聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第46回「喜びなさい」
説教  澤 正幸 牧師
旧約聖書 イザヤ書11章6~10節
新約聖書 ルカによる福音書 10章17〜24節

今日は一年の最後の礼拝です。毎年、一年の最後の祈祷会では、一年を振り返って一番こころに残ったことをめいめいが、短く話し、それを聞いて祈りを合わせるようにしてきました。今年の祈祷会では、それをしなかったのですが、今朝、この礼拝にあたって、それぞれに一年を振り返る時を持てたらと思います。
みなさんにとって、今年、一番心に残ったことは何でしたか。悲しかったこと、辛かったことが一番の思い出として思い浮かぶかも知れませんが、一番嬉しかったこと、もっとも大きな喜びは何だったでしょうか。

今日読んでいる箇所で、72人の弟子たちが、主イエスから遣わされた宣教の旅から戻ってきたとき、彼らは喜んで帰ってきました。17節です。
彼らが喜んだのは、主イエスの名によって遣わされた彼らに、悪霊までもが屈服するのを経験したからでした。72人は主イエスによって派遣された伝道旅行で、自分たちが成果を挙げられたのがとても嬉しかったのです。一年を振り返ってたくさんの受洗者や求道者が与えられ、礼拝出席者が増えたなら、わたしたちも喜ぶでしょうから、このときの弟子たちの嬉しい気持ちはわかる気がします。

それに対して主イエスはこう答えられました。18〜19節。
主イエスは72人の弟子たちが派遣されて、活動していた間に、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていたと言われました。悪霊のかしらであるサタンの支配と権威が失墜して、決定的な敗北を喫するようになったのを見ていたと言われたのです。
悪霊が自分たちに服従するのを弟子たちが大きな喜びとしていることは十分理解できる、だが、しかし、と主イエスは最後に言われます。20節です。

あなた方は自分たちの伝道が成功したことを喜んでいる。しかし、だからと言って、それを喜んでいてはならない。あなた方が喜ぶべきことは、それよりもあなたがたの名前が天に書き記されていることである。そのことを喜びなさい、と言われたのです。

「あなたがたの名が天に書き記されている」とはどういうことでしょうか。
受験をして合格発表の日に、自分の番号を見に行った経験のある方は覚えておられるでしょう。そこに自分の番号がなかったとき、何度も、何度も自分の番号の前と後を見て、自分の番号が書かれていないのを見た経験をされた人は、自分の名前がそこに確かにあった時の喜びを知っています。

天に自分の名が書き記されているとは、神が自分をご自身の子どもとしていてくださること、自分が神から愛される子として選んでいただいたという意味です。自分は神から愛されているということです。

わたしたちには喜びとすることはたくさんあり得ます。しかし、自分の方から、自分の外にある物とか、自分以外の人を喜んでいる、それを主観的な喜びと呼ぶとすれば、主観的な喜びではなくて、自分が誰かから喜ばれていること、自分が誰かの喜びの対象とされている事、それを主観的な喜びに対して、客観的な喜びと表現すれば、自分が何かを喜んでいる主観的な喜びよりも、自分が誰かから喜ばれている客観的喜びの方が、わたしたちにとってより大きな、より重い喜びではないでしょうか。ましてや、わたしたちが主イエスから愛され、わたしたちが主イエスの喜びとされるものであることに優る喜びはありません。神様から喜ばれていることより大きな喜びはないのです。

