聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第47回「隣人になった人はだれか」
説教  澤 正幸 牧師
使徒書簡 ヨハネの手紙(一)4章19~21節
新約聖書 ルカによる福音書 10章25〜37節

冒頭部分の録音が欠けています。テキストからお聴きください。

 

2024年1月7日 ルカによる福音書連続講解説教 第47回
ルカによる福音書10章25〜37節

今日の箇所には有名な「善いサマリア人」と呼ばれるたとえ話が書かれています。30節から35節までです。そのたとえ話を間に挟む形で、ある律法の専門家と主イエスの間に交わされた問答が、たとえ話の前、25節から29節と、たとえ話の後、36節、37節に記されています。前の問答によって、主イエスがなぜこのたとえ話をされたのか、その理由が示されており、後の問答で、主イエスは律法の専門家に、彼がたとえ話をどう受け止めたかを問うておられます。

今日の説教では最初に、真ん中に書かれている主イエスがお語りになったたとえ話を読んでみたいと思います。そのあとで、たとえ話の前に書かれている問答を取り上げて、主イエスがなぜこのたとえ話をなさったのかを考えたいと思います。そして最後に、主イエスが律法の専門家に問われたことを、わたしたちがどう受け止めるべきかを考えたいと思います。

30節
神殿のある都エルサレムからエリコに向かう道はその距離は27キロですが、標高差が1200メートルもあり、相当急な下り道で、徒歩で5〜6時間かかるそうです。追い剥ぎに襲われた旅人はエルサレム神殿で礼拝をささげた後、家に戻ってゆく途中のユダヤ人でした。追い剥ぎとありますが、これは単なる強盗ではなく、当時、熱心党と呼ばれていた人々で、ユダヤ人のローマ帝国からの独立のために戦っていた政治集団の一員を指すと言われています。熱心党は神に奉仕するという名目のもとでは、いかなる代価を払うことも辞さない、自分たちの民族に属するものたちを犠牲にしてでもユダヤ人の自由のために戦い続けようとしていました。彼らは自分たちの存在が危険になったら、手当たり次第なんでも奪いました。相手が同胞のユダヤ人であったら、必要なものだけを奪って、命を奪うことはしなかったと言います。この旅人も抵抗したためでしょうか、ひどい暴行を受け、半殺しにされましたが、命は奪われませんでした。

31、32節
傷つき倒れている旅人の側を、最初に祭司が、次にレビ人が通りかかりますが、二人ともその人を見て、道の向こう側を通り過ぎてゆきます。
祭司もレビ人もエルサレム神殿での礼拝を終えて家に帰る道すがら、この旅人の側を通り過ぎて行ったのです。旅人も礼拝からの帰りに襲われて、そこに倒れていました。どういう理由で祭司とレビ人が旅人を見過ごしにしたのかわかりませんが、ここで浮かび上がる強烈な問いは、どのような礼拝をエルサレム神殿でこの三人は一緒に捧げたのだろうかという問いでしょう。
33〜35節
祭司とレビ人が通り過ぎて行った後に通りかかったサマリア人は、旅人が行き倒れになっているのを見ると、近寄って行きます。ひどく傷つき、血を流しているのを見て、ああ、何ということだと旅人のことを憐れに思います。手当てをします。ロバに乗せて宿屋に連れて行き、一晩中寝ないで介抱します。翌朝、宿屋の人に旅人の介抱を頼み、帰り道にまた寄るからと約束して旅を続けます。サマリア人はたとえ話に登場する他の人たちが全員ユダヤ人である中で、一人だけユダヤ人でない、神を知らない外国人、異邦人と呼ばれる人です。

