聖日礼拝『すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 創世記1章1〜5節
新約聖書 マルコによる福音書16章14〜18節

 

先週の説教で、わたしたちは主イエスが弟子たちを遣わされた、派遣命令について聞きました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」。こう言って復活された主イエスは弟子たちに聖霊の息を吹きかけられたのでした。
今日は、先週に引き続いて主イエスの派遣について先ほど読まれたマルコによる福音書16章14節以下のみ言葉によって聞きたいと思います。
15節「それから、イエスは言われた。全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

今日の説教では、主イエスが弟子たちに何を語るように命じられたのか、主イエスが弟子たちに宣べ伝えるように命じられた「福音」とは何かを聖書から聞き取りたいと思います。わたしたちは具体的に人々に何をどのような言葉で伝えたら良いのでしょうか。

使徒パウロはコリント(1)15章で「福音」について次のように語っています。(320ページ)ここでパウロは、キリストが聖書に書いてある通りわたしたちのために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、それが自分の受けた福音、また自分があなたがたに伝えた福音だと言っています。すなわち、イエス・キリストの十字架の死と復活です。十字架の死によって罪が贖われ、罪の赦しが与えられ、復活によって永遠の命が与えられるということです。
キリストの十字架と復活!これがパウロの福音だと言えるでしょう。事実、今日、私たちが読んでいる15節に書かれている命令も、それを弟子たちに語っておられるのは、復活された主イエスです。派遣される弟子たちはキリストの復活の証人と呼ばれます。弟子たちは凧のように、復活の主がその手に糸をしっかりと握って、聖霊の風を受けて、空高く舞い上がるのです。キリストが復活して、いま生きておいでになるのでないなら、糸の切れた凧は空を飛べないし、ぶどうの木につながっていない枝は枯れて実を結べないように、弟子たちはいくら出て行って人々にのべ伝えても、その伝道が何の実りを生むこともないのです。すべては空しい結果とならざるを得ないでしょう。

キリストの十字架と復活。特にキリストの復活が伝えられるべき福音なのだ、そう思って、街角に立って人々に向かって「イエス・キリストは復活して、今も生きておいでになる。」と叫んだとします。こう人々に叫んでみても、果たして人々は耳を傾けるでしょうか。

キリストの復活を人々に宣べ伝えた説教が、使徒言行録に二つ出てきます。一つは、ペトロたちがしたペンテコステの日の最初の説教です。そこで、ペトロは聖霊に満たされて、力強くこう語りました。
「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は復活させられたのです。わたしたちは皆、このことの証人です。神はあなたがたが十字架につけて殺したイエスを主とし、またメシアとなさったのです。」(使徒2:36)
この説教を聞いたエルサレムの人々は、心を打たれて悔い改めて、信仰へと導かれてゆきました。実に3千人の人々がその日洗礼を受けたと書かれています。

しかし、同じくキリストの十字架の死と復活をパウロがアテネで説教したときはどうだったでしょうか。「ギリシャ人たちは死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った」とあり、パウロの宣べ伝えた福音を信じた者は皆無ではなかったものの、ほとんどいませんでした。

同じようにキリストの十字架の死と、その死の中からの復活が宣べ伝えられても、結果は全く違いました。それはなぜであったか、考えてみればエルサレムでペトロの説教を聞いた人々は、その50日ほど前に、主イエスが十字架刑に処せられたことを知っていたに違いありません。主イエスの死に直接関わりがあったかどうか、またそのことに内々心を痛めていたかどうかに程度の差はあったにせよ、説教を聞いた人々にとって主イエスの死は人ごとではなかったと言えるでしょう。それに対して、アテネの人々にとってはどうだったでしょうか。アテネでパウロの説教を聞いた人々は恐らく、キリストの十字架と復活が自分と関わりのあることとは思えなかったのではないでしょうか。

主イエスのことを人々に伝えたいという思い、願いをわたしたちは程度の差はあれ、みんなもっているのではないでしょうか。では主イエスが救い主であることを、人々にどう語るべきか、なんと言うべきか、どうしたら人々にそれが伝えられるのか。これが今日、わたしたちがマルコによる福音書16章15節にある「造られたすべてのものに福音を宣べ伝えなさい」と言うみ言葉を聞くときに、自らに問わずにおれない問いなのです。
イエス・キリストが罪の贖いの死を遂げて、今も生きておいでになること、それが福音の中心だとしても、それをどのような言葉で話せば人々に伝わるのでしょうか。

15節に続いて16節に洗礼が出てきます。信じて洗礼を受けると言われるとき、わたしたちは父と子と聖霊の御名を唱えて洗礼を受けます。と言うことは、ここで信じている信仰は父なる神と、イエス・キリストと、聖霊なる神さまを信じる信仰だということです。
わたしたちは確かにイエス・キリストの死と復活を福音として、最も大事なこととして聞きますが、死んで復活なさったキリストはどなたかといえば、創造主なる父なる神の御子なのです。また復活なさったキリストは、聖霊を通して、今、わたしたちと交わりをもち、わたしたちに恵みを注いでおられるのです。十字架と復活のキリストが救い主だとしても、キリストを信じることは、キリストだけを切り離して信じるのではなくて、キリストの父なる神と、キリストが遣わされる聖霊をともに信じているのです。つまり、使徒信条やニケア信条に言い表されているような信仰です。ですから、わたしたちに宣べ伝えられ、わたしたちが信じている福音とは、三位一体なる神さまについての信仰であると言えます。

