待降節第二聖日礼拝 ルカによる福音書連続講解説教 第44回「主とその弟子その2」
説教  澤 正幸 牧師
旧約聖書 詩篇39節13節
新約聖書 ルカによる福音書 9章57〜62節

 

2023年12月10日 ルカによる福音書連続講解説教 第44回
ルカによる福音書9章57〜62節

今日読む57〜62節は、主イエスに従って行くことをテーマとしています。三人の人が登場します。最初の人は自分の方から主イエスに従って参りますと申し出て、「あなたがおいでになる所ならどこにでも従って参ります」と言い、二番目の人は、主イエスの方から「わたしに従いなさい」と言われていますが、いずれにせよ、三人が三人とも、主イエスに従うに際して、主イエスからとても厳しい覚悟を求められています。

そのことで思い起こすのは、「富める青年」と呼ばれる人のことです。その人は主イエスに従いたいと願いつつも、主イエスから突きつけられた要求の厳しさに、悲しみながら立ち去って行きました。主イエスは「自分の持っている物を売り払い、貧しい人々に施し、それから、わたしに従いなさい」と言われ、その人はたくさんの財産を持っていたために、悲しみに顔を曇らせて、主イエスに従うことを断念したのでした。
主イエスに従うことを諦めた金持ちの人と比べても、今日読む箇所に登場する三人の人が主イエスに従うために乗り越えなければならないハードルは、決して低いとは言えないでしょう。

先週の説教でも申し上げましたが、聖書を読むときは、その前後の文脈、コンテキスト、前後のつながりに注意して読むことが肝要です。今日の箇所についても同じことが言えます。
57節は「一行が道を進んでゆくと」と始まっていますが、主イエスと弟子たちは51節にありますように、このときエルサレムに向かう旅の途上にありました。そして、その途上で52〜56節に書かれているように、サマリア人の村人が主イエスたちを歓迎しなかった、つまりサマリア人の村で、主イエスたちが泊まる宿を得られないということが起こりました。
その理由は、サマリア人とユダヤ人とは別々の神殿で、別々に過越の祭りを守っていたので、エルサレムの神殿で過越の祭を守る巡礼として村にやってきた主イエスをサマリア人が受け入れなかったのは宗教上の、信仰上の違いからくる民族的対立のためだったのです。それを見た弟子たちはサマリア人に対して怒りを覚え、まさに宗教戦争のような考え方で、サマリア人に対する神の名による復讐を考えました。

57節に「一行が道を進んでゆくと」とある、主イエスが進んでゆく道の途上では、一方に主イエスを受け入れようとしないサマリア人がおり、他方にはそれを怒る弟子たちがいました。サマリア人は、主イエスが自分たちの神殿で過越の祭を守ると言えば、諸手を挙げて主イエスを歓迎するでしょう。しかし、彼らは主イエスがエルサレムに行かれる以上、主イエスを受け入れません。主イエスはサマリア人から受け入れられませんが、かといって、主イエスの反対者を滅ぼしてしまえば良いと主張する弟子たちの側に立つこともなさらないのです。主イエスはそのどちらか一方の側に立つことはなさらないで、いわばその真ん中を前に向かって進んでゆかれるのです。

わたしは、今日読む箇所でも、それと似た構造、形があると思いました。一方に、主イエスの言われることに反発する思いがあります。主イエスに従う弟子になるための覚悟が厳しすぎると言って反発し、そんなことでは無理だと言って諦めようとする思いがあり得るでしょう。あの金持ちの青年がそうでした。
しかし、悲しみに顔を曇らせて立ち去る人を見て、こう言ったのはペトロです。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」(マルコ10:28)
そう言い放ったペトロのように、主イエスの言われることがどんなに厳しくてもそれに従うべきなのだ、それを受け入れようとしない者は主イエスにふさわしくない、要するにダメな人たちなのだ、と言って切って捨てようとする人たちがいるのです。しかし、こう言い放ったペトロ自身が最後にダメな人間の一人になってしまうことを、ペトロはこの時は予想だにしていなかったのでした。

エルサレムを目指して進んでゆかれる主イエスは、主イエスを受け入れないサマリア人と、サマリア人を批判する弟子たちの中間に立って、対立し合ういずれにも与しようとはされないのです。主イエスが進まれる道はその中間を縫って、両者を和解させて、一つにする道だと思うのです。主イエスは、ご自身を受け入れようとしない人からの反発を和らげようとして、反対者に迎合することや、反対者と妥協するようなことはしませんが、かといって、弟子たちが主張するように、その人々を切り捨て、断罪し、ましてや呪うようなこともなさらないのです。

