを見ることができないという時間的、空間的制約があります。しかし、そう言う制約を超えて、イエス・キリストがわたしたちを教え、導かれるときに、直接にではなく、間接的に人間たちを器として用いて私たちを教え、導かれることの中には、神さまの、わたしたち人間を尊く用い、祝福と栄光に預からせようとする御心とご計画があるのだと思います。そこにある、わたしたちにとって非常に重要かつ、積極的な御心、について、今日、特に学びたいと思います。

使徒がキリストから選ばれ、遣わされて、自らキリストの生き方に倣い、それによってキリストの生き方を伝えますように、執事も同じようにイエス・キリストが人々の僕となって、愛のわざ、憐れみのわざをなさったのに倣い、自らが僕として、慈しみと愛の奉仕に当たります。こうして執事は、執事の原型であられるキリストから派遣されて、キリストに倣って奉仕に生きる僕の姿を示すことによって、自分が遣わされた人々にキリストの姿を生き生きと伝えるのです。

パウロはそのように自分がキリストに倣う者であると言った後、あなたがたもわたしに倣う者になりなさいと、一息で言っています。

皆さん、わたしたちはまず自分がキリストに見倣おうと努めますし、次に人々にもキリストに見倣いなさいと勧めることはできても、果たして、人々に向かってわたしに見倣いなさいと言うでしょうか。
自分がキリストに倣う者であることを務めるということと、人々に向かって、あなたがたも自分に倣う者になりなさいということとの間にはギャップがあって、その二つを一息で言うことには、躊躇いがあるのではないでしょうか。

わたし自身、牧師として、主イエスがわたしを牧師として遣わしてくださったと信じていますし、わたしを遣わしてくださった大牧者であるイエス・キリストに倣う者になりたいと心から願ってきました。しかし、そのようなわたしが、人に向かって、あなたもわたしのような牧師になってくださいと言ってきたか、自分を顧みるときに、決してそうは言ってこなかったことを告白しなければなりません。
しかし、今になって、そのことが非常に深刻な問題をはらんでいたことに気づくようになりました。

今日、どうして牧師を志す人がこんなにも少ないのでしょうか。今、90歳近い年齢に達しながら、昨年から無牧師である小倉教会に応援に来てくださっている三瓶長寿先生は、こう言われます。「自分たちは、戦後、何もないときに、牧師たちの説教を聞いて、自分たちもあのような説教をする牧師になりたいと思って、献身した。果たして、いま、若い人たちが牧師たちの説教を聞いて、自分たちもああ言う説教をしたいと思うような牧師がいるだろうか。」私自身、若い人々に向かって、わたしに倣って、わたしのような牧師になってくださいと、口に出して言って来ませんでしたし、何より心の中で、若い人々が自分のように牧師になってほしいと願ってこなかった、それが正直なところだったと思います。

わたしのことから、クリスチャン全体の話に話を戻してお話しすれば、クリスチャンである自分について、もし、人々に向かって自分のようになってくださいと言わないとすれば、自分についてどう思っているのでしょうか。
もし、自分みたいになってはいけませんと言っているとすれば、それは、自分のために血を流し、命を捨てて、自分を罪と死から贖ってくださった救い主イエス・キリストの恵みなど大したことはないと言って、主イエスを恥じ、貶めることにならないでしょうか。
また、反対に、自分のようになってくださいと周りの人々に言わない中に、あなたたちなんかに、わたしのようなクリスチャンになることなどできませんよと言う、恐るべき高ぶりが忍び込んでしまうことにならないと果たして言い切れるでしょうか。

皆さん、このような自己反省や自己分析はわたしたちを惨めな気分に陥らせるだけです。そうならないためには、目を自分に向けるのではなくて、イエス・キリストに向けること、心を自己反省から、キリストの御言葉に単純に聞き従う方へと切り替えるのが一番です。

わたしたちは、クリスチャンとして、自分自身心から、自分がキリストに見倣い、キリストのように人々を愛し、人々に仕える人となることを願うのではないかと思うのです。でも、それだけでは、キリストがわたしたちを遣わされるときの御心の半分しか満たされていないことになります。あとの半分、キリストに見倣って、人々を愛し、人々に仕えるわたしたちを見て、わたしたちの周りの人々が、わたしたちのようになるために、主イエスキリストはわたしたちを遣わしておられるのです。その主イエスの御心の後の半分が、十分に受け止められていないこと、それに気づかされるのです。

キリストに倣う人になることは、私たち自身の目標、願いであるだけではないのです。わたしたちが遣わされる多くの人々において、それが同じように、その人の願い目標になり、その人たちもキリストのようになること、それが、主イエスが私たちを派遣される御心なのです。