そうだといたしますと、わたしたちが福音として宣べ伝えるのが、使徒信条やニケア信条において告白されている創造主なる父なる神と、救い主なる御子イエス・キリストと、慰め主なる聖霊についての福音であるとすれば、それはどう言うことを意味するのでしょうか。わたしたちは人々に具体的にどういう言葉で伝道することになるのでしょうか。

今日は、そのことについて二つのことをお話ししたいと思います。
まず、わたしたちは伝道するとき、神さまを知らない人々にイエス・キリストを伝えると言ったりします。まずそのことから考えたいと思います。

わたしたちには自分の父が一人だけいます。それが誰なのか事情があって不明になったとしても本当の父親は一人しかいません。それは遺伝子を調べればはっきりします。これは生物学上の父親の話です。では、わたしたちがここに存在している、その生命はどこからきたのでしょうか。創造されたのは誰なのか。わたしの造り主なるお方はどなたなのか。肉の父が一人しかいないように、わたしの本当の創造主は一人しかいないはずです。

いや、わたしは創造主の存在など信じないと言う人もいるでしょう。そう言う人は、自分という存在は何なのかを問題にしなければならなくなります。単に自分の存在そのものを問うだけでなく、自分の生きる目的や、どう生きるべきなのか、倫理の問題、すなわち自分にとって何が正しくて、何が間違っているのか、何はすべきで、何はすべきでないのか、それを、何を基準にして生きてゆくのかを自らに問わざるを得なくなります。無神論者の問題はこれ以上話しませんが、神を認めなければ、その人の人生そのものがはらむ虚無、ニヒリズムの問題を抱えざるを得なくなります。

自分を創造されたまことの神、その神を知らない人があっても、知らないだけで、その神は生きておられ、存在しているのです。ちょうど、自分の親の名前も、顔も知らない人にも、本当の父親がたった一人存在するように。ですから、わたしたちが伝道するときに、神さまを知らない人々に伝道するのだというとすると、それは半分は正しく、半分は正しくありません。人々のまことの造り主のことをその人々が正確には知らないだけで、隠れた意味ではまことの造り主なるお方がいることを人々は認めざるを得ないという仕方で知っているからです。

第二に考えたいことをお話しします。15節で「すべての造られたもの」と言われるとき、これは人間をさしています。ただ、父なる神が創造されたものは、人間だけではありません。ここでは人間が宣教の対象ですけれども、宣べ伝えられる福音の内容は、人間だけでなくて、自然世界、神が創造されたすべてのものに関わります。
神が創造されたすべてのものというときに、ニケア信条が創造について告白している二つのことに目をひかれます。一つは、父なる神が「天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主」であるということです。もう一つは、イエス・キリストが「神よりの神、造られることなく生まれ、父と一体。すべては主によって造られた」と告白していることです。

神が創造された「見えないもの」とは何のことでしょうか。今日は十分に時間をとって話せませんが、たとえば霊的存在がそうです。霊的存在は目に見えません。目に見えるものだけでなく、目に見えないものもまた神によって造られた被造物なのです。それは間違って神格化されますが、あくまで神の被造物に過ぎないので、神ではないのです。コロサイ書1章16節に「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られた」と書かれています。わたしたちを支配する力の中で、わたしたちの目に見えない力、その中には悪魔的な力も含まれますが、それらは人間の力を超えており、人間の力では対抗できないので、わたしたちは自分の無力さを嘆き、それに隷属させられることを恐れます。ある意味で自然の力に対しても同じだと思います。しかし、目に見えない霊的な力であれ、自然の力であれ、それらは神によって造られたものであるゆえに、神の支配下にあるのです。主イエスが荒れ狂う風や、波に向かって静まれ黙れと言われたこと、また悪霊たちが、主イエスが命じると出て行ったことを思い起こします。イエス・キリストは自然をも、目に見えない霊的存在をも支配される神の御子、神ご自身なのです。

2022年を迎えて、世界中の人々が様々に危機感を抱いています。二年間続いている新型コロナウイルス感染の拡大がいつ収束するともしれないこと、それによってもたらされる社会的、経済的混乱、また心理的、精神的な苦しみが一方にあります。他方、地球温暖化に伴う異常気象による飢饉、難民の発生があります。このような危機に直面させられている世界に対して、復活のキリストがわたしたちに全世界に出て行って宣べ伝えなさいと命じられる福音は何を語っているのでしょうか。

イエス・キリストはこの世に、すべての人を罪と死から救う救い主としてきてくださいました。その御子イエス・キリストがわたしたちを救ってくださる救いは、魂だけでなく、からだをも救う救いなのです。イエス・キリストは世界の創造主である父なる神からこの世界に遣わされました。そのイエス・キリストは見えるものも、見えないものも造り、今もそれらを保持し、支配される神の御子、神ご自身であられるのです。そのお方が今、わたしたちの救い主として、生きて、わたしたちと共にいてくださいます。これが福音です。

全世界に出て行って、福音を宣べ伝えよ。
わたしたちは、危機に直面して、軋み、呻き、嘆いているこの世界に、創造主であり、この世界を支配し、保持しておられる方、救い主であり、慰め主であるお方の御名によって歩むよう、すべての人々に呼びかけます。このお方に信頼し、このお方を愛し、喜び、このお方を褒め称えながら歩むようにと全世界のすべての人々に向かって宣べ伝えるのです。
わたしたちに出て行って、そう宣べ伝えなさいとお命じになるのは、父であり、御子であり、聖霊であられる神さまです。わたしたちは、そのお方の救いの御手の中で、日々、また永遠に生かされている神さまの証人なのです。

父と子と聖霊の御名によって。