これから3つの場合について、主イエスの進んでゆかれる道がどのような道かを見てゆきたいと思います。それが、主イエスに従うものが、主イエスの後に従って歩む道だからです。

57、58節。
先ほども指摘しましたが、主イエスはサマリアの村で泊まる宿を得られませんでした。
泊めてもらえる宿がないという経験を、明治時代、九州の柳川に何度も足を運んだトマス・アレキサンダー宣教師がしたことが宣教師の残した日記に書かれています。アレキサンダー宣教師は大阪を拠点にして伝道していましたが、柳川や長崎を訪れる時、船を使って海路を移動したり、陸路を使って旅をしたりしましたが、宿場で旅館に泊めてもらえず、やむなく廃屋となったお寺などで夜を過ごさざるを得なかったと日記に書かれています。
なぜ、旅館に泊めてもらえなかったのでしょうか。同じ明治時代に書かれた島崎藤村の「破戒」という小説に、被差別部落出身の主人公が、自分が部落出身であることを隠して泊まっていた宿に、被差別部落の人が客として泊まったことがわかり、町中が大騒ぎになり、旅館の主人が町の人に被差別部落の人を泊めたことを詫び、今後、二度とそのようなことはしないと言う場面があります。
宣教師の場合も、外国人である宣教師を宿屋に泊めれば、他の客が寄り付かなくなる、そうなれば、旅館が潰れてしまう。それで宿泊を拒否されたのだと思います。
それは何も被差別部落の人や、キリスト教の宣教師だけのことではなくて、最近までハンセン氏病患者の宿泊を断る宿が少なくなかったのと同じ理由です。
そのように、人を、民族を理由に、あるいは病気を理由に受け入れることを拒むとしたら、そのようなことをする人の家族や自分自身が病気になったとき、また外国を旅行するとき、宿泊を拒まれる悲哀を味わったらどう思うでしょうか。

58節の主イエスのお言葉は、狐にさえ穴が与えられている、空の鳥にもねぐらとする巣がある。けれども、それすら与えられず、寒空の下で凍える人、雨露をしのぐ屋根もないところで寝なければならない人々は現に大勢いるのです。主イエスは人の子として、それらの家なきひとの一人となられました。主イエスが進んで、帰る家、枕する所もないような人たちの一人となられたのは、それによって、地上に歩む人の子として、その人たちをご自身のもとに迎え入れ、さらに復活するお方として、天の父なる神のもとに、その人々を迎える永遠の住まいを備えるためでした。

59、60節
この人は、主イエスに従わないとは言っていません。ただ、主イエスに従うことの前にどうしてもしておきたいことがあると言うのです。「まず」、父を葬りにゆくことを許して欲しいと願い出ます。しかし、主イエスは厳しくもその願いを斥けられました。
親を葬ることは、人として果たすべき当然の義務として、当時の社会でもすべてに優先させることが認められていたと言います。それゆえ、主イエスのこの言葉は現代のわたしたちだけでなく、当時の人々にとっても躓きとなりえたと思われます。なぜ主イエスは躓きとなるようなことを言われるのでしょうか。

一つは十戒の第一の戒めです。神を神とすること、このことに優先することがあるのかと言う問いかけです。主イエスに従う道は、神を神とすること、神以外の何物をも神としないと言う道を選ぶことだとすれば、それに優先することが果たしてあるのでしょうか。
親を葬ることは、神を神とすることに優先させられるべきことなのでしょうか。

親を葬ることは大事なことです。でもそれは「あなたの父と母を敬え」とお命じになられる神への服従としてそれをするのだと思います。神が神であられることと無関係に、それを抜きにして、極端に言えば、親を神にとするような仕方で親を葬ることは正しいことでしょうか。

「わたしに従いなさい」と言われるお方はやがて死者の中から復活されるお方です。このお方が先立って行き、復活の主がその人とともに葬りの場に来てくださるのでないならば、父の葬りは、「死人が死人を葬っている」葬りであるに過ぎないのではないでしょうか。主に従うところにこそ、よみがえりがあり、希望があり、永遠の命の喜びと栄光と神への賛美が訪れるのだからです。

第3の場合です。61〜62節。
この人も家族にいとまごいをすることを、主イエスに従うことに優先させることを許して欲しいと願います。その点では、先ほどの人と同じことを問い返されなければならないでしょう。果たして神を神とする第一戒よりも、そのことが優先するのかと言うことです。