よく、信仰者の親は自分の子どもに背中で信仰を伝えるのだと言われることがあります。親子の間に限らず、クリスチャンでない人々に対しても、わたしは自分がクリスチャンですと名乗らないようにする。なぜなら、クリスチャンだと言いながら、少しも実践が伴わない偽善者になるよりは、黙って、名乗らずに黙々と生き様で示す方が優っていると考える人が多いからだと思います。

しかし、その結果どうなっているでしょうか。クリスチャンだと名乗らないので、周りの人はその人がクリスチャンであることに気づかない、その人が亡くなって初めてクリスチャンだったと聞いて驚く。クリスチャンであることを伏せたまま、生き方でそれを示そうとしたと言っても、その人の周りに、その人のようになりたいと思う人が生まれたと言う話を聞くことは滅多にありませんし、何より、人々がその人を通して、イエス・キリストの名を聞き、知るようになることを望んでおられる、主イエスの御心が無視されることです。

同じことを、別の角度からお話しします。この教会には長い間、聖歌隊はありませんでした。聖歌隊は何のためにあるのでしょうか。素晴らしい賛美を聴衆に歌って聞かせるためでしょうか。もし、聖歌隊であれ、オルガニストであれ、その歌や演奏を人に聞かせ、その素晴らしい歌唱や演奏を聴いた人々が聖歌隊やオルガニストに拍手喝采を浴びるなら、神に栄光を帰すべき礼拝で、人間に栄光が帰せられるという、神に最も忌み嫌われることが行われることになります。
そんなことがおこるくらいなら、初めから聖歌隊などない方がいい、そうこの教会の先輩たちは考えてきたのだと思います。でも、本来、聖歌隊は自らに栄光を帰することためにではないことはもちろんのことですが、自分たちが神さまに賛美を捧げるだけでなく、その最も重要な務めは、聖歌隊の賛美を聞く会衆を励まして、会衆自らも奮い立って神さまを賛美するように、会衆に仕えることにあるのです。
そのとき、聖歌隊は会衆の前に、会衆が賛美において見倣うべき姿を示すことになります。聖歌隊は会衆に向かって、わたしたちのようになってくださいと言うことになります。

教会について、教会に連なる信仰者一人一人について同じことが言えます。
わたしたちの教会、また教会に連なる信者は、自らの栄光を求めてはいません。
パウロは今日読んでいる聖句のすぐ前でこう言っています。10章33節です。これはキリストの生き方です。パウロはそのキリストに倣って、自らの益を求めないで、人の益を求めます。

わたしたち自身にとって、イエス・キリストに聞き、イエス・キリストに倣う者たちとなることは、わたしたちの願いであり、喜びであり、また幸でもあります。それを求めることは、自分の益を追い求めることだと言えます。しかし、本当の意味でキリストに倣おうとするなら、自分がキリストのようになると言う自分の益以上に、人がキリストのようになると言う人の益を求めたいと思うのです。
キリストは、自らの益ではなく、私たちの益を求められます。わたしたちも、わたしたちがイエス・キリストに聞き、イエス・キリストに倣う者たちになるだけでなくて、人々が私たちと同じくイエス・キリストに聞き、イエス・キリストに倣う人になることを求めましょう。

人々が、わたしたちを見て、わたしたちのようになりたいと思うようにするために、イエス・キリストはわたしたちを遣わされるのです。
任職式に当たって、任職される方々だけでなく、長老、執事、日曜学校教師、牧師、さらにクリスチャンとしての信徒ひとりびとりが、キリストから自分が遣わされているのは、人々に向かって自分のようになってくださいと呼びかけるためであることを覚えていただきたいと思います。

私たちすべての目標である、イエス・キリストに倣うこと、それは、難しいことでしょうか。いいえ、難しいことでもなんでもありません。それは、神に愛され、神を愛することであると、一言で言いあらわせることです。

それが難しく感じられるとすれば、それは自分へのこだわりから来ていると思います。自己意識の過剰、ナルシズムは大きな妨げです。それをそぎ落とすこと、自分に死ななければなりません。自分の力で、そのような妨げになるものを取り除くことは確かに困難です。

でも、反対に言えば、神に愛され、神を愛して生きることほど単純、素朴なことはないのです。神さまに素直に、まっすぐに従ってゆくだけのことだからです。

キリストに倣って神に愛され、神を愛すること、私たちがそう生きるだけでなく、わたしたちの周りの人々も、神に愛され、神を愛する人になることを求めて、私たちがそうであるように、あなたがたもそうなってほしいと伝えるためにイエス・キリストは私たちを遣わしておられます。

父と子と聖霊の御名によって。