聖日礼拝『わたしは天地における一切の権能を授かっている』 説教 澤 正幸牧師
旧約聖書 創世記12章1〜3節
新約聖書 マタイによる福音書28章16〜20節
今日読んでいる箇所は、英語の聖書では The Great Commission、偉大な宣教命令という見出しがつけられています。偉大という形容詞がつけられるほど、この伝道しなさいという命令は、教会に主から託された、最も重要な課題であり、教会が最優先に取り組まなければならないことだと世々の教会は受け止めてきました。
今月の終わりに、教会総会がもたれますが、総会の一番最初に昨年一年間の教勢報告がなされます。そこでは、教会が昨年主の宣教命令にどう応えたか、その結果が報告されます。教会総会において、一年間の受洗者数が多くあったことが報告される年は、教会は大きな喜びに包まれます。しかし、受洗者がなかったときは、失意と落胆を覚え、悔い改めが促されます。
とても残念なことですが、昨年、福岡城南教会で受洗された方は一人もありませんでした。わたしたちはそのことを主の御前においてどう受け止めるべきでしょうか。福岡城南教会の90年の歴史を振り返ってみますと、受洗者が最も多かった年は、一年で10名以上の受洗者があったと聞いています。ただ、私が牧師として奉仕するようになってもう30年になりますが、その間、一番受洗者の多い年でもせいぜい3、4人でした。一人も受洗者のない年も多かったように思います。毎年、もっと多くの受洗者を生む教会、一人でも多くの人に洗礼を授ける教会でありたいと教会員のだれもが願っておられると思います。
新たに洗礼を受ける人が生まれること、それは非常に大事なことだと思います。でもそれと同時に思わされることは、すでに洗礼を受けているわたしたちにとって、洗礼はもう済んだことなのかということです。洗礼を受けている人にとって、洗礼は、こと自分に関してはすべてが終わってしまっているのでしょうか。そのことを今日は、ご一緒に考えたいと思います。
主イエスは、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」とお命じになられます。世界中のすべての国民が主の弟子として、「父と子と聖霊の名によって洗礼」を授けられることを主は願っておられます。この主の派遣と命令は、「世の終わり」に至るまで続きます。
このような全世界に及ぶ主の宣教命令と世の終わりまで続く派遣の歴史の中に、わたしたちがそれぞれに受けた洗礼はおかれています。空間的には、世界中へと広がる広がりの中で、ここ東の島国日本でわたしたちの洗礼は起こりました。時間的には、世の終わりに至る歴史の一時期に、おびただしい数の人々の受洗者の中の一人として、わたしたちの洗礼は起こったのです。これらのすべての受洗者の全体像を一枚のモザイク画にたとえるなら、わたしたちの一人一人は小さなモザイクのひとかけらに過ぎません。しかし、その小さなモザイクのピース、一つのかけらが欠けたなら、そうです、たった一つのピースが欠けてもモザイク画は完成しないのです。わたしたちそれぞれの受けた洗礼はそのようなものです。
ところで、主イエスは洗礼を授けなさいと言われたのに続けて、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(20節)と言っておいでになります。主によって命じられ、わたしたちが守るべきことの内容は、何でしょうか。それは、一つは祈りであり、もう一つは戒めであると言えるでしょう。主イエスは祈るときはこう祈りなさいと、弟子たちに主の祈りを教えてくださいましたが、わたしたちは、祈りにおいても主から命じられた命令を守ろうとします。この祈りについては機会を改めてお話ししたいと思います。
今日は、もう一つの戒めについて、わたしたちがどう生きるべきかについて、主がわたしたちに教えてくださったことを主として取り上げたいと思います。主イエスは最も重要な戒めは二つだと言われ、そのうちの一つは、自分を愛するように、隣人を愛しなさいという戒めであると言われました。今日は、隣人愛の戒めについて、先ほどお話しした洗礼との結びつきにおいておはなししたいと思います。
わたしたちはだれかが洗礼を受けると、自分のことのように嬉しく思い、喜びます。それはなぜでしょうか。それは、わたしたちにとって、だれかが救われることは自分が救われるに等しいからなのだと思います。それは裏返せば、わたしたちにとって、だれかが救われないなら、自分もまた救われないということを意味しています。
実は、わたしたちが洗礼を受けたとき、それをわがことのように喜んでくれた人がいたのではないでしょうか。それを今はもう忘れているかもしれませんが、そうではなかったでしょうか。たとい、それをしばしば忘れるようなことがあったとしても、それは今も続いていることなのです。つまり、私が洗礼を受け、救われることで、自分自身が救われると思い、わたしたちの救いを我がことのように喜んでくれた人は、私が救われるかどうかに自分の救いがかかっているかのような思いを今もなお私に対して抱き続けている、そのことは、現在進行形で今も続いているということです。ですから、私が途中で信仰を失うようなことがあれば、また神さまから離れたり、信仰の喜びを失うようなことがあれば、それを深く悲しむ人がいるということです。