以上が主イエスの語られたたとえ話です。主イエスはなぜ、この話をされたのでしょうか。

25〜29節
ある律法の専門家が主イエスに質問をしました。(25節)その質問に対して、主イエスは問いをもって、相手に問い返す形で答えられます。(26節)律法の専門家の答えに対して主イエスが、その通りだと肯定し、同意されたのを聞いた律法の専門家が、「では、わたしの隣人とはだれですか」と主イエスに問うたので、主イエスがその問いに対する答えとして語られたのが「善いサマリア人」の喩えだということです。
ここでのやり取りについて幾つかのポイントに絞ってお話しさせていただきます。
律法の中で最も重要な戒めは、神への愛と隣人への愛、この二つであると律法の専門家がここで答えていますが、それは当時の聖書学者たちの間では常識だったそうです。
問題はその二つの関係、その二つが両立するかどうかにありました。先ほどたとえ話を読みましたが、主イエスはその点に焦点を絞って話をなさっていることがわかったと思います。
熱心党の人たちは、神への愛、神に熱心に奉仕することを追い求めますが、隣人への愛は無視しています。それは祭司、レビ人においても言えることです。彼らも神への愛を追い求めようとする点では熱心ですが、隣人への愛はなおざりにしています。それに対して、異邦人であるサマリア人が、それゆえ、神への愛を追求していないと見られている人が、隣人への愛を実行しているということです。そして隣人への愛が実践されているところに、第一の神への愛もまっとうされているということが言われているのだと思います。ヨハネ第一の手紙4章21節の御言葉が語る通りです。
2番目に考えたいことは、永遠の命とは何かということです。「何をしたら、永遠の命を受け継げますか」と問われていますが、永遠の命は地上で行った善い行いに対する報いとして、死後、天国で受けるものと考えられているようです。
すると、永遠の命と見合うような善い行いとは何があるのか、そもそもそのような行いが有り得るだろうかという疑問が湧きます。また、永遠の命とは死後、天国で受ける命だと主イエスも考えておられるのかということです。28節に主イエスのお答えが書かれています。わたしたちの聖書は「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と訳していますので、永遠の命が地上での善い行いの実践に対して死後に受ける報いと考えられる面を残していますが、原典は必ずしもそうとは読めません。直訳すれば、「それを実行しなさい。そうすればあなたは生きるだろう」です。永遠ということは、死後の天国の命だけでなく、今の地上の命を含まないと永遠ではあり得ません。永遠の命とは、今、ここで、地上においてであれ、死後いただく命であれ、永遠に生きられる、永遠に変わることのない神さまがわたしたちに与えてくださる命のことです。今、神さまがわたしたちをどのように生かしてくださるか、神様からの恵みとして与えていただく命ということ抜きにして、永遠の命を語ることはできないのです。
律法の専門家と主イエスの問答で最後に指摘したいのは、そもそも律法の専門家は主イエスに教えを乞うつもりがなかったということです。「立ち上がり、イエスを試そうとした」という表現、ここには律法の専門家の主イエスに対する敵愾心が表されています。主イエスの権威を失墜させ、失脚させることを狙っていたということです。
どうして律法の専門家は主イエスに敵愾心を抱いたのでしょうか。先週読んだところに「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」という言葉がありました。天に名が書き記されているということは、永遠の命を受けるということと同じです。そこで、主イエスは天に名が書き記されている、永遠の命を受ける人として誰を挙げられたでしょうか。知恵ある者や賢い人ではなく幼子のような者を主イエスはおあげになりました。
律法の専門家たちは、「幼な子」者の数に入らない、取るに足らない存在の典型として、主イエスの弟子たちを見ていました。彼らは、ガリラヤ出身の漁師であり、無学のただ人でした。
そんな「幼な子」のような弟子たち、知識も知恵も、学識も誇れるようなものを何も持っていないものに永遠の命を受け継ぐためになすべきことができるはずがないではないか。もしそんなことになったら、自分たちは何のために研鑽を積み、生涯、努力を積み重ねてきたのか。彼らは律法の学びに命をかけてきた人たちでした。
しかし、そもそも、天国で永遠の命を受け継ぐにふさわしい善い行いなどあり得るのでしょうか。いかなる善い行いも永遠の命と釣り合いがとれないことは明らかではないでしょうか。永遠の命とは、その名を天に記されることと同じく、神様の一方的な愛と選びによるものだからです。

最後に主イエスと律法の専門家との最後の問答を取り上げます。
36、37節
たとえ話の最後に主イエスが律法の専門家に対して問われた問いは、たとえ話が始まる前に律法の専門家が問うた問いと食い違っています。彼が「わたしの隣人とはだれですか」と問うたのに対して、主イエスが最後に彼に問われたのは「あなたは、だれが追い剥ぎに襲われた人の隣人になったと思うか」でした。
先週も主観的喜びと客観的喜びを区別するという言い方をしましたが、今日も、主観的な問題の立て方と、客観的な問題の立て方の違いということを考えたいと思います。主観的問題の立て方というのは、自分を中心にした考え方です。ここで律法の専門家は、自分の判断を基準として、だれが自分の隣人かを問うています。その背後には自分が何をしたら永遠の命を得られるかという問題の立て方があります。隣人の範囲を限定しないと永遠の命を得ることが難しくなるという計算がここに働いているのでしょう。
しかし、主イエスは別の問題の立て方をなさっています。あなたに助けを求めている人がいる。サマリア人は傷ついている人の中に、自分が隣人になってくれるのを待っている人、サマリア人が隣人となって助けてくれるのを求めている人を見ます。困窮の中にある他者が、あなたがその人の隣人になってくれることを求めている。
そして、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われる神もまた、その傷ついた人の中からあなたが隣人となることを要求し、傷ついた人の隣人となってその人を愛する命を与えようとしておられるのです。
これが永遠の命とは何か、隣人とは誰かを問う時の主観的問題の立て方ではなく、現実に即した問いの立て方、神がわたしたちを生かし、用い、働かれることを問う、客観的な問いの立て方です。神がわたしを誰かの隣人として用い、わたしがその人の隣人となってその人を愛させてくださる、そのような命も、命に至る道も、すべては向こうから神の方からやってくるのです。わたしの方からは何も始まりません。神は生きておられます。

賛美歌487番の3節にこういう歌詞があります。
「主の愛された すべての人が 私の隣人」
わたしは先週の礼拝で聞いた「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」という御言葉に、礼拝の後、数日してからハッとさせられました。
単数形で「あなたの名が」でなくて、複数形で「あなたがたの名が」となっているということです。あなたがたというのは、わたしたちにとって、わたし以外のだれのことでしょうか。

あなたがたというのは主イエスが愛されているすべての人のことだと思います。その人のゆえに喜びなさい。あなたがたは喜ぶことができる。
「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

天地が創造される前に、私たちが生まれる前に、わたしたちをキリストにあって愛し、神の子としようとわたしたちを選び、その名を天に記してくださった神をほめたたえます。父なる神は幼子のようなわたしたちを受け入れ、神さまが与えてくださる永遠の命のうちに、私たちが神さまと隣人を喜び生きるようにしてくださるのです。

父と子と聖霊の御名によって