家族にいとまごいをすることは、決してゆるがせにして良いことではありません。戦争にゆく兵士が、また遠い外国に旅行に出かけて行く人が、家族に別れを告げずに出かけて行くことはできません。愛する妻、子ども、両親との別れは、家族がかけがえのない存在であるゆえに、人として当然すべきこと、ある意味で何よりも大切なことだと思います。

ここで「いとまごい」をすると訳された言葉の原語には、別れを告げると言う以外に、捨てると言う意味もあります。主イエスに従う人は、家族を捨てて、主イエスの後について行くことを求められると言うことでしょうか。もし、そうなら家族を捨てて行く本人にとって、それは深刻な問題ですが、それと共に、おそらくそれ以上に捨てられる妻や子どもの身になってみれば、それはさらに深刻ではないかと思います。

62節の、「鋤に手を掛けて後ろを振り向く」と言うのは、鋤で畑を耕した結果、出来上がった畝がまっすぐかどうか後ろを向いて確かめると言う意味があります。しかし、出来上がった畝がうまくできていたとしても、いつまでも後ろを向いたままで、前を向かなければ、新しい畝を耕すことはできないのです。

信仰者にとって家族の救いは重要なことです。パウロがフィリピの獄吏に行った、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と言う言葉は、大きな慰めと希望の約束です。しかし、その約束の実現はあくまで将来のことです。それゆえに、わたしたちは後ろを振り返るのではなく、前を向いて、主イエスの後に従って進んで行くのでなければ、約束が実現する日を迎えることはできないでしょう。わたしたちにとって大事なのは、わたしたちの後ろに出来上がった成果でしょうか、それとも、それを生み出すようにと主が日毎に新しく与えてくださる恵みの、どちらでしょうか。

「神の国にふさわしくない」の「ふさわしい」と言う言葉の原語は「役に立つ」と言う意味もあります。神の国は向こうから来るもの、向こうからこちらに向かってきたりつつあるものです。後ろばかりを向いている人、過去にこだわって、過去の実績や成果ばかり誇っている人は、神の国が向こうから来るのを待つことも、迎えることもできないので、神の国にとって役に立たないのです。

待降節に入りました。町中にクリスマスのイリュミネーションが輝き、クリスマスツリーが飾られています。クリスマスがイエス・キリストの誕生を祝う日であることすら知らない人々がクリスマス、クリスマスと言って騒いでいるのは軽薄なことだと言って教会が眉をひそめて批判するのはわからなくもありませんが、そういって社会を冷たく批判する教会が、街の人々と比べてクリスマスを、より熱心に心を込めて喜び祝っているかは別問題として問われなければならないでしょう。

先に、弟子たちが自分たちだけが主イエスの名を独占的に使用することを許されているのだと主張し、自分たち以外の者が主イエスの名を使うのを禁止しようとしたとき、主イエスはそのような考え方は間違っていると言われました。
クリスマスを口にする人々の間に、神の国を待ち望む願い、平和の到来を祈る祈りが少しでも宿っているのであれば、わたしたちは主イエスの名が人々によって唱えられのを喜び、主イエスの名における神の国の到来をいよいよ待ち望みたいと思います。

わたしたちが従う主イエスは、すべての人のために神の国が訪れるように祈り、願い、仕えつつ生きられたお方であり、今もそれを願い、祈っておられるお方です。エルサレムで十字架の死を遂げて、そこから天に上げられる道を歩まれた主イエスは、ご自身を受け入れないサマリアの人々を、弟子たちが願ったように滅ぼすようなことはなさいませんでした。それは、主イエスの十字架の道が、主イエスを受け入れようとしない人々のためにも天への道を開いてゆくためのものだったからです。

主イエスの後に従う主の弟子たちも、今のわたしたちも、主イエスの道はすべての人を救いへと招くための道だったことをしっかりと知る者とされたいと思います。わたしたちの主の後に従って到達する終着点、ゴールは、神の国です。そこは、わたしたちの家族が、周囲の人が、人々の間に家も家族も持たないホームレスの人々が、主イエスにおいて地上で受け入れられ、天において神の家族とされるところです。その神の国は向こうからきたりつつあります。それゆえに、後ろを振り返らず、主イエスの御後に付き従って、神の国を目指して、前に向かって進んでゆきたいと思います。

父と子と聖霊の御名によって。