わたしたちは自分自身の救いに対して責任があります、洗礼を受けたら終わりではありません。私の救いを祈り、私の救いを自分の救いと結びつけるようにして願い、喜んでくれた人を悲しませてはいけない責任があります。その人を本当に喜ばすような信仰者なるということは、信仰生活を全うするまで追い続ける責任だと思います。
私がたまたま先週読んだ「罪なき者の血を流すなかれ」というアメリカに住むユダヤ人の書いた本の中に書かれていたことを紹介したいと思います。その「罪なき者の血を流すなかれ」という本は、第二次世界大戦中、ナチスドイツのユダヤ人迫害を逃れようとしたユダヤ人をかくまい、救ったフランスのル・シャンボンという人口わずか3千人の小さなプロテスタントの村で起こった出来事を、当時の生き残りの人たちから聞き取った証言に基づいて書かれたルポルタージュの本です。著者のユダヤ人であるフィリップ・ハリーという人は同胞を助けられたユダヤ人であって、キリスト教徒ではありません。
その人が、こういうことを書いていました。この人は大学で倫理学を教える研究者でした。少し長くなりますが、引用します。
「ある日の午後、私は、アドルフ・ヒトラーの十二年間にわたる第三帝国に関する文献を読んでいた。私の関心の的は、この時期の政治ではなく、中央ヨーロッパの収容所で行われた残虐行為にあった。それまで、長年の間、私は人間の残酷さについて研究を続けてきた。私のいう残酷さとは、一人の人間の心身をゆっくりとすり減らし、打ち砕く行為である。アメリカにおいて白人がインデアンに、ついで黒人に加えた残虐行為を、ナチの強制収容所での残虐行為と並んで研究対象としてきた。これらの文献には強者が弱者を弾圧するパターンの繰り返しが一貫して見られた。それで、私は、ひどく腹をたてるか、さもなければ、同じパターンの繰り返しにうんざりしているかだった。残酷さに共感を覚えないまでも、私の精神状態は正常ではなかった。・・残虐な行為や死を戦慄も覚えずに眺め、生命をさして貴いものと思わなくなっていたのである。悪の化身に関する私の研究は、まるで牢獄であった。・・呪わしい人々に関する書物を読んでいると、殺人者やその犠牲者たちと同様に、自分自身も呪わしくなる。長年の間に、私はいつしか自分自身を地獄に陥れ、そこから救われることも、そこから逃れる可能性のあることすらも忘れてしまっていた。」
このような心理状態にあったハリーという大学教授は、南フランスの小さな村であったユダヤ人救出の報告書に書かれている記事を読んだとき、自分の頬が涙に濡れてゆくのを、呆然と見つめたのでした。そのことを別の文章でこう表現しています。
「人間は何かに魅せられると、自分もそれに近いものになってゆく。私は長い間、人間の残酷さを調べてきた。そして、ナチスが強制収容所で行なった残虐な行為について調べている間に、いつの間にか、自分が犠牲者や、加害者に成り代わっていることに気づいた。被害者の苦しみを知ると、自分が一緒に苦しんだり、加害者を殺したいと思うようになった。そういう自分が、ル・シャンボンの物語を読み、それに魅せられたとき、私は、自分が再び人間に戻れたことに気づいた。敵であるドイツ人や、ドイツへの協力者の生命すら尊重した人々のおかげで、私もまた人間の生命への畏敬の念を抱くようになったのである。かれらは、私が残虐さに付きまとわれ、責め苛いなまれる人間から、生命そのものを尊重する人間へと生まれ変わるのを助けてくれた。」
ユダヤ人の大学教授であるハリーはそれゆえ、自分の教え子たちにこう語りかけます。
「人々への愛を持つ人々を愛するようになると、自分の命も尊重するようになります。だから、人の命を愛する人たちを愛しなさい。そうすれば、君たち自身も自分自身の生命と人の命を愛するようになり、その結果、人生の楽しさと、最高の喜びである善を会得することができるでしょう。」
わたしたちが洗礼を受けたことの中には、わたしたちが神様の愛、イエス・キリストの愛を知らされ、信じたということがまずもってあるということは勿論のことです。しかし、それだけでなく、それと並んで、わたしたちの周りに、わたしたちの洗礼のために祈り、わたしたちの救いを喜んでくれた、わたしたちを愛してやまない人々がいたことを思い出したいと思います。
そして、わたしたちは自分自身に問いたいと思います。わたしたちが洗礼を受けたものとして、今、ここに生かされているのは何のためでしょうか。それは、わたしたちが多くの人々から愛されて、それらの人々と同じように、隣人を愛し、自分自身を愛する人にされていったように、今度はわたしたちの隣人が神様の愛を知り、信じ、自分自身を愛する人間として回復されてゆくために、わたしたち自身、人を愛することの素晴らしさを証する証人として用いていただくためではないでしょうか。神様はそのための器としてわたしたちを選んでくださっているのだと思います。
わたしたちのすぐ側に、洗礼を受けて、神様から愛される喜び、イエス・キリストの愛、聖霊によって築かれる愛の交わりを知るようになることを、神様が望んでおられる多くの人々がいます。その人たちが洗礼へと導かれるにあたって、あのような人になりたいと思うモデルとなる人としてわたしたちが用いられること、ユダヤ人のハリーが「命を愛する人を愛しなさい」と言った、あの命を愛する人として、わたしたちが用いられて、隣人が救いに至るためのお手伝い、導き手になれるよう、主に願おうではありませんか。
主がわたしたちに洗礼を授けてくださったのは、そのような奉仕を喜んで果たさせていただくため、光栄ある務めにつくためではなかったのでしょうか。
父と子と聖霊の御名によって。