聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第51回「天におられる父」 説教  澤 正幸 牧師

旧約聖書 詩篇16編1~11節
新約聖書 ルカによる福音書 11章1〜4節

 

 

1節

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。

主イエスの弟子の一人が、わたしたちに祈りを教えてくださいと願いました。今朝、わたしたちも主イエスに願い出て、主イエスから祈りを教えていただきましょう。

1節に「イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると」と書かれています。 主イエスは祈りの人でした。主イエスがまだ暗いうちに起きて、一人さびしいところに行って祈り、またしばしば夜を徹して祈って朝を迎えられたと聖書は伝えています。 「祈りが終わると」とありますが、原文ではここには休むという動詞が使われていて、ある聖書はそれゆえに「彼が祈りを中断した時」と訳しています。

このことは、とても大事なことを私たちに教えていると思います。主イエスはこのとき、ご自分の祈りを中断して、弟子に自分の祈りを教えられましたが、それが終わるとまたご自身の祈りを継続されたことを意味するからです。つまり、弟子として、わたしたちが主イエスから祈りを教えていただくということは、主イエスがそれまで祈っておられた祈りに、わたしたちも加えていただいて、主イエスと一緒に、主イエスと同じ祈りを祈るようにしていただくということなのです。ここに主イエスと共に祈りを捧げる一つの群れが形成されるということなのです。

また、1節に「ヨハネが弟子たちに教えたように」とあります。当時のユダヤ人の間には祈りの言葉、例えばヨハネが弟子たちに教えた祈りというものがあって、定められた形式の祈りが会堂の礼拝などで声を合わせて唱えられていました。それらの祈りに対して、主イエスがご自身祈っておられた祈りには違いが、際立った特徴がありました。主イエスの祈りはどのような点で他の祈りと違っていたのか、どんな特徴があったかといえば、祈りはじめの神さまへの呼びかけに最も目立つ違いがありました。主なる神さまに向かって、ただ一言、「父よ」と呼びかけられました。主イエスの使っておられたアラム語で「アッバ」と言いますが、それは子供が親しみを込めて父親を呼ぶときの言葉でした。

主イエスは後の方の11節以下で父親のことを次のように語っておられます。

11〜13節

あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。

ここで主イエスは「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」と言っておられます。皆さんも、自分の子供には良い物を与えようと思われるでしょう。では、もし、たった一つ子供に良い物を与えるとしたら、何を与えようと思われるでしょうか。たった一つ、子供に与える良いものとして、皆さんは何を選ばれますか。財産ですか、それとも教育でしょうか。 あるいは、立場を反対にして、子供である自分が親に、何か一つだけ、最も良い物を願い求めるとしたら、親に何を与えてくださいと言って求めるでしょうか。財産でしょうか、それとも教育を受ける機会でしょうか。

ただ一つ、親が子供に与えたいと願うもの、反対に、子供が親に与えて欲しいと願う良いものとして、わたしたちは何を選ぶでしょうか。 わたしは、その答えは、親が親として生きていてくれること、存在していることであると思います。それが、親が子供に対して与え、また、子供が親に望むただ一つのこと、すべてのものに優って、何ものにも代えがたい願いです。

わたしの父はわずか9歳の時に父親を亡くし、2年後に母親も他界しました。父は常々申しておりました。父親がいない、親がいないということは、子供にとってどんなに辛いことかしれないと。そんな父をクリスチャンだった祖母が、「お父さんがないからと言って悲しがるのではありません。あなたには天に父なる神さまがおられるのだから」と言って励ましたと言います。確かに主なる神さまは「みなしごの父」であられます。

皆さん。神さまがわたしたちに与えようと願われる、最も良いもの、たった一つの良いものは、神さまがわたしたちの神さまであってくださること、わたしたちの父であってくださることです。それが最も良いもの、ただ一つの良いものです。そして、わたしたちが、神さまの子とされ、神さまから愛され、生かされる子どもであること、それがわたしたちの願い求めるたった一つの良いこと、最も良いことなのです。

2節

そこでイエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名があがめられますように。』」

神さまに父よと呼びかけるのはだれでしょうか。それは神さまを父として持っている、神さまのこどもたちです。 ルカは3章に主イエスの系図が記していました。そこを今、改めて開いてみると、主イエスの系図はずっとさかのぼってアダムまで行き着きますが、系図はアダムで終わらないで、さらに神に至って終わっています。アダムは人類の先祖であり、アダムはすべての人間の父ですが、そのアダムの父は神さまなのです。それゆえ、神さまはすべての人の父なのです。