主イエスが喜びにあふれて、父なる神をほめたたえた祈り、聖霊にあふれつつ祈られた祈りが21節に書かれています。
この祈りの後半部分の「そうです」以下を交読文のようにして唱えても良いような祈りです。主イエスが父なる神をほめたたえる理由、主イエスが喜びにあふれている理由は、父なる神が「これらのことを知恵ある者や賢いものには隠して、幼子のような者にお示しになった」ということです。
幼子というのは、まだものごころもついていないような子どものことであり、ユダヤ人社会では人数に入らない存在でした。それゆえ、ここで主イエスが幼子のようなものと言われた人たちには、ユダヤ人社会で人数に数えられなかった、社会的に重んじられることなく、軽んじられ、無視されていた他の人たち、女性、寡婦、徴税人、遊女、またユダヤ人から神なき罪人と見られていた異邦人たちが含まれていると言えるでしょう。
無学のただの人と呼ばれていた弟子たちも、当時のユダヤ人社会で尊敬されていた律法学者からは幼子同然と見下されていた人々でした。しかし、そのような弟子たちが、知恵ある者や賢い者ではなく、幼子のような者たちでありながら、自分たちが神様に愛され、神様の喜びとされていることを知らされていること、それが主イエスの喜びの理由、主イエスが父なる神を賛美される理由なのです。

わたしたちから喜びを奪ってゆく恐るべき存在、わたしたちに悲しみと苦しみを与えるサタンや悪霊は、わたしたちにとってもっとも恐ろしい存在ではないでしょうか。先に、主イエスはサタンが稲妻のように天から落ちたと言われました。サタンが天から落ちたということは、サタンがそれまで天に、空中に存在していたということです。空中にいたとは、神さまとわたしたちの間を遮るようにして、ちょうど太陽が天にあっても、黒い雲で頭上が覆われれば、太陽の光が地上に届かないように、サタンが空中にいて、神様が天から差し伸べてくださる愛と守りの御手を届かないようにしていたということです。しかし、今や主イエスの名によって、サタンは追い払われたので、神さまとわたしたちの間を遮る者はいなくなったということです。主イエスの名によって二人または三人が集うところには、主イエスは共にいてくださり、主イエスがともにいてくださるところに、父なる神さまが共にいてくださるのです。

それでは、サタンはもはやわたしたちを攻撃することも、わたしたちに悪を行うこともなくなったのでしょうか。18節の「サタンが天から落ちた」という言葉の意味は、サタンは天から落ちた後、地上の世界に降りてきて、世界と歴史の中で活動を続けるという意味なのです。ただし、地上でサタンがいくら悪巧みをなし、わたしたちに災いや悲しみを与えても、サタンにはわたしたちと神さまとの間を切断することはもはやできないということです。

わたしたちは個人としても教会としてもサタンからさまざまな試みを受けることがあります。実際、たくさんの試練を経験してきました。でもその試練を通して知るようになったことがあります。それは、サタンはわたしたちを悲しませ、苦しめます。でも、神さまの愛がサタンの試みに勝利しているということです。サタンによって受けた試練を振り返ると、確かにそういうことができます。あのペトロもサタンによって非常に大きな試みを受けました。敗北もしました。二度と立ち上げらないのではないかと思えるような挫折を経験させられました。でも主イエスの愛、また主イエスにおける神の愛からペトロを引き離すことは何ものによってもできませんでした。

わたしたちは何を喜びとしているのでしょうか。一年を振り返って、何が一番大きな喜びだったでしょうか。
今朝、一年の終わりの礼拝において、もう一度み言葉によって、主イエスのみ声に聞きましょう。20節。
信仰者としても教会としても具体的にあれこれの成果が上がったことは喜びには違いありません。しかし、主イエスは言われます。それを喜んではならない。むしろ「あなた方の名が天の命の書のなかにしっかりと刻まれていることを喜びなさい」と。
神がわたしたちを愛してくださり、喜びとしてくださっているのは、わたしたちが知恵を持っているからでも、知識を持っているからでもありません。幼子のように、小さく、弱く、取るに足らない者たちであっても、幼子のように、小さく、弱く、取るに足らない者たちのために御子を、小さく、弱く、取るに足らない幼子としてこの世に生まれさせ、しかし、この幼子のようなものがご自身の全能の父としての愛に預かっていることを神さまはわたしたちに示してくださいました。
主イエスは弟子たちの方を振り向いて言われます。23、24節。

父と子と聖霊の御名によって。