神さまがすべての人の父であること、そのことが認められるということはどういうことでしょうか。すべての人が自分の父は神さまであると認めること、神さまを自分の父として認めて、神さまを父として愛することであり、また、すべての人がお互いを、一人の父をもつ兄弟姉妹であることを認めて、受け入れあい、愛しあうこと、それこそが「御名があがめられる」ということなのです。

これが主イエスの祈り、「主の祈り」なのです。主イエスはその祈りをご自身祈られます。さらに、わたしたちにもこう祈りなさいと言われ、わたしたちが主イエスと共にこの祈りを祈ることを願われます。

しかし、皆さん、わたしたちの目にしている世界の現実は、この祈りからどれほど遠いことでしょうか。肌の色が違うだけで、白人は黒人を差別し、人として受け入れることを拒否してきました。今なおそのような差別が無くなりません。民族の違い、文化の違い、宗教の違いを理由に、互いに排斥しあい、敵対し、憎み合い、命を奪言い合うことさえしています。

先週、テレビで、ナチスによるユダヤ人殺害という恐ろしいホロコーストを生き延びた一人の老人が、今、イスラエルがガザを攻撃していることについてどう思うか、ガザを破壊し続けるイスラエルの人々に何を願うかと聞かれて、ただ一言、「シャローム」「平和」「シャローム」と声を絞り出すように答えるのを聞きました。流血と破壊をやめること、平和を望むとの願いです。

ガザにはシャロームがありません。父なる神の名があがめられるのとはほど遠い現実が世界にあります。でも、主イエスは8節で、喩えをひきながら次のように言っておられます。

8節

しかし、言っておく。その人は友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要な物はなんでも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる。

主イエスは開かずの門の前に立って、ひたすらたたき続けなさいと言われるのです。主イエスの祈りはしつように願う祈りなのです。わたしたちにもしつように願いなさい、門をたたき続けなさいと主イエスは言われます。

「祈りを教えてください。」 祈りを教えていただくとは、主イエスが今も戸を叩き続けるようにして、執拗に祈っておられる祈りを、わたしたちが主イエスと共に祈るものとなることなのです。

父なる神がわたしたちのために、最も良いものとして願っておいでになるもの、すなわち、神さまがわたしたちの父であってくださること、全ての人の父となってくださること、わたしたち全てのものたちが、神さまを父として持つ兄弟姉妹となることを、どうぞお与えくださいと願いましょう。 主イエスが、わたしたちのために願っておいでになることも同じです。主イエスも父なる神がわたしたちのために願っておられることが、わたしたちに与えられることを、執拗に、門をたたき続けるようにして祈っておられるのです。

宗教改革者のルターは主の祈りの最初の祈り、「御名を崇めさせ給え」をこう言い換えました。 「神さまの御名は、それ自体聖なるものですが、わたしたちは、この祈りによって、神さまの御名がわたしたちを通しても崇められるようにしてくださいと祈るのです。」

わたしたちが神さまの子どもたちにふさわしく、父なる神を、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして愛し、また隣人同士、神の子どもたち、兄弟姉妹として、互いに愛し合うことによって、父なる神様の御名が崇められるのです。神様の名が喜ばれ、愛され、高められ、賛美と栄光を受けるようになるのです。そのことを祈り、願い、求め続けましょう。

古代教会の礼拝では、主の祈りは特に聖餐式のときに唱えられました。 すべての人の父であられる神さまが、すべての人を神さまの子どもたちとして招き、愛と命を持って養ってくださる恵みの食卓に、すべてのものが集められますようにと祈るのが、主の祈りなのです。 わたしたちの用いる聖餐式の式文でも、主の祈りが祈られるに先立って、こう祈られます。 (礼拝の栞の8ページ)

「穀物が多くの畑から集められて一つのパンとなり、ブドウが多くの丘から集められて一つの盃となるように、主よ、あなたのすべての教会が地上の果々から、あなたのみ国に集められますように」。

主の祈りは、人々が東から、西から、南から、北から来て、神の国で宴会の席に着く時が来ますようにと祈ります。今もそれを祈っておられる主イエスと共に、また全世界の教会とともに、わたしたちも希望を捨てることなくこの祈りを祈り続けるのです。

神さま、あなたはわたしたちの父、すべての人の父です。あなたの御名を崇めさせてください。すべての人があなたを父として愛し、あなたの子どもたちとして互いに愛し合うようにしてください。かくして世界に平和が、シャロームが満ちますように。

父と子と聖霊の御名によって